日々の音色とことば

VIVA LA ROCKと、今や「失われつつある文化」かもしれないフェスの速報レポート職人としての挟持のこと

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ゴールデンウィークは5月3日から6日にかけて「VIVA LA ROCK」の4日間、フェスのオフィシャルの速報ライブレポート「FLASH REPORT」を担当していました。

 

フェスはこれで6年目。初年度からずっと書き続けています。正直、これ、体力的なところも含めてすごく大変な仕事ではあるのです。会場を駆けずり回るし、だいたいライヴが終わった15分後~20分後くらいに書き終えないと次のアクトが始まってしまうし。ただ、やり甲斐も、意義もあることだと思ってやってます。

 

とはいえ、「フェスのクイックレポートなんていらない」って声があるのもわかるのよね。というのはなぜかというと、薄っぺらいライブレポートなら、ツイッターの感想を集めてまとめたものを読んだほうが、よっぽど率直で嘘のないものなわけだし。一方で、ナタリーのように、その場にあった事実をきっちり客観的に伝えるウェブメディアもあるわけだし。

 

実際、ROCK IN JAPAN FESTIVALやCOUNTDOWN JAPANやJAPAN JAMといったロッキング・オン主催のフェスでは、初期からずっとやってきたクイックレポートに文章を載せるのをやめちゃったわけだし。「全てのアクトのフォト&セットリストを会場からお届けします」と銘打ってるし。いまやフェスのステージを観て15分後にそのライブレポートを書き上げる職人技なんて「失われつつある文化」なのかもしれない。

 

でもね。僕自身はロッキング・オンで社員だった時代からもう15年以上この仕事をしてるし、今ではなかなか忙しくなったし、おかげさまでいろんな分野の仕事も増えたけど、それなりに愛着も、職人としての誇りもあるつもり。そして「VIVA LA ROCK」の主催側、鹿野さんと『MUSICA』の有泉さんに対しても、この「FLASH REPORT」が、フェスがメディアとして機能するための一翼を担うと考えて、自分にオファーしてくれるんだろうという勝手な気持ちもある。

 

だからこそ、できるだけ表面だけをなぞるようなレポートじゃなく、オフィシャルサイトに掲載される文章であるがゆえに果たさねばならない「そのフェスの物語の中での位置づけ」としての役割と、署名付きの原稿として書くものであるがゆえの「自分が何を感じて何を受け取ったか」という主観を、限られた時間の中で可能な限り形にするようにしています。

 

そして、ビバラのフェスのレポートは、とりあえずフェスが続くかぎりアーカイブされるという信頼を運営サイドに抱いてるし、実は書いてるライター陣もずっと同じ面々なので、「速報」が積み重なることで「歴史」になると思ってやってます。

 

ベンジャミン・ブラッドリーの言う「ニュースは歴史の最初の草稿である」というジャーナリズム精神を、そこまで大それたことじゃないかもしれないけれど、でも心のどこかに挟持としてちゃんと持って、ステージに立つアーティストたちと向き合ってるつもりです。

 

というわけで、4日間で書いた原稿のいくつかの抜粋を。

 

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日々の音色とことば 2019/05/09(Thu) 11:10

1998年という「音楽シーンの特異点」、そして、その時にhideがいた場所

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5月2日は、hideの21回目の命日。

毎年開催されてきたhideを偲ぶ会のことは、ニュースにもなっていた。

www.asahi.com

 

僕自身は、リアルタイムでリスナーではあったものの、熱心に追いかけてきたファンだったというわけではない。

 

それでも、ここのところ、平成の日本の音楽のヒストリー、特に00年代以前には強くあった「洋楽と邦楽の壁」という問題について考えているときに、hideの存在がとても重要だったんだということを改めて考える機会があった。

 

そして、hideが残した「ピンク スパイダー」という一曲が、いろんな意味で時代の先を行っていたんだ、と考えるきっかけがあった。

 

というのも、最近、『オルタナティブロックの社会学』を著した南田勝也さんが編著に携わった『私たちは洋楽とどう向き合ってきたのか――日本ポピュラー音楽の洋楽受容史』という本を読んだから。

 

 

私たちは洋楽とどう向き合ってきたのか――日本ポピュラー音楽の洋楽受容史

私たちは洋楽とどう向き合ってきたのか――日本ポピュラー音楽の洋楽受容史

  • 作者: 南田勝也,?橋聡太,大和田俊之,木島由晶,安田昌弘,永井純一,日高良祐,土橋臣吾
  • 出版社/メーカー: 花伝社
  • 発売日: 2019/03/20
  • メディア: 単行本
  • この商品を含むブログを見る
 

 

とても興味深く、おもしろい一冊だった。

で、この本の序章には「洋楽コンプレックス」というキーワードがある。

 

ここで洋楽コンプレックスを取り上げているのは――誤解を恐れずに言えば――それが「甘美な」経験だったからである。到達目標とするアーティストの音楽性や技巧面だけでなく、思想や社会性までも西洋の音楽側に置き、ほんものの証や音楽の崇高さは「いま・ここ」にいては得られないと駆り立てられる気持ち。日本での人気に安住せず、物まねを脱してオリジナリティを捻出し、世界にエクスポートしようという気概。あるいは日本の音楽のクオリティやレベルに悲観しているがゆえに、西洋に匹敵すると判断できる日本人ミュージシャンを必死で探し出そうとする音楽ファンの試み。これらの感覚は、単に劣等感ではなく、差異化・卓越化の源泉となり、競争的状況を生み、音楽への没入へと誘うものであった。日本が音楽消費大国であるのは、つねに一歩先へ行きたいとするそのような衝動が駆動しつづけてきた所為である。

 

ここが、とても膝を打ったポイントだった。

コンプレックスというのは単なる劣等感ではない。むしろ憧れとないまぜになったその感情があったからこそ日本の豊かな音楽カルチャーが育ってきたのだ、ということだろう。

戦前のジャズやビートルズ初来日など、様々な時代における「洋楽と邦楽の関係性」が語られるこの本だけれど、個人的にもリアルタイムの記憶と共に最も面白く読んだのが、『ロックフェスの社会学』の永井純一さんが書いた「フジロック、洋邦の対峙」という章だった。そこにはこんな記述がある。

 

日本初の「本格的」な野外ロックフェスティバルとしてのフジロックの功績のひとつに、音楽ジャンルならびに洋楽/邦楽の垣根をなくしたことがしばしば挙げられる。
(中略)
フジロック以前にも洋楽アーティストと邦楽アーティストが共演するイベントはあったが、それらにおける日本のバンドは前座というニュアンスが強く、洋楽/邦楽という差異は強く機能していた。

 


この章では、1997年の嵐のフジロックでイエロー・モンキーが立ち向かい大きな挫折となった”壁”について、そして翌年の1998年に豊洲で開催された2度目のフジロックでミッシェル・ガン・エレファントやブランキー・ジェット・シティが生み出した熱狂について書かれている。そこに忌野清志郎がいたことの意味について書かれている。

 

振り返ると、1998年というのは単に「CDが一番売れていた」だけでなく、日本の音楽シーンがとても豊かだった幸福な時代なのではないかと思う。とりわけフェスという空間や、そこが象徴する音楽メディアやリスナーたちの文化において「邦楽ファン」と「洋楽ファン」が最も幸福に溶け合っていた時代なんじゃないかと思う。

 

(もちろん人によっては異論はあるだろう。しかし00年代以降、両者のクラスタはわかれていく。同書にはその後2000年代に入って開催されたROCK IN JAPAN FESTIVALに出演したTHE JON SPENCER BLUES EXPLOSIONが直面した”断絶”についても書かれている。僕もそれを当事者として目の当たりにしている)

 

もちろん、hide自身はフジロックには出演していない。

でも、「音楽ジャンルならびに洋楽/邦楽の垣根をなくす」という信念を、1998年において、最も強く体現していたのが彼だったと思う。

1997年の大晦日にX JAPANが解散し、その興奮もさめやらぬ元日に「hide with Spread Beaver」名義でのソロ活動を始動。その一方で、Zilchという3人組のバンドを同時並行で進めていた。メンバーはhide以外には、元Killing JokeのPaul Raven、Sex Pistolsのサポートも務めた元PROFESSIONALSのRay McVeigh。楽曲は全編ほぼ英語詞で、サウンドは当時のUSのロックシーンの主流だったインダストリアル・ロックの方向性。特に通じ合っていたのが、マリリン・マンソンやナイン・インチ・ネイルズだった。

1999年夏にはサマソニの前進イベントとなった「beautiful monsters」が開催されたのだけれど、そこではもし生きていれば、hideとマリリン・マンソンとの共演も予定されていたという。

 

あと、もうひとつ。

 

当時のインタビューを読み返すと、hideは「ピンク スパイダー」について、曲のテーマは”WEB=蜘蛛の巣”だということ、そのモチーフが当時ハマっていたインターネットだったということを語っている。

 

そう考えると、あの曲は誰よりも早い(livetuneの「Tell Your World」より12年早い)インターネット・アンセムだったのだとも思う。

 

1998年は、日本の音楽ヒストリーの「特異点」だった。そこでhideが成し遂げようとしていたことが、彼が死ぬことなく成就していたら、その後の歴史はどう変わっただろう。そんなことをたまに考える。

 

――――――

というわけで、最後に告知。

 

二つのトークイベントに登壇します。一つは、5月10日、南田勝也さん、永井純一さんとの、B&Bのトークイベントです。

 

『私たちは洋楽とどう向き合ってきたのか』(花伝社)刊行記念

テーマは「最近、洋楽って聴いてますか?」

2019年 5月10日(金)
時間 _ 20:00~22:00 (19:30開場)
場所 _ 本屋B&B
東京都世田谷区北沢2-5-2 ビッグベンB1F
入場料 _ ■前売1,500yen + 1 drink
■当日店頭2,000yen + 1 drink

 

bookandbeer.com

 

チケットはこちら。

 

passmarket.yahoo.co.jp

 

もうひとつは、イントロマエストロ藤田太郎さんとのトークイベント。テーマは「1998年に何が起こったか?」

 

「8cmシングルナイト Vol.3 ~1998年に何が起こったか~」

2019年 5月14日(火)
OPEN 18:30 / START 19:30
前売(web予約)¥2,000/当日¥2,300(+要1オーダー)
【ナビゲーター】
藤田太郎(イントロマエストロ)
柴 那典(音楽ジャーナリスト)

 

www.loft-prj.co.jp

 

チケットはこちら。

 

www.loft-prj.co.jp

 

二つのトークイベントはお相手もテーマも全然違うのだけれど、実は僕の中で喋ろうと思っていることは一続きのモチーフだったりするのです。そういうことを考えていて、そのキーパーソンの一人がhideだった、ということなのでした。

 

というわけで、もし興味そそられた方がいらっしゃったら、ぜひお越しください。

日々の音色とことば 2019/05/03(Fri) 00:16

望月優大『ふたつの日本』と、移民家族の歌としてのキリンジ「エイリアンズ」

ふたつの日本 「移民国家」の建前と現実 (講談社現代新書)


■これは「彼ら」の話ではなくて、「私たち」の話

望月優大さんの新刊『ふたつの日本 「移民国家」の建前と現実』を読んだ。

 

いろんなことを考えさせられる、とても興味深い本だった。

 

本の内容は、タイトルのとおり、「いわゆる移民政策はとらない」というスタンスを取り続ける政府の“建前”と、労働力を求める企業の“現実”によって引き裂かれ、在留外国人たちが複雑な立場に置かれ続けている日本という国の構造を精緻にルポルタージュしたもの。本文にはこんな風に書かれている。

 

日本で暮らす外国人は増えている。人工の2%といえば先んじる欧米などの移民国家に比べてまだまだ少ないが、確実にその数も、割合も増え続けている。そして、政府が急いで「特定技能」の在留資格新設へと走ったことからもわかるように、今後もしばらくその趨勢は変わらないだろう。「日本人」は減っていく。そして「外国人」は増えていくのだ。自然にそうなったのではない。「日本人」がそうする道を選んだのである。

 

本の中ではグラフや数字がふんだんに用いられ、在留外国人たちの出身国や、立場や、その変化が、わかりやすく綴られている。

 

そのうえで、僕が感銘を受けたのは、本の前半に書かれたこの一節。

 

このあと出身国や在留資格など様々なカテゴリーごとに整理した数字の話が続くが、そこでカウントされる「1」というのはあくまで一人の生身の人間のことである。そのことを念頭に置きながら記述することを試みたし、ぜひ一人ひとりを想像しながら読んでいただけたら嬉しい。 

 

望月優大さんはウェブメディア「ニッポン複雑紀行」の編集長をつとめ、実際に、日本で暮らす様々な立場の在留外国人、つまり「一人の生身の人間」の話を聞いて記事にまとめている。だから、この一節に、とても強い説得力がある。

 

www.refugee.or.jp


そして読み終わって痛感するのは、最後の一文に書かれている通り、これは「彼ら」の話ではなくて、「私たち」の話である、ということ。

 

つまり、自分の生活の中で「出自の異なる人間」との交わりが増えていくことがわかっているこの現状に対して、さあ、どう生きていきますか?という問いがつきつけられている、ということだ。

 

で、もうひとつ思うのは、もし自分自身が「私たち」ではなく「彼ら」だったら、という想像力の問題について。

 

僕自身は日本で生まれて日本で暮らしている。だから移民という現実に当事者として向き合う機会は少ない。

 

だけど、もうちょっと広い意味での疎外感、英語で言う「alienation」の感覚には、すごく身に覚えがある。

 

たとえば、カミラ・カベロの「Real Friends」という曲がある。カミラ・カベロはキューバ出身、ラテン系のルーツを持つ現在21歳の女性シンガー。彼女はまさに移民の当事者だ。去年のグラミー賞でも「希望以外詰まっていない空っぽのポケットで私をこの国に連れてきてくれました」と、キューバとメキシコにルーツを持つ両親のことを語る感動的なスピーチを披露した。ヒット曲「Havana」は、「私の心の半分はハバナにある」と、親の故郷を思う曲。

 

www.youtube.com

 

そして「Real Friends」は、そのタイトルの通り「本当の友達がほしい」と月に語りかける、とてもエモーショナルな曲だ。

 

www.youtube.com

 

I'm just lookin' for some real friends
(本当の友達を探してる)
Gotta get up out of this town
(たぶん、この街を出なくちゃいけない)
I stay up, talkin' to the moon
(夜遅くまで起きて、月と話してる)
Been feelin' so alone in every crowded room
(みんながいるのに、とても孤独)


僕はキューバに行ったことはないし、アメリカでラテン系の移民として暮らすというのがどういう現状なのかは、わからない。でも、想像力を働かせることはできる。彼女が歌う「みんながいるのに、とても孤独」という感情を、歌を通して受け取ることができる。僕はそういうところにグッとくる。

 

『ふたつの日本』の本の冒頭には、ジェイムズ・P・ホーガン『星を継ぐもの』と、ゲーテ『ファウスト』と、魯迅『故郷』の引用がある。そこにグッとくるのも、まったく同じ理由だ。

 

放浪の生涯を通じて、彼はかつてただの一度もある特定の場所を自分の故郷として意識したことはなかった。というより、彼にとっては特別な場所などありはせず、どこへ行っても、そこが故郷と思えばそれで満足だったのだ。ところが、月面に立って地球を見た途端、ハントは生まれてはじめて、故郷を遠く離れていることを強く意識した。
ジェイムズ・P・ホーガン『星を継ぐもの』(池央耿訳)

 

これは「彼ら」の話ではなくて、「私たち」の話である。

 

そのことには、もう一つの含意がある。ひょっとしたら「疎外されている」のは、「彼ら」だけじゃなく「私たち」も一緒なのではないか、という問いだ。外国人労働者が増えると同時に非正規雇用が増えたのが、平成という時代の30年間の変化だ。

 

社会が個人を「取り替え可能」なパーツとして扱う潮流が前面化している。そんな中で、自分自身は運良く「日本国籍を持った日本生まれの人間」のコミュニティと、そういう人たちにとって都合よくデザインされた社会システムの中にいるから気付かないだけで、ひょっとしたら、同じ変化の波にさらされているのではないか、と。

 

そういうことまで考えさせられる一冊だった。

 

■視点が変わると、見えるものがガラリと変わる

 

そして、ここから本題。

 

この本を読みながら、ふと聴いたキリンジ「エイリアンズ」。とても好きな曲なんだけれど、『ふたつの日本』という本と、そこから感じ取ることのできるエイリアネーションの感覚をもとに聴くと、歌詞にまったく違う意味を読み解くことができるのだ。正直、これがこの本を読んだ最も大きな収穫だった。


キリンジの「エイリアンズ」は、2000年のアルバム『3』に収録された彼らの代表曲。リリースされた当初こそ大ヒットしたわけではなかったが、秦基博や、のんや、沢山の人にカバーされ、歌い継がれている。

 

www.youtube.com


ここに書かれているのは、なんてことのない郊外や地方都市の風景。どこにでもある、何もない場所。二人の出身地である埼玉県が、そのイメージの源泉になっているという。

 

以前NHKの番組『ソングライターズ』に出演したときに、作詞した堀込泰行は「日本の街並みの大半は絵にならないけれど、それを写真のようにフォーカスをあてて絵にすることで、ドラマチックになると思って書いた」というようなことを語っている。

 

で、この「エイリアンズ」。たぶん、恋人同士のラブソングだと捉える人がほとんどだと思う。僕もそう思っていた。

 

だけど、『ふたつの日本』を読んで、これを「移民家族の歌」という視点から捉えると、見えるものがガラリと変わる。

 

「エイリアンズ」の主人公の「僕」を、日本にやってきて郊外や地方都市に暮らす外国人労働者に見立てると、歌の意味がまるで変わってくる。どことなく洒落た、キザにすら感じられる言い回しが、すべて反転して、とても切実で感傷的な内容になる。

 

遥か空に旅客機(ボーイング) 音もなく
公団の屋根の上 どこへ行く
誰かの不機嫌も 寝静まる夜さ
バイパスの澄んだ空気と 僕の町 

 

たとえば、この歌い出し。公団の屋根の上、見上げた夜空に旅客機の光が見えるという描写。旅客機に「どこへ行く」と問いかけるのは、それが自分をこの場所に連れてきた乗り物だからだ。「誰かの不機嫌も寝静まる夜さ」というフレーズも、主人公の「僕」が、日常的に「誰かの不機嫌」に相対してきたことを思わせる。

 

泣かないでくれ ダーリン ほら 月明かりが
長い夜に寝つけない二人の頬を撫でて

笑っておくれ ダーリン ほら 素晴らしい夜に
僕の短所をジョークにしても眉をひそめないで

 

Bメロで歌われるこのフレーズも、「ダーリン」というのを主人公の「僕」の恋人ではなく、その娘や息子と捉えると、歌の情景がまるで違ってくる。家族の歌になる。

 

「泣かないでくれダーリン」というのは、ひょっとしたら夜泣きの止まない幼い赤子を連れ、壁の薄い公団のアパートを抜け出て、近所迷惑にならなさそうな人気のないバイパスを歩いているときの情景かもしれない。「僕の短所をジョークにしても眉をひそめないで」というのは、ひょっとしたら、ある種のエスニックジョークのことなのかもしれない。

 

サビではこう歌われる。

 

まるで僕らはエイリアンズ 禁断の実 ほおばっては
月の裏を夢みて キミが好きだよ エイリアン
この星のこの僻地で
魔法をかけてみせるさ いいかい

そうさ僕らはエイリアンズ 街灯に沿って歩けば
ごらん 新世界のようさ キミが好きだよ エイリアン
無いものねだりもキスで 魔法のように解けるさ いつか

 

そうすると、ここで歌われている「キミ」も、恋人ではなく、主人公の「僕」の家族ということになる。この視点で読み解くと、「エイリアンズ」という言葉は、一番では「異星人」という比喩の意味で、そして二番では「外国人」「市民権をもたない人」という言葉そのままの意味で歌われている、と読み解ける。

 

こうして「エイリアンズ」という曲を「故郷を離れ日本の郊外や地方都市で暮らす異邦人の家族の歌」と捉えると、「この星のこの僻地で 魔法をかけてみせるさ」とか「街灯に沿って歩けば ごらん 新世界のようさ」といったフレーズが、ロマンティックに洒落たレトリックではなく、ものすごく地に足の着いたリアリティをもって響いてくる。


曲の最後には、こんなフレーズが歌われる。

 

踊ろうよ さぁ ダーリン ラストダンスを
暗いニュースが日の出とともに町に降る前に


そして『ふたつの日本』には、こんな記述がある。

 

これまで数多くの移民を受け入れてきた欧米の先進諸国でこそ、経済停滞や人々の不安を移民の存在へと投影することで、デモクラシーの中で自らへの支持を集めようとする政治勢力が一つ、また一つと台頭を始めている。

アメリカでも、イギリスでも、フランス、ドイツ、イタリア、ハンガリー、ポーランド、オーストリアでも、欧米の先進諸国で台頭するほぼすべての「ポピュリスト」たちが「移民」を自らの主要な論点としてきた。

「移民」の排除はもはやニッチではないのだ。排外主義的な言説はいまや「選挙で勝てる」一つの王道的な戦術となり始めている。

(中略)

「移民の時代」においてはデモクラシーが包摂ではなく排除の手段となりつつある。そして、私が本書を書く理由は、日本もすでに「移民の時代」に突入しつつあることを認識し、デモクラシーを排除の手段としない道を考えるためだ。この社会の中で、自分を社会の一部と感じられない人を取り残さないためでもある。前からいた人も、新しく来た人もである。 

 

4月1日には、改正入管法が施行された。

 

2019年の今、「暗いニュースが日の出とともに町に降る前に」という一節に、約20年前にこの曲が書かれたときにはきっと想定もしていなかっただろう含意を読み解ける時代になってしまった。

 

そのことを踏まえて考えると、「エイリアンズ」という曲に、とても痛切な叙情を“発見”することができる。そして「無いものねだりもキスで 魔法のように解けるさ いつか」というサビのフレーズに、とても大きな希望を見出すことができる。

 

もちろん、これは一つの深読みにすぎない。でも、沢山の歌い手に歌い継がれる射程の広いポップソングは、こんな風に、いろんな角度から語り継がれてもいいんじゃないかな、とも思う。

日々の音色とことば 2019/04/01(Mon) 07:00

「エモい」とは何か

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Spotifyで田中宗一郎さんと三原勇希さんが新しく始めたポッドキャスト「POP LIFE The Podcast」にゲスト出演しました。

 

 

open.spotify.com

 

そこで喋ったことなんだけれど、これも自分にとってはわりと大事なことなんで、ちゃんと文字にしてブログに残しておこう。

 

僕の好きな音楽の中に、根底に「居場所のなさ」とか「寄る辺のなさ」みたいなものを抱えたものがある。それは単なる孤独とか、仲間外れの疎外感とか、会えなかったり心を通じ合えなかったりすることの切なさとか、そういうものとはちょっと違っていて。

 

どっちかと言うと、虚無感と高揚感が背中合わせに同居している感覚、というのが一番近いのかな。そして、その背景には「無常観からくる、理由のない、そこはかとない物悲しさ」のようなものがある。

 

そういう情感についての話。

 

■「エモい」は音楽ジャンル由来の言葉

 

「エモい」ってなんだろう?

 

そのことを最近ずっと考えていた。

 

まず大前提としてはっきりと言えるのは、「エモい」は、音楽の分野から広まった言葉だということ。「emotional」が由来と言われることが多いけれど、実のところ、そのルーツは英語圏で言われる音楽ジャンルの「Emo」 (発音は”イーモゥ”)から来ている。

 

www.weblio.jp

 

上記の辞書サイトやWikipediaでもそのことは触れられている。

 

ja.wikipedia.org

 

 

dictionary.sanseido-publ.co.jp

 

「Emo」という音楽ジャンルが英語圏でポピュラリティを得たのは、だいたい90年代半ばくらいのこと。日本語圏の人のあいだではここ数年になって突然こういう言い回しに出会ったような感覚の人も多いかもしれないけれど、少なくとも、ロキノン育ちである僕は、「エモ」という言葉を20年くらい使ってる実感がある。

 

じゃあ「エモ」ってなんだろう?

 

ジャンルとしてではなく、感情の動きとしての「Emo」ってなんだろう? 改めて、最近、そういうことを考えるようになった。

 

きっかけは、エモ・ラップにハマったこと。より正確に言うなら、自分の好きになった音楽が英語圏でそうカテゴライズされるようになっていったこと。

 

最初は何の前情報もない段階で、Lil PeepとLil Pumpを見分けるところから始まった。どっちもXXXTentacionの周辺を調べたり探ったりしていくうちに知った。Lil Peepが「Benz Truck」を発表したときだから、2017年の6月頃のこと。その時にLil Pumpは「Boss」を出してた。

 

www.youtube.com

 

www.youtube.com

まだその界隈が「SoundCloud rap」とざっくり括られてるころで、二人とも世に出てきたばっかりで、名前も似てるし、最初はごっちゃになってた。でもやってることは全然違っていて。個人的にはLil Peepのほうにがっつりハマっていった。

 

当時はまだ「エモ・ラップ」という言葉は出てきてなかったんで、「グランジ・ラップ」というタームを作ってリアルサウンドに紹介原稿を書いた。

(国内と海外の音源を両方紹介しようと思ってたんでセレクトしたんだけど、今思うとtofubeatsをそこに混ぜたのは筋悪だったなー)

 

realsound.jp

 

で、Lil Peepのデビューアルバムの『Come Over When You're Sober,』がリリースされたときには『MUSICA』編集部にかけあってレビューを書かせてもらった記憶がある。

 

open.spotify.com

 

(ちなみにPodcastではタナソーさんと宇野さんはLil Pumpのほうが全然好きだったそうな。収録のときは自分のことをしゃべるので一杯一杯だったけど、それも興味ある話だな)

 

Soundcloud Rapを「自分好み」と「自分好みじゃないもの」にわける作業から始まって、「自分好み」のラベルを貼ったものは、その後、ほとんど英語圏で「Emo Rap」にカテゴライズされるようになって。そこで「あ、自分が好きなのはEmo Rapなんだ」って再発見したようなところがある。

 

でも、最初は「Emo」と「Emo Rap」って、つながってないじゃん?とも思ってたんです。というのもJimmy Eat Worldとかthe Get Up Kidsとか、ああいうEmoの代表格と言われるバンドは、当時のパンクシーン、いわゆる90年代のメロコアシーンの派生のようなものとして自分の中で位置づけていたから。もちろん掘っていくとWeezerがいるし、あとはワシントンDCのポスト・ハードコアとかいろいろ源流があるんだけど、その話はちょっと置いておいて。

 

■源流としての The Postal Service

 

自分の中で「Emo」と「Emo Rap」がリンクした、「これだ!」となったきっかけが、The Postal Serviceの『GIVE UP』という2003年のアルバムを聴き直したことだった。

 

つまり、Emo Rapの「Emo」側のルーツがThe Postal Serviceなんじゃないか、と思ったわけです。Death Cab for Cutieのベン・ギバート(Ben Gibbard) と、Dntel=ジミー・タンボレロ (Jimmy Tamborello)が結成したユニット。残したアルバムはこれ1枚。

 

open.spotify.com

 

 

でも、ポッドキャストでもタナソーさんが解説してるとおり、日本ではそんなに騒がれなかったけど、その後のアメリカのシーンに与えた影響は計り知れないものがある。

 

特に好きなのが「District Sleeps Alone Tonight」という曲。この曲をじっくり歌詞を読みながら聴くとと、「ああ、この感覚がいわゆる”Emo”なんだなあ」と、思うようなところがある。

 

www.youtube.com

 

I'll wear my badge
A vinyl sticker with big block letters adhering to my chest
That tells your new friends
I am a visitor here
I am not permanent
And the only thing keeping me dry is
Where I am

 

(ぼくの胸には、貼りついて剥がれないビニールのステッカーみたいにバッチがついてる。そこには大きく太字で「部外者」って書いてある。ここの人じゃないってことを、新しい友だちに教えるバッチ。ぼくの心がずっと渇いているたった一つの理由は、じゃあ、ぼくはどこにいるんだろう、ということ)

 

 

ポッドキャストの中では『13の理由』の話もして、10代のスクール・カルチャーの中での疎外感みたいなところにつなげちゃったんだけど、もうちょっと根源的なものがあるような気もするんだよなあ。

 

というのも、日本にはずっと昔から「エモい」に相当する言葉があるから。これは僕じゃなくて、 日本語学者の飯間浩明さんが言っていたこと。

 

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nlab.itmedia.co.jp

 

すごく腑に落ちる。

 

で、さらに解釈を重ねて、僕が「Emo」に感じる情感のようなものを踏まえて「エモい」を読み解くなら、やっぱりそれは「無常観からくる、理由のない、そこはかとない物悲しさ」みたいな感慨をあらわす言葉なんじゃないか、と思ってる。

 

で、これも大事なことなんだけど、「エモい」というのを、物悲しいとか寂しいとか切ないとか、それだけの感情と言い切ってしまうのも違う感じがする。

 

どっちかと言うと、喜びというか、祝福というか、救いというか、そういうものも「エモい」に含まれている感じがする。それが躍動感とか高揚感に結びついているというか。たとえばThe Flaming Lipsのライブも「超エモい」、すなわち「いとあはれ」と思うから。

 

www.youtube.com

 

無常観の裏側には「それが一回限りの刹那であることがあらかじめわかっているがゆえの”生の肯定”」みたいなものもあって。

 

そういうのも「エモい」よね、と思う。

 

日々の音色とことば 2019/02/23(Sat) 14:45

フジファブリック「銀河」の転調について/音楽は知識があれば偉いものじゃないけど、それがあると心の深いところで握手できる機会が増える

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ツイッターでふとつぶやいたことだけど、大事なことなのでこっちにも記述しておこう。

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音楽は知識があれば偉いものじゃないけど、それがあると心の深いところで握手できる機会が増えるのよ。

 

そういうことを考えるきっかけになったのが、ジャズ評論家・柳樂光隆さんが「音楽の聴き方」を語るインタビュー。

 

www.tv-tokyo.co.jp

www.tv-tokyo.co.jp

 

正直、柳樂光隆さんの言ってることに100%頷けるか、と言えばそうじゃない。けれど、以下のポイントはすごく同意。

 

音楽って意識的に聴かないと分からない面白さが埋まっていることも多いんだけど、意識的になるためには、一度スイッチが入らないといけない。

 

 


で、そこから思い出したのが、「銀河」のエピソードだった。

 

www.youtube.com

 

この曲はCメロから最後のサビにかけて「え?」となる転調が仕込まれている。3分46秒と52秒で、半音ずつ上がっている。

これ、当時もリアルタイムで「ええ?」となった記憶がある。蔦谷好位置さんみたいに車を路肩に止めた覚えがある。

で、何度かインタビューする機会があって、「あそこがすごい」という事も伝えた覚えはあるんだけれど、結局、何がルーツになってああいう発想が出てきたのか、わからなかった。

結局、それを知ったのはプロデューサーをつとめた片寄明人さんのブログ(現在はFacebookに移行)を読んでから。

 

www.facebook.com

 

フジファブリックを聴いた人の多くは「不思議な曲を書く人だなぁ」と志村くんのことを思ったようだが、おそらくその画期的なソングライティングについて、あまり具体的に研究されたり言及されたことはなかったような気がする。

一般的には「奥田民生チルドレン」というイメージで彼の音楽を捉えていた人が多かったのではないだろうか。たしかに志村くんの音楽ルーツの根幹にあったのは、ユニコーンであり、奥田民生さんの音楽をはじめとする90年代の日本のロックだった。声や歌い方が似ていたのも大きな要因だと思う。

しかしそれだけでは彼の創る曲から伺われる音楽的豊潤さは説明つかない。

あの、曲をグニャッと歪めるような転調やプログレシッブな展開、時折現れては胸を締め付けるテンションコード、これら彼独特の音楽性はどこから来ていたのだろうか?

僕はそのほとんどが、彼が富士吉田にいたときから愛聴していたブラジル音楽からの影響だったのではないかと考える。

例えばEdu Lobo (エデュ・ロボ)というブラジルのソングライターがいるのだが、彼の1973年に出されたアルバムに「Vento bravo」という曲があって、志村くんはこの曲を本当に愛していた。

これを聴けば、フジファブリックのファンには、志村くんの音楽とEdu Loboの共通項がわかってもらえるだろうか。

僕には楽曲に対する声の音域の設定具合にまで志村くんとの共通項を感じ、彼がこの曲を歌っている姿が浮かんでしまうほどだ。

彼がもっとも好きだったEdu Loboのアルバムは、この「Vento bravo」が収録されているもので、志村くんはここから奇天烈ながらも音楽的で美しい転調のマナーを学んだのではないかと僕は想像する。

また彼はMarcos Valle(マルコス・ヴァーリ)というボサノヴァ第二世代として出てきたミュージシャンの熱烈なファンでもあった。志村くんのメールアドレスの一部はマルコスの曲「Mentira」から取られていたほどだ。

open.spotify.com

 

open.spotify.com

 

www.youtube.com

 

そのうえで、「銀河」に関して言えば、楽曲がとてもダンサブルなものになっているのもポイント。それはジャミロクワイを意識したものだったらしい。

 

「銀河」を知る人には驚かれるかもしれないが、初めて「銀河」を僕に聴かせてくれたとき、志村くんは「この曲、ジャミロクワイみたいにしたいんです」と言ってきたものだった。

僕には彼の言わんとしていることがよく理解できた。ファンキーさが肝だということだ。

しかしフジファブリックが演奏する限り、もろジャミロクワイみたいなサウンドにしても意味はない。それを要素として取り入れつつ、例によって独自なバンドサウンドで無理矢理表現してみればいい。そんな僕とのミーティングを受けて、バンドとアレンジを重ね、志村くんはプリプロの段階でほとんど「銀河」の原型と言えるものを創り上げていた。

 

 


あの曲に入っているエッセンスの話を、あの時点でインタビューでぶつけられたら、それは盛り上がっただろうなあ、と思ってしまう。でも、当時の自分には知識が足りなかった。

後悔先に立たず。

 

日々の音色とことば 2019/02/23(Sat) 11:56

サム・フェンダーとジレットCM、「男らしさの毒(Toxic Masculinity)」について

サム・フェンダーの「Dead Boys」という曲がすごくいい。

https://www.youtube.com/watch?v=FcO8uV2n3Ys

UKはノースシールズ出身の24歳のシンガーソングライター。ほんとは1月16日に初の来日公演がある予定だったんだけど、キャンセルになっちゃった。残念。「BBC Sound of 2018」にノミネートされたり、先月に発表された「Brit Awards 2019」の批評家賞に輝いたり、つまりはUKの次の時代を担うと目されているシンガーソングライター。なので日本でもサム・スミスとかエド・シーランくらいちゃんと売れてほしいと願ってる。

憂いを含んだ声、ポストパンクっぽい切迫感を匂わせるビート、切ないリリシズムを湛えたメロディセンスと、いろんな系譜を感じさせるシンガーソングライターなんだけれど、とりあえず、そのことは置いておいて。

彼が昨年11月にリリースした「Dead Boys」という曲の歌詞が、とても興味深い。というのも、これ、「男らしさという毒」についての曲。それが男性を追い詰め自殺に追い込んでいるということを描いた歌なのである。

英語では「Toxic Masculinity」という言葉。彼の歌はそういう文脈で広まっている。たとえばNY TIMESにはこんな記事がある。

NMEにはこんなインタビューもある。

邦訳のページはこちら。

サム・フェンダー自身はこんな風に語っている。

「これは男性の自殺、特に僕の故郷での男性の自殺についての曲なんだ」
「それが原因で非常に近い友人を何人か亡くしていてね。この曲はそこからできた曲で、それ以来ずっといろんな人に聴いてもらいたくて演奏してきたんだ。この曲が対話を引き起こすのを見て、どれだけ現在進行系の問題なのか実感したよ。この国のいろんな場所で話してきた全員が誰かを失う体験に繋がりがあるんだよね」
「この曲はどれだけ大きな問題なのか、僕の目を開かせてくれたんだ。この曲が誰かに届いて、その人が連絡をとって語り合わなきゃと思ってくれたら、成功だよね」

サム・フェンダーが歌っていることは、「me too」や「times up」という運動で始まったムーブメントの先で「男性の生きづらさ」が改めて掘り起こされつつある、という今の時代の風潮とリンクしていると思う。

つまり「なぜ男は勝者で暴力的で支配的でなければ”男”とみなされないのか」という問いだ。

たとえば世界中で大きな話題を巻き起こしているジレットのCMがある。

このCMの冒頭にも「Toxic Masculinity」という言葉が出てくる。

そして、公開されたばかりのCMには賛否両論が巻き起こっている。

コマーシャルは今週、ソーシャルメディアの公式アカウントで公開された。1分48秒の映像は、いじめやセクハラの例から始まり、乱暴な少年たちが「男の子だから」と容認される場面などが続く。

そこへ「もう笑い飛ばしたり、同じ言い訳を繰り返したりしているわけにはいかない」とナレーションが入り、#MeToo運動がもたらした変化が紹介される。最後に男性たちがけんかを止めたり、子どもを守ろうと立ち上がったりする姿と、それを見つめる少年たちのまなざしが映し出される。

ジレットのチームは全米の男性たちから意見を聴くなど独自の調査を重ね、専門家の助言を受けながらコマーシャルを制作したという。

しかしユーチューブやツイッターには、「侮辱的だ」「フェミニストの宣伝工作だ」と反発するコメントが殺到した。

一方で、こうした反応は逆に、意識改革を促す運動がいかに必要とされているかを示す指標になるとの意見も寄せられた。

このCMに「侮辱的だ」という反発が巻き起こること自体が、ひとつの「男らしさという毒」なのだと思う。ジェーン・スーさんがこうコメントしてるけれど、僕も同感。

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CMでは「Boys will be boys」という言葉が繰り返される。否定的な文脈で。「もう止めよう」という文脈で。「男はいつまで経っても”男の子”だから」。それは社会の中で多くの男たちにとって免罪符として機能してきた一方、呪いの言葉でもあったはず。サム・フェンダー「Dead boys」はそういうことについての歌でもある。

We close our eyes
Learn our pain
Nobody ever could explain
All the dead boys in our hometown

日本では田中俊之さんが「男性学」という言葉を提唱して「男の生きづらさ」を掘り起こしている。

 

男がつらいよ 絶望の時代の希望の男性学

男がつらいよ 絶望の時代の希望の男性学

 

 

この先「Toxic Masculinity」という言葉が、社会とエンタテインメントをつなぐ線において、一つの重要なキーワードになる気がしている。

 

「Time's Up」、すなわち「時間切れ」「もう終わりにしよう」という運動は、ある程度は広まってきた。でも、それって、単に「これからはセクシャルハラスメントをしないようにしましょうね」というムーブメントではないと思うのだ。 

むしろそれは、「新しい”男らしさ”を規定しよう」というポップカルチャーの表現に結びつくはずだと思ってる。特に、義務や規則や規範ではなく、格好良さ、すなわち「何がクールか」というロールモデルを提示することによって人々の価値観を変え社会を変えていくことができるのは、ファッションと音楽の得意分野だ。

 

この先、“男らしさの毒(Toxic Masculinity)”の解毒剤となるような表現が求められているという気がする。そして、サム・フェンダーはUKだけれど、もちろんちゃんとUSからそれに呼応するような潮流はあらわれている。本当に変わるべきだし、そして現在進行系で変わりつつあるのは90年代から00年代にかけて、長らくその「男らしさ」を規定してきたUSのラップ・ミュージックの価値観であるように思う。

 

outception.hateblo.jp

 

www.huffingtonpost.com

 

もちろん、このあたりの話は現在進行形で進んでいて、ドキュメンタリー番組『サバイビング・R.ケリー』とそれが巻き起こしている大きな反響ともつながっている話。

 

kusege3.com

 

たぶん、もう少し時間はかかるだろうけれど、いろんなものが同時進行で進んでいくはず。

 

日々の音色とことば 2019/01/18(Fri) 13:32

今年もありがとうございました/2018年の総括

 

 

例年通り、紅白歌合戦を見ながら書いてます。

 

 

 

今年はいつにもましてあっという間に過ぎていった一年でした。2016年は『ヒットの崩壊』、2017年は共著の『渋谷音楽図鑑』と、自分にとって大きな仕事を形にすることができたんですが、2018年はどちらかと言えば仕込みの時期というか、次に向けていろいろと考えを深めていく時期だったと思います。

 

ヒットの崩壊 (講談社現代新書)

ヒットの崩壊 (講談社現代新書)

 

 

 

渋谷音楽図鑑

渋谷音楽図鑑

 

 

 

今年もいくつかの媒体で2018年を振り返りました。

 

 

海外の最先端の音楽シーンの動きにアンテナを張っているクリエイター、アーティストおよびプロダクションが一番ヒットしている曲を作っている。そういう流れが明らかに起きているんですよね。

 

 

newspicks.com

 

ストリーミングサービスの普及前は『すでに名のあるアーティストに有利なサービス構造だ』と言われていましたが、実は起こっているのは世代交代だったということも改めて証明できたのではないでしょうか。

 

アメリカ大陸全体に音楽シーンの発信源が点在する状況に変わっているような気もします。

 

 

realsound.jp

 

今って、アメリカのヒップホップやRBのトレンドと、それをきっちり追いかけていったK-POPと、ガラパゴス化的な進化をしてきたJ-POPと、それを全部フラットに聴いてきた世代の人たちが新しい扉を開けている時代なんだって思ったんです。

 

www.cinra.net

 

年間ベストについては、『ミュージック・マガジン』に寄稿しました。

 

 

ミュージック・マガジン 2019年 1月号

ミュージック・マガジン 2019年 1月号

 

 

 

そちらで選んだのがこの10枚。

 

 

● XXX Tentacion/?

● Joji/Ballad 1

● tofubeats/RUN

● 三浦大知/球体

● Post Malone/beerbongs & bentleys

● Jorja Smith/Lost & Found

● 小袋成彬/分離派の夏

● RM/mono.

● THE 1975/ネット上の人間関係についての簡単な調査

● 中村佳穂/AINOU

 

音楽に関しては、総じて、すごく充実した一年だったように思います。

 

 

■2019年に向けて。

 

「平成最後の~」というキャッチフレーズが食傷気味になるくらい巷に流れた一年だったわけですけれど、そのムードは2019年も、もう少し続くんだと思います。

 

本当は「とっくに終わって次に行くべきなのに生き残っているもの」が沢山あるという実感もあるんですが、きっと、いつの時代もそうやって移り変わっていくんでしょう。

 

取材を担当した『さよなら未来』のインタビューで若林恵さんが語っていたんだけど、僕もまったく同意で、音楽という分野は世の中における「炭鉱のカナリヤ」だと思っている。

 

 

世の中で起きる変化というものは、特にデジタル以降のテクノロジーの分野においては、音楽が最初に直撃するんです。なので、そこを見ておくと、だいたい何が起こるかわかる。炭鉱のカナリヤのようなものですよね。

もう少し世の中の人は音楽業界で起こっていることが何なのかというのを見ておけばいいのになとは思います。

音楽を出版や映画が後追いして、その後にものすごく遅れて重工業や他の業界で同じことが起こっていく。だから、時代の試金石として音楽を見るべきなんです。

 

gendai.ismedia.jp

そして、そういう視点で音楽を通して社会を見ていると、今後、数十年かけて「国」という枠組みが溶けていき「都市」がそれを代替するような予感がしています。

 

そして、「企業」という枠組みも溶けていき、様々な物事が断片化して「個人」同士のゆるやかな結びつきの中で巡っていくようになる予感がしています。

 

まあ、そこについては長いスパンの変化なので、また今度ゆっくり考えを深めていくとして。

 

来年も、正直に、足元を見失わないように、やっていこうと思ってます。

 

 

 

日々の音色とことば 2018/12/31(Mon) 23:24

星野源とRADWIMPSが対峙してきた「邪悪」について

POP VIRUS (CD+Blu-ray+特製ブックレット)(初回限定盤A)(特典なし)

 

 

久々のブログ更新。いろいろと〆切を抱えててこっちに書く時間がなかなかとれないんだけど、これはちょっと記録しておかざるを得ないよね。

 

だって、11月から12月にかけての1ヶ月のうちに僕の観測範囲の中心である日本の音楽シーンから、素晴らしいアルバムがどんどんリリースされているわけだから。ちゃんと自分なりにそれをどう受け止めたかを書き記しておかないと、流れていってしまう。

 

そういうことのために僕のブログはあるのでね。

 

まずはなんと言っても、星野源『POP VIRUS』。まあ年間ベスト級の一枚であることは間違いないでしょう。

 

 

POP VIRUS (CD+Blu-ray+特製ブックレット)(初回限定盤A)(特典なし)

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三浦大知『球体』と新曲の「Blizzard」を聴いたときにも思ったけれど、なんだかんだ言って、メインストリームのど真ん中にいる人が挑戦的なことをやっているのがポップ・ミュージックの一番面白いところなんだよね、と痛感する。

 

 


三浦大知 (Daichi Miura) / Blizzard (映画『ドラゴンボール超 ブロリー』主題歌)

 

 

ただし「海外のトレンドにいち早く反応したほうが勝ち」みたいなゲームをやってるわけじゃない。ここ、すごく大事。別に先鋭的なことをやってるから格好いいわけじゃなくて。

 

ポップ・ミュージックは日々更新され続ける今の時代感の表現である。で、その背景には歴史の積み重ねたるルーツがある。当然のことだけど、完全にオリジナルな表現なんて世の中にはほとんどなくて、カルチャーとはいわば河川のようにいろんな源流が合わさって形作られる潮流である。

 

なので、現在の時代へのアンテナと、過去の蓄積への探究心と、声を使った身体表現としての「歌」としての美しさがあいまって、強度を持ったものになる。星野源の新作はそういうことを感じさせてくれるアルバムだった。いろんな聴き所があるけれど、やっぱり僕としてはSnail's Houseを起用した「サピエンス」に一番ビビったかな。

 

で、RADWIMPSの『ANTI ANTI GENERATION』も、確実に同じ問題設定を踏まえた上でその先に突き抜けていこうという意識を感じるアルバムだった。

 

 

ANTI ANTI GENERATION(初回限定盤)(DVD付)

ANTI ANTI GENERATION(初回限定盤)(DVD付)

 

 

つまりは「すさまじい速度で更新されつつあるポップ・ミュージック・カルチャーの変化」にどう応えるか。具体的に言うならば、英語圏ではラップミュージックやベースミュージックが潮流を握ったことによって、リズムのあり方、垣根の溶けた歌とラップのフロウのあり方と言葉のデリバリー、そしてサウンドメイキングにおいて抜本的に革新が起こっている。それに「日本のロックバンド」はどう向き合うの?という問題意識だ。

 

それが端的にあらわれているのが「カタルシス」であり「PAPARAZZI~*この物語はフィクションです~」だと思う。

 


PAPARAZZI~*この物語はフィクションです~ RADWIMPS MV

 

ここにあるのは「前前前世」の「みんなが知ってるキラキラとして情熱的なギターロックバンド」のRADWIMPSではなく、トラップ以降のグルーヴとフロウの関係性の変化、低域の鳴らし方の変化に意欲的に向き合っているRADWIMPSだ。

 

で、そういう問題意識は当然他のミュージシャンも共有しているもので、特に12月はそういうテーマを持った作品が次々とリリースされた。

 

たとえば、ASIAN KUNG-FU GENERATIONの『ホームタウン』は、まさに「ベースミュージックの影響で低域が強くなっているのが前提のグローバルな潮流に対して中域が強すぎるJ-POPや日本のロックバンドのサウンドメイキング」という問題系に真っ向から向き合いつつ「パワーポップをやる」という、いわば針の穴を通すようなコンセプトを形にしている。

 

 

ホームタウン(初回生産限定盤)(DVD付)(特典なし)

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SKY-HIの『JAPRISON』はラッパーという立場だから、もっとグローバルな潮流の変化にダイレクトにアクセスしようとしてる。端的に言うと、「日本」という枠組みで考えるとどうしてもぶち当たってしまう壁を「アジア」という枠組みに自分を位置づけることで突破しようとしている感がある。「JAPRISON」というタイトルに「JAPAN PRISON」「JAPANESE RAP IS ON」というダブルミーニングを込めていることからも、それが伝わってくる。

 

 

JAPRISON(CD+Blu-ray Disc)(LIVE盤)

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ぼくのりりっくのぼうよみのラストアルバム『没落』もすごくよかった。ツイッターの炎上騒ぎばっかり見てる人には何にも伝わってないし、最近でもYouTuberに就職して2日で辞職したりして「何がやりたいのかわからない」とか言われて本人にマジレスされたりしてるけど。

 

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ちゃんと彼のアルバムを聴いてる人はそこに封入されている「遺書」を読んだだろうし、いろんな表現が“自死”をモチーフにしていることが伝わってくると思う。『没落』の中では「曙光」が一番好きだけど、XXX TentacionやLil PeepやMac Miller やJUICE WRLDや、Lil Uzi Vert や、Fueled By Ramen所属だからワンオクともレーベルメイトになるnothing, nowhereあたりなど、北米のエモ・ラップやサッド・ラップと言われてるムーブメントと呼応しているテイストを感じる。

 

そのうえで、XXXTentacionもLil PeepもMac Millerも本当に死んじゃったのが去年から今年にかけての残酷な事実なわけで。ぼくりりは自分の肉体を害するかわりにキャラクターとしての「ぼくのりりっくのぼうよみ」を葬ったんだと考えると、日本がアメリカみたいな銃社会じゃなくて「キャラ社会」でよかったよねーなんてことも思う。

 

あと、曽我部恵一の追いつけないほどの多作っぷりも北米のトラップ以降のムーブメントの速度感を体現しててヤバいよね、と思う。

 

 

それからそれから、長谷川白紙『草木萌動』も今までにないタイプのリズムの脈動を身体感覚として“歌”にしていて、それもよかったなーと思う。

 

 

中村佳穂『AINOU』も。

 

 

■「人をコンテンツとして扱う」という邪悪

 

で、本題。

 

星野源『POP VIRUS』とRADWIMPS『ANTI ANTI GENERATION』はほぼ同じタイミングで世に出ているわけだけれど、ちゃんと聴けば、そこには拭い去れない「精神の傷痕」が刻み込まれているのが感じ取れると思う。

 

僕なりの言い方でもっと極端に言えば、それは世の中にはびこる巨大な「邪悪」に対峙してきた痕跡だ。

 

たとえば星野源の「アイデア」にはこんな歌詞がある。NHK連続テレビ小説の主題歌として爽やかに日本の朝を彩った一番から一転、二番では音数をグッと落としたアレンジでこう歌われる。

 

おはよう 真夜中
虚しさとのダンスフロアだ
笑顔の裏側の景色
独りで泣く声も
喉の下の叫び声も
すべては笑われる景色
生きてただ生きていて
踏まれ潰れた花のように
にこやかに 中指を

 

『ダ・ヴィンチ』2018年12月号掲載のエッセイ「いのちの車窓から」では、この歌詞の背景にあったエピソードが書かれている。

 

 買い物をしていると、物陰からスマートフォンで写真や動画を勝手に撮影されるようになった。
 家の前には、窓にスモークのかかった車が止まるようになった。
仕事帰りには様々な車が付いてくるようになった。
 週刊誌、ネットニュースで全ての内容が創作である記事が書かれるようになった。

  

続けて「嬉しいことばかりだった」と星野源は綴っているが、それはきっと、あくまでレトリックとしての表現だろう。2017年から2018年にかけて、間違いなく星野源は病んでいた。文章はこう続く。

 

 仕事では楽しく笑顔でいられても、家に帰って一人になると無気力になり、気がつけば虚無感にまみれ、頭を抱え、何をしても悲しみしか感じず、ぼんやり虚空を見つめるようになった。
 それは日々ゆっくりと、少しずつ増殖するウイルスのように、僕の体と精神を蝕んでいった。
 声をかけられることが恐怖心となり、街では誰にも見つからないように猫背で顔を隠し逃げ回り、ベランダに出ることさえも怖くて怖くて晴れた日でもカーテンを閉めるようになった。

 

ここからは、2016年に「恋」が一つの社会現象を巻き起こしてから彼が対峙さるを得なかった「邪悪」の巨大さが伺える。アルバムのインタビューでも星野源はこう語っている。

 

「去年いろんなこともあったし、ほんとにうんざりっていう(笑)。世の中に対してもそうだし、人間的にも疎外感というか、『なんじゃこりゃ、この世はもうどうしようもないな』みたいな感じがどんどん強くなってきて。そういう、うんざりっていう感覚みたいなものを出していこうっていうか」

(『MUSICA』2018年12月号)

 

 

 

同じく2016年に『君の名は。』と「前前前世」が社会現象的なヒットとなったRADWIMPSの表現はもっと直接的だ。彼が向き合ったものは「PAPARAZZI~*この物語はフィクションです~」のリリックに全て書いてある。

 

いいかいお父さんの仕事は普通とはちょっと違う
大きな意味では世の中の人に娯楽を提供してるんだ
役者さんミュージシャン スポーツ選手や著名人
家の前だとか仕事場でも どんな所だって張り付いて
その人の日々の監視をする そういう仕事をしてるんだ
そして何か悪さをしたり 面白いことが起こったりすると
それをすかさず記事に書いて 世間の皆に知らせるんだ
体力も根気も無きゃいけない とても大変な仕事なんだ

 

曲名には「*この物語はフィクションです~」とあるが、インタビューではこんなことも語っている。

 

「これは相手がいた頃、俺は数年間ほんとに苦しんでて、ほんとにノイローゼになりかけてて。ウチが個人事務所だからなのかなんあのか、容赦なくて。役者の友達とかに話すと『そんなことあり得ないよ』っていうようなこともされてて。自分の中でどうケリをつけようかなっていうのがずっとあったんですよね。ただあの怒りをそのまま曲にしても伝わるものにならないなと思ったし、だから4,5年かかったんですけど……なので自分が言いたいことを言いつつ、彼らの言い分もなるべく想像して。あの人達には子供とかいるのかな、その子供に自分の職業をなんて説明するのかなってところからまず始まって」

(『MUSICA』2018年11月号)

 

 

俺のとこなら百歩譲ったとしても
実家の親の家にへばりついて
堂々直撃してきたな?
息子さん苦節10年 成功して良かったですね
親御さんとしてどうですか?
あんたの親にも聞いたろか

 

という歌詞もある。

 

まあ、これは実話だろう。『女性自身』が2017年1月にネットに公開したニュースには「RADWIMPS野田洋次郎の下積み時代支えた“セレブ母の献身”」という見出しの記事がある。アクセスを送るのが嫌なのでリンクは貼らないが、上のリリックの通りの内容だ。これもアクセス送るのが嫌なのでリンクは貼らないが、大方の予想通り、2018年後半時点で『女性自身』の標的は米津玄師に向かっている。自宅マンションをつきとめその前に張り付いた記事を公開している。

 

これ、僕ははっきりと「邪悪」だと思う。

 

もちろん今に始まった話じゃない。日本だけの話でもない。「有名税」なんて言葉もある。しかし、僕は「有名税」を払う必要のある人間なんて一人もいないと思っている。それに、SNSが普及し、子供たちの憧れにユーチューバーの名前があがり、多様化したジャンルそれぞれに個人のインフルエンサーがいる時代、「有名人」と「一般人」をわけるくっきりとした境目なんてないと思っている。

 

そういう意味では誰もが直面する可能性のあることだと思う。でも、特に、自分の生き様そのものを表現として差し出しているアーティストの場合は、そうやってプライベートな領域に土足で入り込まれることによって、自分の心の敏感な部分、大事な部分を削られてしまう。優れた才能を持った人間がそんな風に心を削られて消耗する必要なんてないと思っている。

 

それでも、この問題は根が深い。

 

スキャンダルやゴシップ記事で糊口をしのごうとするメディアはなくなってほしいし、それを作ったり協力したりすることを飯のタネにしてる人間のことは心から軽蔑するし、そういう人と一緒に仕事をしようとは思わないけど。ついでに誰かの名前で検索をかけると「○○の恋人は? 家族や出身は? 調べてみました!」と適当な情報を垂れ流すトレンドブログは絶滅してほしいと心から願ってるけど。でも、それだけじゃない。

 

ハンナ・アーレントが『イエルサレムのアイヒマン』で書いたように、邪悪とは陳腐で凡庸なものである。そういった記事を作っている人がが、特別にゲスな心性を持ち合わせているとは思わない。むしろ「たまたまその役割を担った」というくらいの人間だと思う。いろんな人が、少しずつ、持ち合わせているものだと思う。それは僕も。

 

その邪悪の源泉を言語化するならば、僕は、それは「人をコンテンツとして扱う態度」だと思う。

 

ごく最近に起こったことで言えば、『水曜日のダウンタウン』でクロちゃんを監禁した『モンスターハウス』と、それが結果的に巻き起こした騒動も、結局のところ同じ「邪悪」から生まれている。僕はあの番組をゲラゲラ笑いながら観てた側の人間だから、あそこに集まった若者たちを「この国は終わってる」なんて言って切断処理するつもりにはなれない。

 

TBSバラエティー番組イベント 若者殺到で混乱し中止に | NHKニュース

 

anond.hatelabo.jp

 

生身の人間のことを「コンテンツ扱い」していないか。そして、マスメディアとSNSが結託するようになり極度にメディア化された社会の中ではそれがある程度しょうがないことだとしても、そのことが生身の人間の尊厳を毀損することに加担してないか。

 

ついでに。いつものことだから口を酸っぱくして言っておくけれど、毎年、年末から正月にかけて沢山の炎上騒ぎが起こっている。おそらく今年もそうだろう。それは結局のところ、暇にかまけて「生身の人間をコンテンツ扱いしている」人たちが起こしていることだ。

 

何度だって省みられていいことだと思う。

 

 

日々の音色とことば 2018/12/27(Thu) 10:03

山内マリコ『選んだ孤独はよい孤独』と宇多田ヒカル『俺の彼女』と、男たちの人生を蝕む「そこそこの呪い」について

山内マリコ『選んだ孤独はよい孤独』を読んだ。

 

選んだ孤独はよい孤独

選んだ孤独はよい孤独

 

 
すごく面白かった。そして同時にじんわりと鈍痛のような読後感が残る一冊だった。デビュー作の『ここは退屈迎えに来て』から繰り返し女性を主人公にしてきた作者が、男性を主人公に書いた短編集。

 

出版社の紹介文にはこうある。

 

地元から出ようとしない二十代、女の子が怖い男子高校生、仕事が出来ないあの先輩……。人生にもがく男性たちの、それぞれの抱える孤独を浮かび上がらせる、愛すべき19の物語。

「女のリアル」の最高の描き手・山内マリコが、
今度は「男のリアル」をすくいあげる、新たなる傑作登場!

 

www.kawade.co.jp

 

cakesで一部公開されている。武田砂鉄さん、田中俊之さん、海猫沢めろんさんとの対談も公開されている。

 

cakes.mu

 

cakes.mu


それぞれ、すごくおもしろい。でも記事の紹介文にものすごく違和感がある。

 

山内マリコさんの最新作『選んだ孤独はよい孤独』は、情けなくも愛すべき「ちょいダメ」男たちの物語です。 

 

違うだろう、と思う。このリード文を書いたcakesの編集者は、作品を絶望的に読めてないんじゃないか?と思ってしまう。

ここに描かれているのは「情けなくも愛すべき“ちょいダメ”男たち」なんかじゃない。そんな甘っちょろいもんじゃない。「気付かぬうちに人生を致命的に毀損してしまっている残念な男たちの物語」だ。

引きこもりだとか、無職だとか、コミュ障だとか、非リアとか、そういうことではない。登場する主人公の男には、傍目には充実した人生を送っているように見える男もいる。でも、全編に、どこにも行けない閉塞感と諦念が通奏低音のように鳴っている。

“ちょいダメ”男というのも違うと思う。むしろ“クズ男”という言葉が近い。と言っても、そういう形容からすぐに思い浮かぶような、たとえばモラハラの暴力夫とか、浮気とか、わかりやすい不誠実や無責任とか、そういうのとも違う。空洞はもっと奥底にある。

仲間からいつも見下されて苛立ちながらも、地元から出ていくことができない二十代。彼女に部屋を出て行かれてから数年経っても、自分が愛想を尽かされた理由がさっぱり思いつかない三十代。サッカー部のキャプテンで勉強もできてクラスの人気者なのに、一学年上のチームが奇跡的な全国制覇をしてしまった反動からの虚無感を諦念と共に抱える高校生。仕事が出来ないことを周りから見透かされながらも“できる風”を装い続ける広告会社の営業。誰も彼もが閉塞感を抱えている。満たされているかのようでいて、乾いている。

本文の中にこんな一節がある。

自分の手で、幸福を選んでもよかったのだ。いつだって、幸福は、選べたのだ。 

 

登場する男たちが「人生を致命的に毀損してしまった」理由はハッキリしている。選ばなかったからだ。

願っていることは、言葉の形で表出されないと、身体の底に沈んで燻る。たとえその場は満たされたとしても、他人からみたら羨ましく思えるような人生を送っていたとしても、「選ばなかった」ことの毒はやがて回ってくる。

心当たりがある人は少なくないんじゃないかと思う。

たとえば中華料理店に入る。心の中で「チャーハンが食べたい」と思っていても、それを実際に声に出して伝えないとチャーハンはやってこない。極端な例かもしれないけれど、人生にはそういうことがままある。

テーブルにつくと隣の人がラーメンを食べていて、それを見て本当はチャーハンが食べたいのについラーメンを頼んでしまうようなこともある。同席している人に「この店は○○が有名だから」と言われ、それを頼んでみたら実際たしかに美味く、満足しながらも(本当はチャーハンが食べたかったのにな…)と心の中で思っているようなこともある。自分はチャーハンを食べようと思っていたのに場を仕切っている人が「とりあえずビールの人〜」と挙手を募り、その雰囲気に流されるようなこともある。

スイスイさんの「メンヘラハッピーホーム」の人生相談を毎回おもしろく読んでいるのだけれど、以下のページで「セックスレスの彼女と結婚すべきか?」という悩みを投稿してきた“P君”が、まさにそれだった。この回はとりたてて凄まじい切れ味の回答だった。

cakes.mu


ここに書かれているP君のエピソードは、そのまま『選んだ孤独はよい孤独』に登場しそうな男性像だ。

32歳。デジタル広告会社のプランナー。年収は600万。仕事内容にはそこそこ満足しているものの、『お金2.0』『多動力』などのNewsPicks系書籍を読みあさる。同棲中の彼女と結婚すべきか悩んでいる。セックスレス


そういうP君に対してスイスイさんはこう喝破する。

なんだかんだ“そこそこ”の人生でもいいかって思ってる。
だから大事なことと大事じゃないことが、曖昧なまま。全部に流される。
もうNewsPicks見るな。簡単にagreeするな。

 

そうなのだ。

『選んだ孤独はよい孤独』に登場する男たちも、同じ空洞を抱えている。

「そこそこの呪い」が、男たちの人生を蝕み、毀損している。

この感じ、どこかで聴いたことがある。そう思っていた。まさにこれ、宇多田ヒカルが「俺の彼女」で歌っていた呪いだ。

俺の彼女はそこそこ美人 愛想もいい
気の利く子だと 仲間内でも評判だし
俺の彼女は趣味や仕事に 干渉してこない
帰りが遅くなっても聞かない 細かいこと

 

この歌詞のすごいところは、1行目で「そこそこ美人」、2行目で「仲間内でも評判だし」というフレーズを突き刺してくるところ。ホモソーシャル的な価値観の中にどっぷりと浸かっている男性像を射抜いている。

曲は男性と女性のすれ違う関係を、それぞれ声色を変えて演じながら歌う。
サビではこんなフレーズが歌われる。

本当に欲しいもの欲しがる勇気欲しい
最近思うのよ抱き合う度に
カラダよりずっと奥に招きたい 招きたい
カラダよりもっと奥に触りたい 触りたい

満たされているようで乾いている。何かを得ているようで何も求めていない。

俺には夢が無い 望みは現状維持
いつしか飽きるだろう つまらない俺に


とても残酷だけれど、この残酷さに身に覚えがある人は多いと思う。

もし『選んだ孤独はよい孤独』に主題歌があるのなら、それは「俺の彼女」だろうと思うのだ。

日々の音色とことば 2018/09/02(Sun) 22:32

米津玄師は「パプリカ」で誰を応援しているのか。

 

米津玄師が書き下ろした新曲「パプリカ」がすごくいい。

 


<NHK>2020応援ソング「パプリカ」世界観ミュージックビデオ

 

何度か聴くうちにすっかりハマってしまった。

 

「<NHK>2020応援ソング」というNHKのプロジェクトに書き下ろした新曲で、作詞作曲編曲とプロデュースを米津玄師が担当、歌ってるのはFoorin(フーリン)という5人という小学生ユニット。

 

www.nhk.or.jp

 

キャッチコピーは「2020年とその先の未来に向かって頑張っているすべての人に贈る応援ソング」。その一報を聞いた第一印象は「米津玄師が応援ソング?」というものだった。彼の音楽を追ってる人なら、なんとなくこの感覚、わかるんじゃないかと思う。

 

でも、聴いてみたら、歌詞にも曲調にも、「頑張れ」とか「強くなれ」とか「さあ行こう」みたいに、わかりやすく誰かを応援する、誰かの背中を押すような表現は一つもなかった。

 

そこがすごくいい。

 

曲りくねり はしゃいだ道
青葉の森で駆け回る
遊び回り 日差しの町
誰かが呼んでいる

夏が来る 影が立つ あなたに会いたい
見つけたのは一番星
明日も晴れるかな

パプリカ 花が咲いたら
晴れた空に種をまこう
ハレルヤ 夢を描いたなら
心遊ばせ あなたにとどけ

 

 

歌詞に描かれているのは子供時代の情景。田舎の森や町並みではしゃいで遊び回り、「あなたに会いたい」と願う、そのときのピュアな楽しさや喜びの感情だけが切り取られている。

雨に燻り 月は陰り
木陰で泣いていたのは誰
一人一人 慰めるように
誰かが呼んでいる

喜びを数えたら あなたでいっぱい
帰り道を照らしたのは
思い出のかげぼうし

 

2番では、1番で歌われる「みんな」とは対照的に「一人」の情景。それでも「喜びを数えたら あなたでいっぱい」と、真っ直ぐな幸せが歌われている。

この歌詞の言葉はFoorinの5人が歌うからこそ成立するものなのだろう。ダンスバージョンのMVでは5人が元気いっぱいに踊る姿が映し出されていて、その楽しそうな雰囲気も曲の魅力の一つになっている。振り付けは辻本知彦と菅原小春。特に辻本知彦とは「LOSER」でダンスレッスンをして以来の付き合いなので、お互いにクリエイターとして尊敬し合う仲なのだと思う。


<NHK>2020応援ソング「パプリカ」ダンス ミュージックビデオ

 

で、すごくいい曲だと思うのだけれど、この曲のどこがどういう風に「応援ソング」なのかは、ちょっと解説が必要だと思うのだ。

 

というのも、上に書いた通り、この曲は「他の誰かを応援する曲」ではないから。2020年に向けたNHKのプロジェクトではあるけれど、アスリートをイメージさせるような描写も一つもない。そういう意味では、たとえばゆずの「栄光の架橋」とか安室奈美恵の「Hero」みたいな曲とは全然違う。

 

この「パプリカ」が誰をどう応援しているのか。それは、同じ米津玄師が菅田将暉を迎えて歌った「灰色と青」を聴くとわかる。


米津玄師 MV「 灰色と青( +菅田将暉 )」

 

この曲では、こんな歌詞が歌われる。

 

君は今もあの頃みたいにいるのだろうか
ひしゃげて曲がったあの自転車で走り回った
馬鹿ばかしい綱渡り 膝に滲んだ血
今はなんだかひどく虚しい

どれだけ背丈が変わろうとも
変わらない何かがありますように
くだらない面影に励まされ
今も歌う今も歌う今も歌う

また、この曲にはこんな歌詞もある。

君は今もあの頃みたいにいるのだろうか
靴を片方茂みに落として探し回った
「何があろうと僕らはきっと上手くいく」と
無邪気に笑えた 日々を憶えている

 

この曲は大人になった二人が、それぞれ子供時代を共に過ごした「君」とその記憶に思いを馳せるような一曲。ここでは「ひしゃげて曲がったあの自転車で走り回った」「靴を片方茂みに落として探し回った」と、過去へのノスタルジーが描かれている。

 

その描写は、「パプリカ」の「曲りくねり はしゃいだ道 青葉の森で駆け回る」という歌詞と、どこか通じ合うものがある。

 

そして「灰色と青」には、「くだらない面影に励まされ 今も歌う今も歌う今も歌う」という歌詞がある。

 

そう考えると、この「パプリカ」が誰をどう応援しているのかが、はっきりする。この曲は「他の誰かを応援し、背中を押す歌」ではない。「大人になり虚無に襲われたときに自分自身を励まし奮い立たせてくれる、幸せな子供時代の記憶の歌」だ。

 

そして、もう一つ。

 

「パプリカ」のサビでは「パプリカ 花が咲いたら 晴れた空に種をまこう」と歌っている。

 

そして「パプリカ」の花言葉は「君を忘れない」。

 

そういうところまで考えると、すごく深く美しい意味が込められていると思うのだ。

日々の音色とことば 2018/08/15(Wed) 09:04

追悼XXXTentacion

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XXXTentacionが亡くなった。享年20歳。強盗犯に射殺されたという。

 

www.bbc.com

とても悲しい。すごく残念で、胸が締め付けられるような気がする。だから、ちゃんと追悼の思いを書き連ねておこうと思う。

 

シンプルに、彼の作る音楽がとても好きだった。こういう仕事をしているからいつもは評論家めいた物言いをしてしまうけれど、XXXTentacionのいくつかの曲に、その言葉やメロディに、かつて10代の思春期の頃に自分を救ってくれた音楽に通じ合うものを勝手に感じていた。

 

昨年、やはり21歳で若くして亡くなってしまったLil Peepも同じだ。僕は彼の音楽にすごく思い入れていたから、その死は、とても惜しく辛いものだった。


僕がXXXTentacionに出会ったのは、彼の名を有名にした「Look at Me」ではなく「King」という曲だった。たしかSpotifyのランダム再生だったと思う。ちょうど車を運転していたから、中盤の叫びのところで「え? 誰?」と思わず路肩に止めてアーティスト名をメモした。

 

www.youtube.com

 

この曲ではこんなことを歌っていた。

 

Leave me alone, I wanna go home
(一人にさせてくれ、帰りたいんだ)
It’s all in my head, I won’t be upset if
(全部俺の頭の中の問題だ。そうならもう心も乱さない)
Hate me, won’t break me,
(憎んでくれ。そうしたって俺は壊れない)
I’m killing everyone I love
(俺を愛してくれる奴ら全てを殺したい) 


最初に聴いたとき、なにか撃ち抜かれるような感があった。居場所のなさ、行き場のなさ、自暴自棄な混乱と諦念。「メンヘラ」という言葉で括られてポップに消費される以前の生々しい感情。そういうものがあった。

 

彼やLil Peepのことをいろいろ調べて記事を書いた。デビュー・アルバム『17』をリリースする前のことだ。彼自身が元彼女への暴行など様々な問題を起こしていたことを知ったのは、もう少し後の話。

 

realsound.jp

 

そこで書いた「グランジ・ラップ」なる言葉は僕の造語だけれど、結局、彼やLil Peepの音楽は「エモ・トラップ」や「エモ・ラップ」というジャンルで括られるようになっていった。でも、だいたい意味するところは同じだ。ニルヴァーナのカート・コバーンだって、マイ・ケミカル・ロマンスのジェラルド・ウェイだって、世を席巻した時代は違うけれど、それぞれの時代の生き辛さを抱えたティーンを救っていた。

 

www.youtube.com

 

いや、「ティーン」なんて言い方をすべきじゃないな。これは僕の話だ。

 

僕自身は決して不幸な生い立ちじゃない。むしろ恵まれていたほうだと思う。虐められていたわけでもない。不登校だったわけでもない。少しばかり奇矯な行いは目立っていたと思うけれど、それでも中高一貫の男子校で楽しく充実した日々を過ごしていた。と思う。

 

でも、それでも過去を振り返ると「なんとか生き延びてきた」という実感がある。よくわからない自分の内側のどこかに切迫したものがあって、眠れない夜に、それが獣のように襲いかかってくるような感覚。それを今でも覚えている。怒りや苛立ちが外に向かわず、ハウリングを起こしたマイクとスピーカーのようにぐるぐると内省の回路をまわり続ける感覚。いっそのことスイッチを切ってしまいたい、大事にしているものを全て投げ捨ててしまいたい、という衝動。そういうものがあった。

 

いや、今も時々ある。

 

そういうときは処方された薬を飲むようにしている。アルプラゾラム。日本では「ソラナックス」という商品名で知られている。syrup16gがアルバム『coup d'Etat』で「空をなくす」という曲を書いているが、その曲名はここからとられている。

 

そして、それはアメリカでは抗不安薬「Xanax」という商品名で売られている。

 

だから昨年、デビューアルバム『Come Over When You're Sober, Pt. 1』を発表したばかりのLil Peepが21歳で亡くなったときには深い衝撃があった。死因はXanaxのオーバードーズだった。とても他人事じゃない。

 

XXXTentacionが昨年夏に発表したデビューアルバム『17』に収録された「Jocelyn Flores」は、鬱病に苦しみ16歳で自殺した彼の女友達をテーマにした曲。タイトルは彼女の名前だ。

 

www.youtube.com

そこではこんなことが歌われている。

 

I’ll be feelin’ pain, I’ll be feelin’ pain just to hold on


(苦しい。苦しくて仕方ない。でも耐えるしかない)

 And I don’t feel the same, I’m so numb


(もう前と同じようには感じない。麻痺してるんだ)

 

そして今年3月、XXXTentacionはセカンドアルバム『?』を発表する。アルバムは前作を上回る傑作になった。

 

www.youtube.com

 

『17』の成功や、Lil Peepの死や、いくつかの状況が彼の価値観と行動を変えていた。大きな変化は、根底にある鬱や孤独感は変わらぬまま、自棄や厭世的な内容に終わらず、世代のアイコンとなりつつある自分の存在の意味を引き受け始めていたことだ。


収録曲の一つ「Hope」は、2月に彼の地元フロリダの高校で起きた銃乱射事件に対しての追悼曲だ。

 


『?』はビルボード1位を記録し、XXXTentacionはスターダムを駆け上がった。

 

そして彼は前に進もうとしていた。死の直前の5月にはチャリティープログラム「Helping Hand Foundation」立ち上げを宣言し、フロリダでチャリティーイベントを行う計画を表明していた。

 

「Hope」ではこんな風に歌っている。

Oh no, I swear to god, I be in my mind
(俺は神に誓う)
Swear I wouldn’t die, yeah,
we ain’t gonna-
(俺は死なないよ。俺たちは死なない)
There’s hope for the rest of us
(生き延びた俺たちには希望がある)

 

だからこそ、彼の死は早すぎたし、運命の皮肉を感じてしまう。


本当に惜しいのは、この先に沢山の可能性があったこと。Diploの追悼コメントによると、どうやらXXXTentacionはDiploとSkrillexのプロデュースで次の作品を制作する構想もあったようだ。

 

幻になってしまった次の作品は、きっとXXXTentacionにとっての本当の代表作になっただろう。ひょっとしたら、それは、マイ・ケミカル・ロマンスにおける『The Black Parade』のように、死から生へと向かう強烈なエネルギーを新しいポップ・ミュージックの形で昇華したものになったかもしれない。

 

www.youtube.com


僕はXXXTentacionのことを、次の時代の音楽シーンを担うヒーローだったと本気で思っている。そして、たぶん、いろんな媒体で「アメリカの鬱屈した若い世代の代弁者だった」と彼のことを書くだろうと思う。

 

でも、このブログはとても個人的な場所なので、一つだけそれに加えておく。自分はもういい歳したオッサンだけど、彼は「若者」だけじゃなくて僕自身の代弁者でもあったんだと思う。

 

だから、すごく悲しい。

 

There’s hope for the rest of us.

 

冥福を祈ります。

 

 

日々の音色とことば 2018/06/23(Sat) 21:27

『アンナチュラル』と米津玄師「Lemon」が射抜いた、死と喪失

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(TBS公式ページより)

■取り残された側の物語

 

今日はドラマの話。先日最終回の放送が終わった『アンナチュラル』について。ドラマの筋書きも演出もすごくよかったけれど、何より印象に残ったのは米津玄師が手掛けた主題歌「Lemon」だった。

 


米津玄師 MV「Lemon」

 

観た人はきっと同じ感想を持っていると思うのだけれど、毎回、この「Lemon」いう曲が絶妙のタイミングで流れるのだ。主題歌だからと言ってエンドロールで流れるわけじゃない。1話完結形式で進んでいくドラマ、そのクライマックスのここぞという場面で曲が始まる。

 

夢ならばどれほどよかったでしょう

未だにあなたのことを夢にみる

 

戻らない幸せがあることを

最後にあなたが教えてくれた 

 

 

そう歌われる歌詞の言葉が、登場人物の心情とシンクロして響く。たとえばバイク事故で若くして亡くなった父親と残された母子が描かれる第4話。たとえばいじめによる疎外とその結実が描かれる第7話。『アンナチュラル』は法医学をモチーフにしたドラマなので、毎回、なんらかの死がストーリーの主軸になる。死者の残した手掛かりをもとに謎が究明されるという、ミステリーの王道のフォーマットが用いられている。

 

でも、『アンナチュラル』がユニークなのは、決して事件の解決や真犯人の解明が「辿り着くゴール」として描かれていないこと。もちろん法廷ドラマの側面もあるので、そういった描写は多い。しかし殺人だけでなく事故や病気や火災による死が扱われる話も多く「なぜ殺したのか」という動機の究明が行われることはほとんど無い。むしろ焦点が当てられているのは「取り残された側」の傷や痛み。

 

家族や恋人や友人や、大切な人を突然に亡くしてしまった人たちが否応なしに抱える、とても大きな喪失。「なぜ死んでしまったのか」という答えの出ない問い。胸にあいた巨大な空洞。ドラマでは毎話そこにフォーカスが当てられている。主人公のミコトと中堂も、大切な人を亡くした経験の持ち主だ。

 

ストーリーの中では、ミコトたち法医学者たちの尽力によって、亡くなってしまった人が最後に「どう生きていたのか」が解き明かされる。不条理な死の「意味」が取り戻される。しかし、失われてしまった幸せな過去はもう戻らないーー。

 

その瞬間。

 

米津玄師が「夢ならば、どれほどよかったでしょう」と歌うのだ。

 

■なぜ絶妙なタイミングなのか

 

僕はナタリーで米津玄師にこの曲についてインタビューしているのだけれど、彼自身、ドラマの中でこの曲が流れるタイミングについては強く印象に残っているようだった。

 

natalie.mu

 

──完成したドラマを観て、あのタイミングのよさは強く印象に残ったんじゃないでしょうか。

はい。本当にドンピシャのタイミングで流れるし、自分の個人的な体験から生まれてきたものが、物語となんら矛盾なく流れてくることに対して、不思議な感覚もありますね。確かにドラマのために書いた曲ですけど、同じくらい、もしかしたらそれ以上に自分のための曲でもあるので。でもそれが歌い出しの瞬間から、これだけリンクして流れるという。それは不思議な感覚ですし、どこか普遍的なところにたどり着くことができたんだなっていう証左でもあるなと思いました。

(上記インタビューより引用)

 

 

米津玄師が「個人的な体験から生まれたもの」「自分のための曲でもある」というのは、彼自身が肉親の死という渦中でこの曲を書いたから。ドラマ制作側から「傷付いた人を優しく包み込むようなものにしてほしい」というオーダーを受け、死をテーマに曲を書いている途中で、実際に彼の祖父が亡くなった。そのことが楽曲の制作に大きな影響を与えたと上記のインタビューで彼は語っている。

 

つまり、これは、この曲を書いていたときの米津玄師自身が否応なしに「取り残された側」になった、ということなのだと思う。

 

「大切な人の死」というものが、モチーフでも対象でもなく、突如、一つの動かしようのない事実として目の前に立ち現れた。そこにどう向き合い、どう意味を見つけるのか。そういう体験を経て「Lemon」という曲が生まれたと彼は語っている。

 

 

結果的に今になって思えることですし、こう言うのも変な話かもしれないですけど、じいちゃんが“連れて行ってくれた”ような感覚があるんです。この曲は決して傷付いた人を優しく包み込むようなものにはなってなくて、ただひたすら「あなたの死が悲しい」と歌っている。それは自分がそのとき、人を優しく包み込むような懐の広さがまったく持てなくて、アップダウンの中でしがみついて一点を見つめることに夢中だったので、だからこそ、ものすごく個人的な曲になった。でも自分の作る音楽は「普遍的なものであってほしい」とずっと思っているし、そうやって作った自分の曲を客観的に見たときに「普遍的なものになったな」っていう意識も確かにあって。それは、じいちゃんが死んだということに対して、じいちゃんに作らせてもらった、そこに連れてってもらったのかなって感じもありますね。 

 

「Lemon」の歌詞の最後の一行には、こんなフレーズがある。

 

今でもあなたはわたしの光

 

ドラマの中でも、この一節はとても印象的に響く。ここで歌われる「あなた」という言葉に、それぞれの登場人物にとっての失われてしまった大切な人の姿がオーバーラップするような描かれ方になっている。そして、その構造と全く同じく、この「Lemon」という曲は、誰もが自分にとっての大切な人の喪失と重ねることのできる曲になっている。

 

取り残された側が、どう生きていくか。自分の胸の中にある大事な部分をもぎ取られたかのような体験をした者が、その死という事実にどう向き合い、未来に歩みを進めていくか。脚本を書いた野木亜紀子と米津玄師が共有していたストーリーの「主題」はそういうところにあるのだと思う。

 

絶妙のタイミング、というのはそういうことなんだと思う。

日々の音色とことば 2018/03/17(Sat) 07:45

フェスはどこに向かうかーー書評『夏フェス革命』

■フェスをどう語るか

久しぶりにブログ更新。ずいぶん時間があいてしまったけれど、今日はレジーさんの新刊『夏フェス革命 音楽が変わる、社会が変わる』について書こうと思う。

 

夏フェス革命 ー音楽が変わる、社会が変わるー

 

昨年12月に刊行されたこの本。前にもツイッターで書いたけれど、読んだ後の最初の印象は「こういうの書こうと思ってた!」だった。

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参考文献に『ヒットの崩壊』があり僕の文章が多々引用されているというのもあるけれど、その理由としてはこの本がロック・イン・ジャパン・フェスティバル(以下ロック・イン・ジャパン)を主な題材にしたものだということがすごく大きい。

 

ロック・イン・ジャパンにまつわる言説って、その動員数や規模や存在感に比べるととても少ないのです。今の日本の「フェス文化」の起点は1997年のフジロックの初開催にあり、そこから00年までの3年間にライジング・サン、サマーソニック、ロック・イン・ジャパンと現在まで続く「4大フェス」が初開催されて広がった、という言説は一般的に広まっている。しかし、本書のように「フェス文化を象徴するロック・イン・ジャパン」という論を書籍ベースで展開するものはほとんどない。

 

その理由は端的にあって、それはおそらく音楽にまつわる書き手の多くが「行ってない/取材してない」ということもその一因なのではないかと思う。本書で引用されている『フェスティバル・ライフ―僕がみた日本の野外フェス10年のすべて』で著者の「南兵衛@鈴木幸一」さんが書いている一節がとても象徴的。

 

ロック・イン・ジャパン
2000年8月12日13日茨城県ひたちなか市国営ひたち海浜公園で初開催。その名が二重に示すように、雑誌「ロッキング・オン・ジャパン」を編集発行する株式会社ロッキング・オンの事業として、さらに日本の国内アーティストのみによるラインナップで開催を重ねる。すいません、著者は全く未見です。

( 『フェスティバル・ライフ―僕がみた日本の野外フェス10年のすべて』より引用)

  

フェスティバル・ライフ―僕がみた日本の野外フェス10年のすべて (マーブルブックス)

フェスティバル・ライフ―僕がみた日本の野外フェス10年のすべて (マーブルブックス)

 

 

「すいません、著者は全く未見です」って書いちゃうんだ!という驚きは正直あるけど、それはさておき、この一節はとても象徴的な意味を持っていると僕は思う。そのフレーズは「フェスは体験者の言説として語られる(べき)ものだ」という無意識の前提を含有している。

 

そして、フジロックに毎年行くようなタイプの書き手は、小規模な野外フェスやキャンプやレイヴに足を運ぶことはあれ、ロック・イン・ジャパンに足を運ぶことは少ない。たとえばさまざまなフェスのオーガナイザーへの取材をまとめた『野外フェスのつくり方』という本には「プライベートな野外パーティから大規模野外フェスまでを網羅!」というキャッチフレーズがあるけれど、そこではロック・イン・ジャパンのことはスルーされている。

 

(フジロックを主催するスマッシュやサマーソニックを主催するクリエイティブマンと違って、メディア企業であるロッキング・オンとその社長の渋谷陽一氏が「オーガナイザーとしてのスタンスやフェスの設計を語る取材」をほぼ受けていないというのもあると思う)

 

野外フェスのつくり方

野外フェスのつくり方

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また、『夏フェス革命』でもたびたび引用されている『ロックフェスの社会学』という本は書き手の目線で書ききるというよりフェス参加者への聞き取りからもとに論が組み立てられていて、そこからとても興味深いロジックが展開していく名著だと思うのだけれど、そこで取り扱われているフェスもフジロックが中心になっている。

 

 

ロックフェスの社会学:個人化社会における祝祭をめぐって (叢書 現代社会のフロンティア)

ロックフェスの社会学:個人化社会における祝祭をめぐって (叢書 現代社会のフロンティア)

 

 
ただ、ロック・イン・ジャパンは、フジロックとも、サマソニとも、ライジングサンとも、その他の数々の邦楽系ロックフェスともちょっと違う独自の力学で動いているフェスだと思うのです。そして、そこに毎年集まるお客さんたちからは、他の場所にはない独自の文化圏が立ち上がっている。僕は「ロッキン文化圏」という言葉を使って前にこのブログに書きました。

 

shiba710.hateblo.jp

 

『夏フェス革命』のレジーさんはその「文化圏」の形成とその変容をつぶさに見てきた書き手で、それは彼が2012年からブログに書いてきた「ロックインジャパンについての雑記」にも表れている。

 

そもそも音楽に大して関心のない人たちが紛れ込んでるんじゃないかと思います。これは00年当初とは決定的に違う。

 (レジーのブログ「ロックインジャパンについての雑記1 -RIJF今昔物語」より引用)

 

blog.livedoor.jp

 

その体験をベースに、「メーカーやコンサルティングファームで事業戦略や新規事業・新商品開発、マーケティング全般に関わる仕事に従事している」という著者が、ある種フラットな視線でフェスを語ったのがこの一冊。

 

ステージの上のアーティストが主役だった時代から参加者が主役になった10数年の(ロッキン文化圏を中心にした)フェス文化の変化を、「協奏」(共創)というビジネス的なキーワードで語る一冊になっている。


■プラットフォームとしてのフェスの権力構造

 

「協奏」(共創)については、著者インタビューでこんな風に語られている。

 

ここ数年、ビジネスの分野で「共創」という概念がよく言われるようになっているんですが、本書で掲げた「協奏」という考え方はこの「共創」を下敷きにしています。「共創」というのは文字通り「企業とユーザーが共に価値を創る」ということなんですが、もう少し紐解くと、企業が「私たちが素晴らしいと思うものを作ったから、ぜひ買ってください」もしくは「あなたたちはこんなものが好きだということが調査でわかりました。それを作ったので買ってください」と一方的に投げかけるのではなくて、ユーザーの意見や行動をタイムリーに取り入れながらそのビジネスのいちばん良いやり方を作っていく、ということになると思います。

――それは、マーケティングの世界では、割と一般的な概念なのでしょうか?

本の中でも挙げているのですが、日本で2010年に出版されたフィリップ・コトラーの『コトラーのマーケティング3.0』(朝日新聞出版)で「共創」という概念が提唱されています。その後、ソーシャルメディアが浸透していくにつれて、だんだん具体的な施策としても形になってきているように思います。ただ、「共創」を掲げている企業の多くが「共創のための場」を人工的に作って、そこで人を交流させたり、商品開発のための意見交換をさせたり、というレベルで終わっているように感じます。それが本当に何か意味のある取り組みになっているんだろうか、というのは常々疑問に感じる部分もあって。

(realsound「“フェス”を通して見る、音楽と社会の未来とは? 『夏フェス革命』著者インタビュー」より引用)

 

realsound.jp

 

おそらく20年後、30年後から今の2010年代を振り返るならば、それは「ソーシャルメディアが社会を変えた10年」ということになるのだと思う。フェスを軸に考えると、音楽を巡る場の変化が社会の変化と密接に絡み合っていた流れがすごく見えてくる。

 

ツイッターが浸透し、スマートフォンが普及し、「現場で体感するもの」としてのエンタテインメントが大きく支持を伸ばしていった。もちろん、2011年の東日本大震災も大きな影響もあった。

 

ただその一方で、サッカー日本代表戦後の渋谷スクランブル交差点が象徴するように、「本来のコンテンツそのものとは関係ないところで、参加者が“おそろいの服を着て騒ぐ”のが楽しい」というような構造も現出した。また、過去にこのブログで書いたように、そして本書でも書かれているように、日本においてハロウィンがキャズムを超えたのは2012年。それも本来のハロウィンの由来とは関係ないところで出現した、「新しい都市型の土着の祭り」だったのだと思う。

 

shiba710.hateblo.jp

 

そういう変化をつぶさに見て取れる一冊になっている。

 

個人的に最も刺激を感じたのは「おわりに」に書かれた部分。クラシック音楽の聴かれ方について書いた名著『聴衆の誕生』をひきつつ、18世紀の演奏会と21世紀初頭のロックフェスの風景を「社交の場、異性の視線、音楽に一生懸命耳を傾けようとする者との混在」という構造は同じだ、と位置づける。

 

もう一方では、フェスを「プラットフォーム」として捉え、そこにある権力構造を見出す。

 

フェスのタイムテーブルがヒットチャート替わりだとすると、フェスに出演しないということはすなわち「圏外」の存在であることを意味する。ということはつまり、フェスはブッキングパワーを駆使して特定のアーティストを「圏外」に追いやることができるのである。

(『夏フェス革命』より引用) 

 
このあたりは、アーティストにも「自分たちが主宰するフェスを立ち上げる」という選択肢があり、それが実際に各地で成功を収めていることからも、GoogleやamazonやFacebookなどのグローバルなプラットフォームと同列に「プラットフォーマーが強くなりすぎる問題」として語るのは慎重になるべきかも、という気がする。

 

■2018年のフェスの風景はどうなるのか


2018年はフジロックにケンドリック・ラマーとN.E.R.Dがヘッドライナーとして出演することが発表されている。先日には第2弾出演者が発表され、サカナクション、BRAHMAN、マキシマムザホルモン、ユニコーン、Suchmosら日本のアーティストが多く名を連ねた。

 

realsound.jp

 

一方、サマーソニックはベック、ノエル・ギャラガー、チャンス・ザ・ラッパーらを第1弾出演者として発表。現時点では第4弾までアナウンスされ、ソニックマニアにはフライング・ロータスの主宰レーベル・Brainfeederとのコラボレーションステージが登場することがアナウンスされている。

 

realsound.jp

 

www.barks.jp

 

ロック・イン・ジャパンの出演アーティストはこの記事を書いている時点ではまだ発表されていないが、昨年にヘッドライナーをつとめたB'z、桑田佳祐、サカナクション、RADWIMPSという並びを考えても、よりマスに訴える力を持ったアーティストがヘッドライナーをつとめるのではないかと思っている。
(個人的な勝手な予想では星野源と米津玄師が有力なのではないかと思う)

 

ただ、フェスを巡る言説自体も、5年前と今とでは徐々に変わってきている。このあたりの変化はまだ肌感覚でしか感じ取っていないものだけれど、おそらく、今年の夏あたりから顕在化していくような予感もする。

 

 

 

夏フェス革命 ー音楽が変わる、社会が変わるー

夏フェス革命 ー音楽が変わる、社会が変わるー

 

 

日々の音色とことば 2018/03/14(Wed) 10:42

「笑ってはいけない」と「笑えない」ということの話

 

今日は「笑ってはいけない」の話。

 

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年明けから物議を醸しているけれど、人権とか差別とか、そういう話は置いておいて、あれを観て感じた、今の時代に「笑える」と「笑えない」の基準が変わりつつあるんじゃないかという話。

 

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年末恒例のお笑い番組「笑ってはいけない」シリーズは、今年は『絶対に笑ってはいけないアメリカンポリス24時!』。僕はいつも紅白歌合戦を観ているのでリアルタイムで観てはいないのだけど、後日放映された『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!』で総集編をちょっと観た。

 

www.happyon.jp

 

正直言うと、少しも笑えなかった。

 

前から嫌いだったというわけじゃない。10年前くらいはずいぶん好きで観てた記憶がある。「笑ってはいけない警察24時!」とか「笑ってはいけない病院24時!」とか。「板尾の嫁」みたいな名物キャラクターにゲラゲラ笑ってた。でも、久しぶりに見たら、なんか、いい大人がケツを叩かれたり蹴られたりしているのを見て「あれ? なんでこの絵を見て笑えてたんだろう?」と思ってしまった。昭和のお笑いを見てるような気持ち。

 

あれだ。『ビートたけしのお笑いウルトラクイズ!!』を再放送で観たときの感覚と近いかもしれない。

 

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あれも子供のころは大好きだった。でも久々に観た番組は「あれ? なんでこれ面白かったんだっけ?」だった。「リアクション芸」という言葉があるのはわかる。芸人たちが身体を張っているのもおもしろい。でも、罰ゲームと称して人がひどい目にあっている様子そのものに冷めるというか、それを見世物として提供している制作側の視線を感じて笑えなくなった。多くの人が指摘していることだけど、やっぱりこれ、いじめの構造だよね。

 

時代が変わったのだろうか。僕の感覚が加齢で変わったのだろうか。

 

後者の可能性もある。『絶対に笑ってはいけないアメリカンポリス24時!』は、視聴率的には17.3%ということでかなりの好成績だったらしいし。

 

でも、やっぱり時代が変わったのも大きいと思う。何が笑えるか、何がおもしろいか。その基準が変わってきたのだと思う。

 

■海外に問題が広がった「ブラックフェイス」

 

『笑ってはいけない』では、番組内でダウンタウンの浜田雅功がエディー・マーフィに扮して肌を黒くメイクしたことが物議を醸している。

 

www.huffingtonpost.jp

問題はBBCやニューヨーク・タイムズが報じるなど海外にも広まった。

 

www.bbc.com

www.nytimes.com

 

ベッキーに「不倫の禊だ」ということでタイの格闘家がサプライズで蹴りを入れるシーンもあった。それを周りの男性芸人たちが笑いながら見ているというシーンも問題になった。

 

news.yahoo.co.jp

togetter.com

僕としては、今の時代の文脈に即して言えば、ブラックフェイスはもはや人種差別的表現にあたると思う。ベッキーにキックをしたのも、やっぱりいじめの構造だと思う。

 

ただ、僕は別に番組を糾弾したいわけじゃない。じゃあココリコ田中が蹴られるのはいいのか、とかそういうことじゃない。

 

「海外に比べて日本は〜」という話にしてしまうのも一面的だと思う。たとえばオーストラリア出身のお笑い芸人、チャド・マレーンが「笑ってはいけない」シリーズが海外で大人気になっているという話を書いていたりもする。

 

president.jp

 

僕が考えているのは「笑えるかどうか」ということ。笑えるってなんだろう。おもしろいってなんだろう。

 

■誰かを「いじる」ことはもう笑えない

 

少し前、アメリカ在住の作家/コラムニスト、渡辺由佳里さんが「なぜ『童貞』を笑いのネタにしてはいけないのか?」ということを書いていた。

 

cakes.mu

ブロガー/作家のはあちゅうさんが「#MeToo」ムーブメントの広がりと共に過去に岸勇希さんから受けたセクハラとパワハラを告発したことに関して、その一方、自身は「童貞いじり」のツイートやコラムを書いていたことへの考察。すごく参考になる意見だった。以下、引用。

 

多くの「セクハラ」は認識不足から起こる。

やっているほうは、「なぜやってはいけないのか?」を理解していないから、非常に無邪気なのだ。

ゆえに、「ささやかな冗談なのに、それがわからないのはつまんない奴だな」という反応や、擁護が起こる。だから、何度も無邪気なセクハラが繰り返される。

やっているほうは無邪気でも、そのためにイヤな思いをする者にとっては、もしかすると一生の心の傷になるかもしれないのだ。

 

「童貞いじり」をネタにするほうは「でも、私は見下していない。かえって愛情を抱いている」という言い訳をするかもしれない。「そのくらい笑い飛ばせなくてどうする?」と言う人もいるだろう。

 

だけど、愛があれば、処女いじりやゲイいじりもOKだろうか。そうではないことは、置き換えればわかるはずだ。

 

「笑い」は、いじめやハラスメントと隣り合っている。それはれっきとした事実。少なくともかつてはそうだった。「愛があるからOK」なんて擁護がされたりもした。

 

でも、やっぱり時代は変わりつつある。誰かを「いじる」ことは急速に「笑ってはいけない」ことに、そして「笑えない」ことになってきている。

 

昨年に30周年記念で復活したフジテレビ『とんねるずのみなさんのおかげでした。』の保毛田保毛男がいい例だろう。あれはLGBTだったけれど、ああいう風にマイノリティーを見た目や行動で「いじる」という芸は、どんどん笑えなくなってきている。騒がれて問題になるからとか、最近は表現規制が厳しいからとか、そういうことではなくて。デブもハゲもそうで、とにかく「変わっている」ということを指摘して笑いにつなげるような作法の有効性が減ってきている。

 

つまりこれ、時代が変わって人々の生き方の多様性が増えているゆえに、「普通と違う」ということを指摘することの「おもしろさ」がどんどん減ってきているということだと思う。

 

だた、かつてそういうことを「おもしろい」と思っていた側、つまり共同体のマジョリティ側に居てそこから外れたマイノリティを笑っていた側は、「そんなこと、今はおもしろくないよ」とか「許されないよ」と言われると、「おもしろさ」が奪われたように感じてしまうのだと思う。そのことで「面倒くさい」とか「窮屈な時代になった」とか「ポリコレ棒が〜」と反発しているという側面もあるのだと思う。

 

でも、やっぱり僕は、誰かを「いじる」ことはもう笑えないと思うのだ。少なくとも、もっと他に笑えること、おもしろいことは沢山ある。

 

なので荻上チキさんが「保毛田保毛男」問題に絡めて、こういう風に言っているのはすごく同意。

 

それこそ飲み会の場とかで公然と人の身体性とかをいじったり、その人の属性とか、あと過去の生き方とか、そうしたことを公然といじって笑いに変えるってクソつまらないと思います。飲み会の雰囲気としても。それよりも、もっといろいろと楽しさってあるじゃないですか。その中で、なんでよりによってそれを選ぶんだ?っていうものがあって。というようなことは常々思っている。

 

www.tbsradio.jp

 

■「キレイだ」が象徴する新しいおもしろさ

 

 

でも、お笑い番組の側だって進化している。僕はそう思う。

 

少なくとも日本のお笑いの「コード」はここ数年で目に見えて変わってきている。たとえばそれを象徴するのが渡辺直美やブルゾンちえみの活躍だと思う。ゆりやんレトリィバァだってそうだよね。

 

彼女たちは身体性やルックスを自虐的にネタにするようなこともない。周りからいじられることもない。少なくとも僕は先輩のお笑い芸人たちが彼女たちの体型や容姿を「いじって」笑いに変えようとするようなシーンを見たことがない。そうしようとするほうが「サムい」という感覚は急速に広まりつつある。

 

なので、駒崎弘樹さんが上で紹介した『笑ってはいけない』についての批判記事で書いた以下のくだりは、明確にズレていると思うのです。

 

 

 「何を無粋なことを。そんなこと言ってたら、お笑い番組なんて作れないよ」という声が聞こえてきそうです。

 本当にそうだろうか。

 人権に配慮した笑いって、本当につくれないんでしょうか。

 差別やイジメでしか、我々は笑えないんでしょうか。

 だったらお笑い番組なんて、要らないよ、と個人的には思います。

 

news.yahoo.co.jp

 

「そんなこと言ってたらお笑い番組なんて作れないよ」なんてことを思っている制作スタッフなんて、今の時代、きっといないと思います。少なくとも、誰かを「いじる」ことで笑えなくなった時代に、新しい笑い、新しい「おもしろさ」を探る動きは沢山ある。

 

『M-1グランプリ』を筆頭に多くの特番が放送される年末から正月にかけては日本のお笑いの「コード」が更新される時期だと思っているのだけれど、やっぱり今年も印象的だったのは、去年にブルゾンちえみを世に送り出した『おもしろ荘』だった。

 

www.happyon.jp

 

元日の深夜、年越しの『笑ってはいけない』が終わった後に日本テレビ系で放送される恒例の番組。売り出し中の新人が多数出演する『おもしろ荘』で今年1位となったのはレインボーというコンビだった。

 

彼らが披露したのは、実方孝生が演じるキザな「ひやまくん」と、女装した池田直人が演じる「みゆきさん」の二人が織り成す“ドラマティックコント”。これが不思議なおもしろさだった。

 

実方がキメ台詞「キレイだ」を連呼していくうちに、だんだん笑いが生まれていく。最初に見たときは笑いながら「なんなんだこれ」と思ってたけど、その後に内村光良司会の『UWASAのネタ』でもう一度ネタを見てやっぱりおもしろくて、こりゃブレイクするなと思った。でも、コントの筋書き自体はよくある恋愛ドラマを模したものなので、文字起こしを書いてもちっともそのおもしろさは伝わらない。

 

レインボーの「キレイだ」は何がおもしろいんだろう。言い方か。顔芸か。女装した相方をひたすら褒めていることか。

 

今はよくわからない。ただ、番組に出ていた相方の欠点を「いじる」タイプの他のコンビがそこまで跳ねない一方、彼らがブレイクしていくのが2018年という時代なのだと思う。

 

誰かを「いじる」ことで笑えなくなりつつある時代に、やっぱり、新しい「おもしろさ」は生まれていると思うのです。

 

 

日々の音色とことば 2018/01/09(Tue) 07:30

今年もありがとうございました/2017年の総括

例年通り、紅白歌合戦を見ながら書いてます。

 

今年もいろいろあった一年でした。何より大きかったのは、牧村憲一さん、藤井武史さんとの共著で『渋谷音楽図鑑』という新刊を出したこと。

 

 

渋谷音楽図鑑

渋谷音楽図鑑

 

 

去年の11月には単著『ヒットの崩壊』を出したんですが、取り掛かり始めたのはこちらのほうが先でした。

 

あとがきにも書いたんですが、最初の打ち合わせから約1年半、合計100時間以上をかけた収録をもとに制作されています。僕の役目は書き留めることでした。60年代のフォーク草創期。70年代に築かれた日本のロックとポップスのルーツ。80年代の広告文化の爛熟。フリッパーズ・ギターがいた時代。牧村さんが巡り合ってきた時代のうねりが一つの物語になるように編んでいきました。まるでセッション・レコーディングのような単行本の制作作業でした。

 

この一冊は自分にとってもとても大きな体験でした。普段は今のこと、少し先のことを考えることが多いんですが、時代は螺旋のように巡っていく。「温故知新」という言葉があるとおり、この先を見通すために歴史を知るということは、どんなジャンルにおいても大事なことだと思います。

 

昨年に引き続き『ヒットの崩壊』に関するインタビューもいくつか受けたんですが、本当に大きかったのは田中宗一郎さんによるこの取材でした。

 

silly.amebahypes.com

 

silly.amebahypes.com

 

silly.amebahypes.com

 

全3万字。対話は本の内容からどんどん外れていって、批評や宗教という大きなテーマに広がっていきました。

 

つまり僕が言っていることって、Googleが掲げた『世界中の全ての事象を情報化する』という使命を『色即是空』として捉えているということなんですよね。だから僕は今、Googleの現状に対して、とても強い失望を抱いている。同時にその根本原理を信じたい気持ちがあるので、とても強い悲しみを抱いている。そういう気持ちを持ちながらGoogleを毎日使っているという感じですね。

 

全ては失われるし、全ては無になる。諸行は無常である。そのことにとても強いセンチメントと信頼を抱いている。それがゆえに、言っていることは全部しんどいのかもしれないんですけど、そこには安らぎがあるんですね

 

プライベートな領域でも、引っ越しをしたり、犬と猫を飼い始めたりで、大きな変化があった一年でした。

 

■2017年はどんな年だったか。

 

年末ということで、僕が担当した2017年を振り返るいくつかの記事も公開されています。

 

gendai.ismedia.jp

 

cakes.mu

 

cakes.mu

 

www.cinra.net

 

「心のベストテン」は1月1日の深夜27:50~29:00にフジテレビにて放送されます。年明けからテレビ出演が決まっていて嬉しい。

 

www.fujitv.co.jp

 

 

■2017年の年間ベスト

 2017年の年間ベストについては、『ミュージック・マガジン』に寄稿しました。

そちらで選んだのがこの10枚。

 

 

ミュージック・マガジン 2018年 1月号

ミュージック・マガジン 2018年 1月号

 
  •  米津玄師/BOOTLEG
  • ケンドリック・ラマー/DAMN.
  • LiL Peep/Come Over When You Sober Pt.1
  • XXX Tentacion/17
  • Cornelius/Mellow Waves
  • 桑田佳祐/がらくた
  • エド・シーラン/÷
  • ぼくのりりっくのぼうよみ/Noah’s Ark
  • 10-FEET/Fin
  • ロンドン・グラマー/Truth is Beautiful Thing

洋楽についてはリアルサウンドに寄稿しました。

 

realsound.jp

 

  1. Lil Peep『Come Over When You’re Sober, Pt. 1』
  2. Kendrick Lamar『DAMN.』
  3. N.E.R.D『No_One Ever Really Dies』
  4. XXXTentacion『17』
  5. Ed Sheeran『÷』
  6. Lil Uzi Vert 『Luv Is Rage 2』
  7. Cashmere Cat『9』
  8. Logic『Everybody』
  9. London Grammar『Truth is a Beautiful Things』
  10. Tuvaband『Mess』

 

■2018年に向けて

 

いろんなところで書いたり語ったりしてきましたが、2017年は過渡期の一年だったように思います。

 

僕の持論で「7の年」には次のディケイドの基盤になる新しいテクノロジーやサービスが生まれるというのがあるんですが、やはり今年もそういう一年だったように思います。ブロックチェーン技術や人工知能の発展。Amazon EchoやGoogle Homeなどのスマートスピーカーが日本でも発売されたことも。おそらく2020年代の社会はこれらの技術で少しずつ変わっていくように思います。

 

その一方で、日本においては、2019年に平成が終わること、2020年に東京オリンピックが開催されることが決まっている。大きな時代の変化が「予約されている」ことで、ある種、社会全体に足踏みしているような印象もありました。これは2018年もそうかもしれないと思っています。

 

個人的にはブログをあまり更新できなかったのは反省。2018年は音楽だけでなくいろんなトピックでもう少しハードル低くいろんなことを書いていきたいな。

 

来年もよろしくお願いします。 

日々の音色とことば 2017/12/31(Sun) 21:48

コーヒー牛乳と彼のこと

石川県の田舎町。彼の墓は見晴らしのいい丘の上にある。訪れたのは数年ぶり。確かあのときは抜けるように青く晴れ渡った空だった。

 

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僕はひとつ自慢をしにきたのだった。「こんな本を作ったんだよ」と。

 

今年、僕は牧村憲一さん、藤井丈司さんとの共著で『渋谷音楽図鑑』という本を上梓した。

 

渋谷音楽図鑑

 

テーマは「渋谷はなぜ音楽の街になったのか」。公園通り、道玄坂、宮益坂という三つの坂を舞台に、60年代から脈々と受け継がれる都市型ポップスの「カルチャーの孵化装置」の系譜を語っていく。牧村憲一さんはシュガー・ベイブ、山下達郎、大貫妙子、竹内まりや、加藤和彦などの制作宣伝を担当、フリッパーズ・ギターのプロデュースも手掛けた音楽プロデューサーで、なので、幾多のミュージシャンとの交流やエピソードもふんだんに語られている。

藤井丈司さんはサザンオールスターズなどを手掛けたやはり名プロデューサーで、その藤井さんは、はっぴいえんど「夏なんです」、シュガー・ベイブ「DOWN TOWN」、山下達郎「RIDE ON TIME」、フリッパーズ・ギター「恋とマシンガン」、小沢健二「僕らが旅に出る理由」、CORNELIUS「POINT OF VIEW POINT」という6曲を楽譜を使って分析している。

 

僕の役割は語られる言葉を「書きとめる」ことだった。都市の胎動と音楽の潮流が絡み合い、文化が連なって時代のうねりとなっていくさまを、一つの物語となるよう編んでいくことだった。正直、とても大変な作業だったけれど、完成した時の達成感はとても大きなものだった。

 

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さかのぼること20数年。 

 

僕にフリッパーズ・ギターのことを教えてくれたのが彼だった。

 

出会ったのは95年。そのころ僕は京都大学の新入生で、彼は76年生まれの僕より学年は一つ上、「吉田音楽製作所」という京都大学の作曲サークルの先輩だった。

 

「作曲サークル」とは言っても、基本的に宅録で作った音源を持ち寄ってオムニバスのカセットテープを作っている集団だったから、別にみんなが集まってやるようなことはたいしてない。でも、毎週「例会」と称して教室に集っては、その後たいてい誰かの下宿にあがりこんで酒を飲んでいた。そうじゃない日も、サークルボックスで夜通しくだらない話をしたり、音楽を聴いたり、アニメを観たり、ゲームをしたりしていた。たまに思いつきでバカバカしい曲を作っては即興でMTRに録音してゲラゲラ笑いあったりもしていた。『四畳半神話大系』を地で行くような毎日だった。そういう中で知った音楽が山ほどあった。

 

銀閣寺近くにあった彼の下宿にも、何度か行ったことがある。壁が薄い部屋だったから、大勢で集まるようなことはなくて、たいてい数人だったと思う。

 

小沢健二、コーネリアス、ピチカート・ファイヴ、カヒミ・カリィ、U.F.O.、yes mama OK……。高校時代は古いプログレばっかり聴いてた僕にとって初めて日本のリアルタイムの音楽シーンに本気で夢中になったのがその頃だった。

 

その頃はもうフリッパーズ・ギターはとっくに解散していたけれど、その人の部屋には『カメラ・トーク』のポスターが貼ってあった。僕らはいつもコンビニや近くの酒屋で安い酒とつまみを買って集まっていたのだけれど、その時にいつも500mlの紙パックの甘いコーヒー牛乳ばっかり買っているのが彼だった。そこから「コーヒーミルク・クレイジー」のことを知った。丸っこいコロコロした体型もあって、仲間内でも“愛されキャラ”だった。

 

 

その後、99年に僕は音楽雑誌の編集者として仕事をするようになった。

 

その後も東京で、たびたび集まっては飲んだり遊んだりしていた。僕はその人のツボを熟知しているつもりだったので、これはと思う新譜や新人が出てくると、会った時に必ず教えていた。騒がれる前の頃の相対性理論をオススメしたら、次に会った時、まるでキンキンに冷えたビールを飲んだ後みたいに目を細めた顔で、「アレはあざといね」と嬉しそうに言ってたのは、よく覚えている。

 

その頃の僕らはいつもそんな調子だった。

 

5年前に彼は急な病に倒れたが、今も僕の中ではあの頃に出会った音楽の記憶は彼の思い出と分かちがたく結びついている。

 

そして、僕はもう40歳を過ぎたおっさんになってしまったけれど、あの頃に出会った人や、そこで知ったこと、聴いていた音楽が、今も僕を支え続けている。

 

傍から見たら、まるで不毛な時間を過ごしていたように見えたかもしれない。けれど、ひとつも無駄なことはなかった。今は自信を持ってそう言い切れる。

 

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日々の音色とことば 2017/10/09(Mon) 19:47

2017年2月によく聴いた音楽をまとめておく

今回の記事も自分用のまとめです。なかなかブログ更新する余力がとれないのじゃよ…。2月によく聴いた音楽をまとめておきます。

 

●Sampha『Process』

 

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●Aquilo『Silhouettes』

 

Silhouettes

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●米津玄師「orion」

www.youtube.com

 

●花澤香菜「Opportunity」

 

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●Doughnuts Hole「おとなの掟」

 

 

 

●Skip Marley「Lions」

 

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●Katy Perry 「Chained To The Rhythm」

 

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●Dirty Projectors『Dirty Projectors』

 

ダーティー・プロジェクターズ

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●tofubeats「SHOPPINGMALL」

 

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●KREVA『嘘と煩悩』

 

嘘と煩悩

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●水曜日のカンパネラ『SUPERMAN』

 

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  • アーティスト: 水曜日のカンパネラ
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ミュージックマガジン 2017年 03 月号

ミュージックマガジン 2017年 03 月号

 

 

●小沢健二『流動体について』

 

流動体について

流動体について

 

 

●RADWIMPS『君の名は。 English edition』

 

君の名は。 English edition

君の名は。 English edition

 

 

cakes.mu

 

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●FUTURE 『FUTURE』『HNDRXX』

 

 

 

 

 ●THE 1975「By Your Side」

 

 

●MONO NO AWARE『人生、山おり谷おり』

 

人生、山おり谷おり

人生、山おり谷おり

 

 

●yule『Symbol』

 

 

Symbol

Symbol

 

 

日々の音色とことば 2017/02/28(Tue) 22:42

2017年の1月によく聴いたアルバムをまとめておく

今回の記事は、なかばあとで読み返すための自分用まとめです。1月と2月によく聴いたアルバムや曲を淡々とリストアップしておきます。

 

●土岐麻子『PINK』

  

 

PINK

PINK

 

 

 

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●ONE OK ROCK『Ambitions』

 

Ambitions 初回限定盤(CD+DVD)

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●THE XX『I See You』

 

I See You [帯解説 / ボーナストラック2曲収録 / 国内盤] (YTCD161J)

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●日食なつこ『逆鱗マニア』

 

逆鱗マニア

逆鱗マニア

 

 

●ぼくのりりっくのぼうよみ『Noah's Ark』

 

Noah's Ark (完全生産限定盤)

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●w-inds.『We Don't Need To Talk Anymore』

 

We Don't Need To Talk Anymore 初回盤B(DVD付)

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●SKY-HI『OLIVE』

 

 

OLIVE(DVD付)(Live盤)

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●Creepy Nuts『助演男優賞』

 

助演男優賞

助演男優賞

 

 

●RUN THE JEWELS『RUN THE JEWELS 3』

 

 

 

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●cero「ロープウェー」

 

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●a flood of circle『NEW TRIBE』

 

NEW TRIBE(初回限定盤)(DVD付)

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realsound.jp

 

●fhána「青空のラプソディ」

 

www.youtube.com

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●PINK GUY『PINK SEASON』

 

 

 

cakes.mu

 

●THE FLAMING LIPS『Oczy Mldy』

 

 

オクシィ・ムロディ

オクシィ・ムロディ

 

 

 

 

●watt「Burning Man ft. Post Malone」

www.youtube.com

 

●Dubstep Grandmaster「Come On」

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日々の音色とことば 2017/01/31(Tue) 00:00

ユーモアと祈りについて――『夫のちんぽが入らない』書評

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発売日に書店に行った。あっという間に読んだ。読めてよかった。

 

 

夫のちんぽが入らない。編集者はよくこのタイトルで会議を通したなと思う。本屋でも注文しづらいだろうし。でも読み終えたら「ああ、これしかなかったんだな」と、ストンと胸に落ちた。

 

夫のちんぽが入らない

 

江森丈晃さんが手掛けたデザインと装丁もとても素敵だ。画面だと黒い文字にみえるけれど、実物の本は銀箔でタイトルが書かれている。カバーを外すと夜空を思わせる黒に「夫のちんぽが」という言葉が、点々と散っていて、幾何学模様のような線でつながれている。まるで星座のように。

 

インパクト大のタイトルだから、まずその話から始まるのはしょうがない。でも、ここに書かれているのは単なるウケ狙いの話じゃなくて、下ネタでもなくて、とても切実で壮絶な、苦しく、そして優しさと愛に満ちた半生の物語だ。

 

www.fusosha.co.jp

 

著者はこだまさん。「塩で揉む」というブログをやっている。もともと本作は2014年の同人誌即売会「文学フリマ」で頒布された同人誌『なし水』に寄稿された短編が元になっているのだという。

 

blog.livedoor.jp

 

本文はこんな書き出しで始まる。

 

いきなりだが、夫のちんぽが入らない。本気で言っている。交際期間も含めて二十年、この「ちんぽが入らない」問題は、私たちをじわじわと苦しめてきた。周囲の人間に話したことはない。こんなこと軽々しく言えやしない。

 

何も知らない母は「結婚して何年も経つのに子供ができないのはおかしい。一度病院で診てもらいなさい。そういう夫婦は珍しくないし、恥ずかしいことじゃないんだから」と言う。けれど、私は「ちんぽが入らないのです」と嘆く夫婦をいまだかつて見たことがない。医師は私に言うのだろうか。「ちんぽが入らない? 奥さん、よくあることですよ」と。そんなことを相談するくらいなら、押し黙ったまま老いていきたい。子供もいらない。ちんぽが入らない私たちは、兄妹のように、あるいは植物のように、ひっそりと生きていくことを選んだ。 

 

田舎の小さな集落で、ひっそりと、人との交流を避けるようにして育った主人公の「私」は、地方都市の大学に進学して住みはじめた古い安アパートで彼に出会う。すぐに惹かれ合うようになり、二人は卒業して教師としての職を得て、そしてまっすぐ結婚に向かっていく。「ちんぽが入らない問題」を抱えながら。

 

そして、「入らない」というのは「ちんぽ」だけじゃない。主人公の「私」は人生の局面で、いろいろな「ふつう」とか「当たり前」というものに「入れない」。そのために悩んだり、苦しんだり、傷ついたり、諦めたりしている。これが一人の女性の人生に起こったことかというくらい、様々な困難が訪れる。学級崩壊したクラスを受け持つようになって、追い詰められて、堕落して。

 

でも、筆致は、とてもユーモラスだ。どこかカラッとしていて、明るい。

 

なぜだあと叫びたかった。なぜ大仁田で無血なのだ。大仁田こそ流血すべきだろう。シャワーを浴びに向かう汗まみれの「おじさん」の背中は、まさに一試合終えたレスラーを思わせる貫禄があった。 

 

ここがすごい。詳しくは書かないが、主人公の「私」がどん底まで滑り堕ちていくきっかけを描いた場面だ。起こってしまっていることの重大さと対比して「大仁田こそ流血すべきだろう」の一言がとても可笑しい。

 

でも、描かれていることが壮絶であればあるほど、どこか俯瞰でそれを見ている視線の存在を思わせるユーモアの力が増す。この対比は、たとえば松尾スズキさんの小節や戯曲が書いてきたものでもある。

 

料理に喩えるなら、この本にある笑いやユーモアの要素は決してスパイスではない。それはむしろ出汁のようなものだとも思う。

 

そして、もう一つ、この本の芯にあるのは「祈り」のようなものだと思う。その存在に気付いてから、僕は後半読みながらちょっと泣いてしまった。決して他人事じゃないということは、自分がよく知っている。だから、そのことについては上手く言えないんだけど。

 

無意味なことなんて、きっと何もない。

 

最後のほうに、こう書かれている。

 

ちょっと話は変わるけれど、僕がレディオヘッドというバンドで一番好きな曲に「Everything in its right place」という曲がある。『キッドA』というアルバムの1曲目に入っている。不穏な、でもどこか安らぎを感じさせるようなシンセの音色に乗せて、トム・ヨークがこんな風に歌う。

 

Everything, everything, everything, everything..

In its right place

In its right place

In its right place

Right place

 

エヴリシング・イン・イッツ・ライト・プレイス。全てがあるべき場所に。

 

それは僕が大事な場所にしまっておいて、たまに辛くなったときに、よく効くおまじないのようにそっと取り出して小さく唱える言葉でもある。

 

全てのものは、そのあるべき場所に、ある。僕はそう願う。無意味なことなんて、きっと何もない。それは祈りの言葉だ。あらゆる選択と、あらゆる過去は、まるで最初からそこにはまるべきパズルのピースだったかのようにぴったりと結びついて、あなたを赦す。柔らかな笑顔の残像だけが残る。

 

そういう祈りは届くはずだと信じている。

 

 

夫のちんぽが入らない

夫のちんぽが入らない

 

 

日々の音色とことば 2017/01/19(Thu) 14:48

今年もありがとうございました/2016年の総括

例年通り、紅白歌合戦を見ながら書いてます。

 

今年もいろいろあった一年でした。個人的には、講談社現代新書から『ヒットの崩壊』という新刊を出せたことが、何より大きかったです。

 

ヒットの崩壊 (講談社現代新書)

ヒットの崩壊 (講談社現代新書)

 

 

『初音ミクはなぜ世界を変えたのか』に続いて2冊目の単著なのですが、一つの代表作になるようなものを書こうと思って取り組みました。おかげさまで反響は大きくありがたいかぎり。

 

おかげさまで、この本が刊行されたタイミングで様々な媒体でインタビューや対談に取り上げていただきました。ラジオ出演も、ひとつひとつ嬉しかったです。

 

www.musicman-net.com

 

www.billboard-japan.com

 

realsound.jp

 

blogos.com

 

blogos.com

 

spincoaster.com

 

いろんな人と話していても、今年は音楽シーンが「面白かった」という声を沢山聞いた一年でした。00年代後半あたりにあった閉塞感とは明らかにムードが変わっていた。

 

僕としては2010年代に入って明らかに時代の変化が訪れていたので、そのことをちゃんと記すことができたのはよかったと思います。

 

 ■2016年の年間ベストについて

 

2016年の年間ベストについては、『ミュージック・マガジン』に寄稿しました。

そちらで選んだのがこの10枚。

 

ミュージックマガジン 2017年 01 月号

ミュージックマガジン 2017年 01 月号

 

 

  • ブンブンサテライツ『LAY YOUR HANDS ON ME』
  • 宇多田ヒカル『Fantome』
  • フランク・オーシャン『blonde』
  • ボン・イヴェール『22, A Million』
  • フランシス・アンド・ザ・ライツ『Farewell, Starlite!』
  • Chance the Rapper『Coloring Book』
  • BABYMETAL『METAL RESISTANCE』
  • アノーニ『Hopelessness』
  • サニーデイ・サービス『DANCE TO YOU』
  • ぼくのりりっくのぼうよみ『Hollow World』

ミュージック・マガジンのレギュレーションでは2015年12月にリリースされた作品が含まれるのでぼくのりりっくのぼうよみ『Hollow World』が入っているのですが、2016年にリリースされたアルバムから選出するならば、そのかわりにビヨンセ「Lemonade」が入ると思います。

 

そして『MUSICA』には国内アーティストのベスト10を、リアルサウンドには海外アーティストのベスト10を寄稿しました。

 

MUSICA(ムジカ) 2017年 01 月号 [雑誌]

MUSICA(ムジカ) 2017年 01 月号 [雑誌]

 

 

そちらで選んだのが、それぞれこの並びです。

 

  1.  ブンブンサテライツ『LAY YOUR HANDS ON ME』
  2.  宇多田ヒカル『Fantome』
  3.  BABYMETAL『METAL RESISTANCE』
  4.  サニーデイ・サービス『DANCE TO YOU』
  5.  星野源『恋』
  6.  欅坂46『サイレントマジョリティー』
  7.  RADWIMPS『人間開花』
  8.  コトリンゴ『この世界の片隅に オリジナル・サウンドトラック』
  9.  蓮沼執太『Melodies』
  10.  yahyel『FRESH AND BLOOD』

realsound.jp

 

1.Francis and the lights『Farewell,starlight!』

2.Porter Robinson & Madeon『Shelter』

3.Frank Ocean『Blonde』

4.Bon Iver『22, A Million』

5.Chance the Rapper『Coloring Book』

6.ANOHNI『Hopelessness』

7.Japanese Wallpaper『Japanese Wallpaper』

8.Beyonce『Lemonade』

9.David Bowie『★』

10.The Japanese House『Swim Against the Tide』

 

■2017年に向けて

これは、来年というより、もう少し長いスパンでの話かな。

上のspincoasterの野島さんとの対談でも語っていることなんだけれど、おそらくこの先の世界は、長い目で見れば分散型の社会になっていくと思うんです。インターネットの普及は、「情報の流通」という力をマスメディア的な中央集権モデルからP2P的なモデルに移行させてきた。そしてSNSの普及は、「影響力」という力を個人に分散させていく。その流れで、次は「信用の付与」が分散していくタームに入るのだと思う。

そのことを踏まえて、これはずっと思っていることなんだけど、どんどん「裏で舌を出す」ような生き方が通用しなくなっていくのを目の当たりにしている。だからこそ。

 

来年も、正直に、足元を見失わないように、やっていこうと思ってます。

 

当たり前のことだけど。

日々の音色とことば 2016/12/31(Sat) 21:20

ピコ太郎について僕が知っているいくつかのこと

 

 

古坂大魔王さん、梅田彩佳さんがMCをつとめるテレビ朝日LoGirlの番組『あやまおうのリニューアルしたよ。』にゲスト出演してきました。

 

f:id:shiba-710:20161215093040p:plain

テレビ朝日LoGirl「あやまおうのリニューアルしたよ。」

 

というわけで。これを機会に、改めてこのブログにも書いておこう。

 

今年後半、文字通り世界中を席巻したピコ太郎「PPAP」の大旋風。とても面白く、興味深く、そして不思議な現象だった。きっと後から思い返しても「2016年はいろいろあったなあ」の一つの象徴として、いろんな人が鮮明に思い浮かべるんじゃないだろうか。

 

僕はたまたま当事者に近い場所にいるタイミングがあったので、それも含めて「一体何があったのか」を振り返っていこうと思います。

 

■なぜジャスティン・ビーバーに届いたのか?

 

まず8月25日、この動画「PPAP(Pen-Pineapple-Apple-Pen Official)ペンパイナッポーアッポーペン」が公開される。

 

www.youtube.com

 

これを書いてる段階で再生回数はついにほぼ1億回突破(!)。2016年のYouTubeランキングでも2位に入るというとんでもないことになっている。

 

多くの人が知るように、その起爆剤となったのは、公開から1ヶ月後の9月28日、ジャスティン・ビーバーが以下のツイートをしたことだ。

 

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これを受けてピコ太郎も以下ツイート。ここから予想外の状況が広がっていく。

 

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でも、問題は「なぜジャスティン・ビーバーに届いたのか?」というところ。一体、どこでどうやってジャスティン・ビーバーはピコ太郎を知ったのか? 最終的には謎ではあるのだけど、僕はこんな感じで分析しています。

 

まず公開当日の8月25日、プロデューサーの古坂大魔王と同じ事務所で元々仲が良かったSKY-HI(AAA日高光啓)がツイッターで紹介。

 

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その後MixChannelで、「まこみな」や「りかりこ」といったスター的な存在の双子JKがピコ太郎の真似を始めて、中高生の間に話題が広まっていく。

さらに、アメリカのサイト「9GAGS」がこのムーブメントを取り上げ、Facebook上でバイラルが始まる。これが9月25日のこと。

 

 

実はジャスティン・ビーバーがツイッターで紹介する前に素地は出来上がっていたわけだ。そして10月以降、PPAPはまさに世界中に「伝染」していった。イギリスのBBCでは「頭から離れない」、アメリカのCNNでも「ネットが異常事態」などと紹介。

 

www.bbc.com

 

いろんな人が真似したり、アレンジした動画をYouTubeに公開した。

 

www.youtube.com

 

www.youtube.com

 

さらにはSpotifyやApple Musicなどのストリーミング配信でリリースされた「PPAP」が全米ビルボード・ソング・チャートにトップ100にランクイン。同チャートのトップ100に入った「世界最短曲」としてギネス世界記録に認定された。

 

www.afpbb.com

 

こないだ僕は『ヒットの崩壊』という本を出した。でも実はヒットは「崩壊」していなかった。むしろ、こんな風に予想もしていなかったところから世界的なヒットが生まれる時代になっている、というわけだ。

 

ヒットの崩壊 (講談社現代新書)

ヒットの崩壊 (講談社現代新書)

 

 

 

■「PPAP」公開の4日前に古坂大魔王がポツリと言った一言

 

そして。ここからは内幕的な話。

 

ピコ太郎が「PPAP」を投稿する4日前の8月21日、実は、僕は古坂大魔王さんと一緒にいたのです。

 

それはサマソニでの会場でのこと。「WOWOWぷらすと」特番の「SUMMER SONIC×WOWOWぷらすと~会場から32時間ぶっ通しニコ生SP~」で、僕はコメンテーターとして出演していた。その司会が古坂大魔王さんだった。

 

live.nicovideo.jp

 

その日のゲストには、でんぱ組.incやA応Pやゴールデンボンバーが出演していた。前日のゲストにはRADIOFISHも出演していた。

 

もともと洋楽フェスとして始まったサマソニは、いまやロックもアイドルもアニソンもお笑いも何でもありの「音楽とエンターテイメントの一大絵巻」みたいな現場になっている。でも、それってすごくいいことだし面白いことだよね。そんな話を現場でした。

 

そうしたら、古坂大魔王さんが「実は俺も今やろうとしてることがあるんだよね」みたいなことをポツリと言った。その時は「へえ、そうなんですか」みたいにして流しちゃったけど、今思うと、あれが「PPAP」のことだったんだろうな。

 

ピコ太郎公式ホームページのプロフィールには「目指せ紅白歌合戦とサマソニ」と書いてあるのも、実はそのへんが背景にあるんじゃないかと思ってる。

 

avex.jp

 

そんなもので、あれよあれよと現象が広まっていくのを、僕は驚きと共に、そしてちょっと他人事ではない感じで見てました。そして「これは自分が誰よりも最初に音楽的に大真面目に語らねばならぬ!」と謎の使命感を持って、以下のページで解説しました。

 

realsound.jp

 

以下自分のコメントを引用。

 

「約15年前から『PPAP』の原型はありました。古坂さんのルーツは80年代のテクノ。以前組んでいたお笑いコンビ・底ぬけAIR-LINEでも、1999年の『爆笑オンエアバトル』第一回チャンピオン大会で『テクノ体操』というネタを披露していました。2003年に一時お笑い活動を休止した際は、テクノグループ『NO BOTTOM!』を結成し、音楽活動に専念していたこともあります。古坂さんは1973年生まれの現在43歳。80年代後半に思春期、青春時代を送っているので、初期の電気グルーヴ、遡ってDEVOやYMOなどに影響を受けたのでしょう。そのあたりが古坂さんの音楽性の核にあり、ピコ太郎についても80年代のテクノポップの音を意識したチープな音に仕上がっているのだと思います」

 

「古坂さんは、mihimaruGTのプロデュースワークのほか、SCANDALが2013年にリリースしたシングル『OVER DRIVE』収録の『SCANDAL IN THE HOUSE』をプロデュースしています。この楽曲は、SCANDAL初の演奏なしの打ち込みダンスナンバーです。ほかにも、2007年にはAAAの楽曲のリミックスを手がけていて、メンバーの日高光啓とは2013年にイトーヨーカドーのCMで共演も果たしています。実は、今回ジャスティンがツイートをする前に日高がツイートしていたりもして、関係は深いはずです」

 

「ピコ太郎のサウンドにはEDMっぽさが一切ない。特に『PERFECT HUMAN』と比べると、一聴してそれが明らかです。『PERFECT HUMAN』はLMFAO以降のパーティーミュージックをトレースしていますが、『PPAP』は確信的に80年代のレトロなテクノサウンドを鳴らしている。リズムマシンの名機と言われるTR-808のカウベルを使っているのが象徴的。その古さがジャスティンを始めとする若い世代に刺さったんだと思います。80年代のリバイバルは00年代に起こっていて、その頃は世界的にもポストパンク、ニューウェーヴのリバイバルが流行ったんですが、その流れもすでに終わってしまった。“1周回って新しい”という時期は過ぎたけれど、2周目もまだきていない。“1.5周目”くらいなんです。そういう意味ではピコ太郎は今誰もいないポジションにいることになります。また、爆発的流行の理由に1分8秒という動画の短さもあげられます。実際に曲が鳴ってるのは大体45秒ぐらい。Twitterで動画を観る人の基本の感覚だと1分を超えるともう長く感じるので、Twitter、Instagram、Vineのタイム感にすごくフィットしているのは間違いないです」

 

「ピコ太郎の『PPAP』は、“ネタ”ではなく“楽曲”として10月7日に各サービスで配信がスタートしました。しかもApple MusicやSpotifyを通じての全世界配信も実現した。ということは、それらのサブスクリプションサービスを通じて世界中でこの曲が聴かれることが予想できます。そういったサービスでは聴かれた回数によってアーティストに収益が還元されるので、多額の収入が発生する可能性がある。これはお笑いと音楽の歴史を紐解くと、とても画期的なことだと思います。90年代の一発ギャグはテレビで披露して視聴者に飽きられて終わりだった。しかし、00年代に『着ボイス』が流行したことで、消費されて終わりではなく、それを収益化することが可能になった。00年代中盤に流行したムーディー勝山の『右から来たものを左へ受け流すの歌』は携帯電話向けコンテンツだけで2億円以上の売り上げになったそうです。つまり、一発ギャグが芸人にインカムをもたらすようになった。さらにピコ太郎の突発的なブレイクは、それがグローバルな規模で広がるという新しい時代の到来を意味している。これは同じように“音楽×お笑い”の芸をやっている芸人にとっては希望の持てる出来事だと思います」

 

この記事には古坂大魔王さん本人から「実は自分のルーツはプロディジー、ケミカル・ブラザーズ、アンダーワールドあたりの90年代エレクトロニック・ミュージック」とコメントが入ったりしたのだけど。

 

 

ちなみにその時の「SUMMER SONIC×WOWOWぷらすと」の特番にやはりゲストとして来てくれた西寺郷太さんには、『週刊現代』に掲載された書評でその時のことをこんな風に書いてくれた。

 

今にして思えば、ジャスティン・ビーバーがTwitterでツイートしたことから爆発的に広まった「ピコ太郎」フィーバーが、単なる「まぐれ」ではなかったこともわかる。古坂さんは「フェス(リスナー参加型音楽の魅力)」「ネットの有効活用」「そして英詞曲で、洋楽と邦楽の垣根を超える」というすべてを理解し、クリアしていたのだから。

 (中略)

本書『ヒットの崩壊』で、彼が「崩壊」していると指摘する「ヒット」とは、旧態依然のメディアと作り手側が意図的に仕掛けて作る「ヒット」のこと。しかし、予想もしない角度から新たな「ヒット」は生まれうる。その主張をより鮮明に印象づけることになったのが、わずか3ヵ月と少し前の古坂さんと共演した記憶だ。出版時期から考察して9月までに執筆された本書に、夏に著者が共演まで果たした「ピコ太郎」についての記述はない。

 

その今年最も書くべきことが書かれなかった事実こそに僕は、まさに数週間で運命は変わるし、思いもよらぬパターンで新たなヒットが生まれる大転換時代なのだと指摘する本書の正当性を感じる。

 

なんか、いろいろ感慨深いものがある。

 

■バットを振り続ける、ということ

 

今年の秋から冬にかけては「なぜPPAPが世界中でヒットしたのか?」という問いに答えるお仕事がいくつかありました。

 

たとえば『5時に夢中』でコメントしたり。

 

大谷ノブ彦さんとの連載『心のベストテン』で語ったり。

cakes.mu

 

 「とにかくやる」ってのも重要ですよね。ピコ太郎だって、今回PPAPがここまで当たったのは間違いなく偶然だと思うんですよ。

大谷 そうですよね。別に最初から世界なんて狙ってない。

 でも、古坂さん自身はヒットを飛ばすまで20年以上バットを振り続けてきた。

大谷 そうそう!

 底抜けAIR-LINE時代の1999年に爆笑オンエアバトルで「テクノ体操」というネタをやったり、NO BOTTOM!というテクノグループを結成したり、音楽とお笑いを融合した芸をずっとやり続けてきたわけで。
 ヒットはたまたまかもしれないですけど、そのためには、やっぱり打席に立ち続ける、バットを振り続けるっていうのが何より大事なんだと思います。

 

 

たぶん、僕以外にも「なぜPPAPが世界中でヒットしたのか?」ということについて、沢山の人がコメントしていると思います。でも、僕としては正直、「ヒットの理由」なんて、結局のところは「後づけのこじつけ」にしか過ぎないと思うのです。

 

『ヒットの崩壊』なんて本を今年は書いていたから「ヒットとは何か?」みたいなことを考えることが多かったのだけれど、それって、考えてもなかなか答えがでない。当たるか当たらないかなんて、事前にはわからない。結局のところ「得体の知れない現象」にしかすぎない。だからこそ、みんなスッキリする説明を求める。もしくは「あんなもんどこがおもしろいんだ」と拒否反応を示す。

 

そういう「得体の知れなさ」こそがヒットの本質なのだと思います。

 

だから僕は、やっぱり、打席に立ち続ける、バットを振り続けるっていうのが何より大事なんだと思います。

 

 

 

PPAP(DVD付)(通常仕様)

PPAP(DVD付)(通常仕様)

 

 

日々の音色とことば 2016/12/15(Thu) 09:53

『この世界の片隅に』と、「右手」が持つ魔法の力

今日は、映画『この世界の片隅に』についての話。

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もうすでにいろんなところで評判になっている。たくさんの人が心を揺り動かされている。絶賛されている。「映画館で観るべきだ」って言っている。僕も同意。名作だと思う。だから付け加えることはないかなとも思ったんだけど、やっぱり自分が感じたことを書いておこう。

 

僕は試写のときと、公開翌日と、2回観た。どちらも、途中から気付いたら涙ぐんでいた。なんと言うか、「感動を体感する」ってこういうことなんだと思った。原作は読んでいたから話の筋はわかっていたけれど、そういうこととは関係なしに、伝わってくるものがあった。物語というものの持つ本質的な力に触れたような感覚があった。

 

最初の感想ツイートは以下。

 

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■音楽の持つ力

 

そして、見逃されがちだけど、『この世界の片隅に』の魅力の一翼を担っているのは、コトリンゴが手掛けた音楽だと思う。

 

こうの史代の原作も、片渕須直監督の手腕、主人公・すずを演じたのん(=能年玲奈)の天性の才能も、もちろん大きい。でも、コトリンゴの手掛けた音楽も本当に素晴らしいのだ。

 

今年は『君の名は。』を筆頭に、映画と音楽の新しい関係を感じさせる良作が相次いだ一年だった。従来の主題歌タイアップよりも深く踏み込み、監督とアーティストががっつりとタッグを組んで制作した作品が結果を残している。

 

『君の名は。』については、ブログにも書きました。

shiba710.hateblo.jp

 

『シン・ゴジラ』や『怒り』や『何者』、『聲の形』もそういう論点で語ることのできる作品だということはリアルサウンドやオリコンに寄稿したコラムに書きました。

realsound.jp

www.oricon.co.jp

 

上で書いたように、『この世界の片隅に』もそういう枠組みで語ることのできるアニメーション映画だ。主題歌も劇伴もコトリンゴが手掛けている。繊細で柔らかな歌声、ストリングスや生楽器の優しい響きを活かした音楽が活きている。以下のインタビューでも語られているとおり、この映画の「音」を作り出すために、彼女は通常の劇伴作家を超えた領域の役割も果たしているらしい。

 

www.cinra.net

 

まずグッとくるのが、彼女がカバーしたフォーク・クルセダーズの「悲しくてやりきれない」。これはもともと『picnic album 1』というコトリンゴのカバーアルバムに収録されている曲で、2010年に出たこのCDを彼女が片渕監督に渡したことから関係が始まっている。

 

 

picnic album 1

picnic album 1

 

 

 

最初の特報ではそのバージョンが使われているので、映画のオープニングテーマとして流れる曲とは、若干アレンジが変わっている。

 


映画「この世界の片隅に」特報1

 

本予告で使われているのは、オーケストラが加わることでよりドラマティックになった、この「悲しくてやりきれない」のカバー。サントラ盤にはこちらのバージョンが収録されている。

 


『この世界の片隅に』(11/12(土)公開)本予告

 

■主題歌「みぎてのうた」の持つ意味

 

そしてここからはネタバレ込みです。

 

ただし。この曲が「主題歌」だと思っている人もいるかもしれないが、実はそうじゃない。この「悲しくてやりきれない」はオープニングテーマという位置づけだ。映画の最後にはコトリンゴが書き下ろした「たんぽぽ」という、とても優しいバラードが流れるんだけど、それも「主題歌」ではない。エンディングテーマという位置づけだ。

 

この映画の主題歌は、物語の終盤で流れる「みぎてのうた」。サントラ盤では30曲目に収録されている。

 

 

クレジットは「作詞:こうの史代・片渕須直 作曲:コトリンゴ」。どういうことかというと、こうの史代が書いた原作の最終回「しあはせの手紙(21年1月)」のモノローグをもとに、片渕須直監督が構成した言葉が歌詞になっているわけだ。前出のインタビューで彼女はこんな風に語っている。

 

―“みぎてのうたの歌詞は、原作漫画の最後に出てくるモノローグを組み合わせたものになっていますね。それは監督の希望だったのですか?

コトリンゴ:そうですね。原作漫画の中に、すずさんの右手について書いた言葉がばーっと長く入っているところがあるんですけど、それを歌にしたいという話を監督から聞いて。ただ、その言葉を書き出して曲にしようとしたら、言葉の量が多いから、ものすごく長くなってしまったんですよね。なので、言葉のセレクトを監督にしていただいて、ぎゅっと濃縮して作りました。

いわゆるポップソングの言葉ではないので、なかなか難しいところもあったのでは?

コトリンゴ:監督が、「最後は救われるものであってほしい」ということを何度もおっしゃっていたので、最初のデモは今よりも軽い感じで提出したんです。でも、それはそれでちょっと違ったみたいで。なので、軽くなりすぎず、重くなりすぎず、なおかつ原作の言葉をちゃんと入れつつ、というところでなかなか難しかったですね。

―“みぎてのうたが、一応「主題歌」ということになるんですよね。

コトリンゴ:「主題歌」という役割分担が難しくて。悲しくてやりきれないもあるし、どちらを主題歌にするのか最近まで決まらなかったんですけど、結局映画用に新しく録り直した悲しくてやりきれないはオープニングテーマで、主題歌はみぎてのうたということで落ち着きました。 

 

つまり、「悲しくてやりきれない」ではなく「みぎてのうた」を主題歌にしたのは、片渕監督の意志だったということが明かされている。

 

その「みぎてのうた」では、こんな言葉が歌われる。

  

変わりゆくこの世界の

あちこちに宿る

切れきれの愛

 

ほらご覧

 

いま其れも

貴方の

一部になる 

 

原作では、この「ほらご覧」のところで、絵筆を持った右手が登場する。「例へばこんな風に」と、描かれた風景に色をつける。

 

f:id:shiba-710:20161201142643p:plain

 

つまり、このモノローグは、主人公のすずではなく、(すでに失われてしまった)「右手」が語り部になっている言葉なのだ。だから「みぎてのうた」なのである。

 

■マジックリアリズム的な世界観

  

最初に観たときは、そのことに気付かなかった。けれど、映画の主人公をすずでなく「右手」と捉えると、作品の伝えてくるものがガラリと変わってくる。

  

『この世界の片隅に』は、戦時中の広島と呉を舞台にした映画だ。ぼんやりとしていて、でも明るくて愛嬌がある一人の女性とその家族の、ささやかで幸せな暮らしが描かれる。かまどでご飯を炊いて、干物を買って、野草を積んで。戦時下の広島と呉の、日常や普通の暮らしを大切に描く。そこが、戦争を描いたこれまでの作品との大きな違いとなっている。

 

そうやって読み取るのが、作品の正しい受け取り方だと思う。僕も一回目に観たときはそう思った。日々の営み、生活の様子、細々した視点を、リアリティを持って、アニメーションの動きにも丁寧にこだわり抜いて描いた作品と思える。

 

だけど、主人公を「右手」と捉えると、その印象が逆転する。『この世界の片隅に』は、とても不思議な、ある種のマジックリアリズム的な作品と捉えることができる。

 

すずの「右手」は、特殊な能力の持ち主だ。単に絵が上手いというだけじゃない。作品の中の現実に介入することができる。たとえば物語の主軸となっている夫・北條周作との出会いも「右手」が導いている。広島の中心街を歩いているときに、ひょいとバケモノの背負うカゴに入れられる。そこで縁が生まれるわけなのだが、このエピソードも、少女時代のすずが妹のすみに「右手」で描いたものだ。

 

水原哲との場面もそう。「波のうさぎ」を描くシーンでは、すずの「右手」が描いた絵は景色にとってかわり、海の上を白いうさぎが跳ねていく。描くことで、風景に命がふきこまれる。

 

f:id:shiba-710:20161201143123j:plain

(上巻扉絵より)

 

リンとの出会いの場面も、晴美さんとのやり取りも印象的だ。すずの「右手」はすいかを、アイスクリームを、干物を描く。窮乏する生活の中で、別に絵で腹がふくれるわけじゃない。でも、登場する人々は、みんな「右手」が描いた食べ物の絵を見て心を満たす。そういう魔法のような力を持っている。

 

だからこそ、その後、20年3月に呉を襲った空襲の描写が生きてくる。ここでは、敵機を撃ち落とすための対空砲火が空で炸裂する。色鮮やかな煙が舞う。これは決してアニメーション的な演出でなく、当時の対空砲火がどの軍艦から撃ったかを見分けるために煙が着色されていたことに基づく描写らしい。

 

が、その後、突然画面に絵筆があらわれる。砲火の煙のかわりに、絵筆が絵の具を空にぶちまけていく。

 

「ああ、今ここに絵の具があれば……って、うちは何を考えてしもうとるんじゃ!」

 

のんがそう言う。これはすずのセリフだけれど、僕は数少ない「右手」の叫びが前面にあらわれた瞬間だと思っている。

 

小原篤さんも、細馬宏通さんも、この「右手」のことに触れている。

 

www.asahi.com

 

digital.asahi.com

 

magazine.manba.co.jp

 

 

だからこそ、6月の空襲で晴美が死に、すずが右手を失った時には、アニメーションの枠組み自体がぐらぐらと揺れる。闇の中に荒い描線が浮かんでは消えるような、幻覚のような絵が繰り広げられる。

 

つまり、『この世界の片隅に』の主人公を「右手」と捉えると、途端に、この映画は「戦時下の広島と呉の、日常や普通の暮らしを描いた作品」ではなくなってくるわけだ。

 

絵を描くこと、鉛筆や絵筆で目の前の光景を書き留めること、幻想に思いを馳せること、想像力を働かせること、物語を紡ぐこと――。それらの行為が持つ魔法のような力、その渇望、そしてそれが持つ“業”のようなものにまで踏み込んでいく。

 

こうやって深読みしていくと、『この世界の片隅に』は「芸術」そのものをテーマにした作品とも言えるわけなのである。

 

■二つのエンドロール

 

そして、この映画の主人公を「すず」ではなく「右手」と捉えると、エンドロールの持つ意味合いも、変わってくる。

 

 

これ、のんさんの舞台挨拶で本人から直接聞いてよかった。注意してなかったら見逃してたかもしれなかった。だって物語が終わった後は涙ぐんでたんだから。

 

ここから後はエンドロールにまつわるネタバレです。一度観た人も、ここに気を付けてもう一度観ると「あっ!」と気付くことがあると思う。

 

この映画、実はエンドロールが二つあるんです。一つは、監督やキャストやスタッフの名前が並ぶ、通常のエンドロール。そして、それが終わると、続いてもう一つのエンドロールが始まる。この映画はクラウドファウンディングで資金を集めているから、その支援者のクレジットを入れる必要もあって、こういう構成になっているわけです。だから本編が終わった後のエンドロールがとても長い。映画の感想でも「クラウドファウンディングのクレジットがとにかく長くてうんざりした」みたいなのを見かけた。

 

でも、それを飽きさせずにちゃんと魅せる工夫もしてある。ずらずらと名前が流れる脇に、映画で描いた物語の「その後」を示すような、二つのショートストーリーが描かれるのだ。

 

通常のエンドロールで描かれるのは、すずさんたちが呉で暮らす日常の風景。おそらく昭和25年くらいかな。物語の終盤で出会った孤児が成長し、つつがなく、幸せに暮らす家族。片渕須直監督の前作『マイマイ新子と千年の魔法』は昭和30年代を舞台にした物語で、そこと『この世界の片隅に』が地続きのストーリーであることも暗示しているのだと思う。

 

そして、クラウドファウンディングの支援者の名前が並ぶもう一方のエンドロールでは、手描きの絵が描かれていく。ただイラストのカットが流れるのではなく、白い画面に口紅を使って「右手が描いていく」過程がアニメーションで描写される。そこに登場するのは、原作から映画で大幅にカットされた遊女・リンの人生。少女時代のすずと出会い、呉の遊郭で再会し、友達になる。そんなストーリーだ。それを(リンと同じ遊女のテルの遺品だった)口紅で描くということにも、ちゃんと原作由来の意味がある。

 

そして、最後の最後で、画面隅にひらりと登場した「右手」が手を振るんですよ。

 

これを観たときに、うわっと思った。鳥肌が立った。

 

僕が考えるに、この二つのエンドロールは「此岸」と「彼岸」を示していると思うのです。前者は「生」で後者は「死」。一つ目のエンドロールは戦後、そして現代までちゃんと連続していく「生活」を、そしてもう一つのエンドロールは、失われてしまった命、亡くなってしまった人に思いを馳せる「追憶」を示している。だから前者では子供が幸せに成長していくさまが、そして後者には死んでしまった人の楽しかった思い出が描かれる。

 

だからこそ、バイバイと手を振るのは、彼岸の領域にある「右手」じゃなければならなかった。

 

すずさん自身は「この世界の片隅」に居場所を見つけて、ちゃんと救われた。希望を持った終わり方になった。でも、その一方で、失われてしまったものは、どうやって救うことができるのか。

 

そこが、まさに「右手」が主人公として果たした役割なのだろうと思う。描くことで、思いを馳せることで、想像力を働かせること、フィクションをまじえて物語ることで、懐かしい記憶や、住んでいた場所や、大切な人にもう一度会いにいくことができる。すずの「右手」はそういう特別な力を持っていることが、作中でも繰り返し示される(たとえば『鬼いちゃんの南洋冒険記』が、石ころになって帰ってきた兄をジャングルに蘇らせたように)。

 

そして、こうの史代さんと片渕須直監督が『この世界の片隅に』でやったのも、それと同じことだった。その時代を生きた人の生活のさまを丹念に調べ、たくさんの人に街の様子を聞き、とても丁寧に、広島で暮らしていた人の日常をアニメーションで蘇らせた。その経緯は以下の記事に詳しい。

 

www.nhk.or.jp

 

『この世界の片隅に』がとても丁寧に当時の人々の暮らしや日常を「描いて」いるのも、すずさんがスイカや干物や街の風景を作中で「描いて」いるのも、一つのメタ的な相似形なのだと思う。描くことで、手の届かないもの、失われてしまったものを近くに引き寄せることができる。それは「物語」の持つ、とても大きな力だ。

 

そういうところに、僕は深く感じ入ったのです。

 

 

劇場アニメ「この世界の片隅に」オリジナルサウンドトラック

劇場アニメ「この世界の片隅に」オリジナルサウンドトラック

 

 

日々の音色とことば 2016/12/01(Thu) 14:42

『ヒットの崩壊』の「はじめに」

講談社現代新書より上梓した単著『ヒットの崩壊』が発売になります。amazonでは11月16日となっていますが、明日、11月15日には都内書店に並び始めると思います。

 

ヒットの崩壊 (講談社現代新書)

 

f:id:shiba-710:20161114090406j:plain

 

この本の問題意識は、以下に引用する「はじめに」のところで書いています。

 

「ヒット曲」というものを一つの主題にした本ですが、音楽業界だけのことにとどまらず、流行の実情や、メディアと人々の接し方の変化、それによって生まれている社会の変化のうねりのようなものにも迫れたらと思って執筆を進めています。

 

―――――

 

はじめに

 

 「最近のヒット曲って何?」

そう聞かれて、すぐに答えを思い浮かべることのできる人は、どれだけいるだろうか? よくわからない、ピンとこないという人が多いのではないだろうか。

 かつてはそうではなかった。昭和の歌謡曲の時代も、90年代のJ−POPの時代も、ヒット曲の数々が世の中を彩っていた。毎週のヒットチャートを見れば、何が流行っているのか一目瞭然だった。テレビの歌番組が話題の中心にあった。

 でも、今は違う。シングルCDの売り上げ枚数を並べたオリコンのランキングを見ても、それが果たして何を示しているのか、判然としない。流行歌の指標がどこにあるのかわからない。それが今の日本の音楽シーンの実情だ。

 果たして何が起こっているのか?

 

 「音楽不況だからしょうがない……」

 そんなことを言う人もいる。確かにCDの売り上げは右肩下がりで落ち込んでいる。しかし、音楽の〝現場〟には、今も変わらぬ熱気がある。それは、音楽ジャーナリストとして20年近くロックやポップ・ミュージックについて取材と批評を続けてきた筆者の正直な実感だ。音楽フェスの盛況、ライブ市場の拡大もそれを裏付ける。

 では、なぜヒットが生まれなくなったのか? 実は、それは音楽の分野だけで起こっていることではない。

 ここ十数年の音楽業界が直面してきた「ヒットの崩壊」は、単なる不況などではなく、構造的な問題だった。それをもたらしたのは、人々の価値観の抜本的な変化だった。「モノ」から「体験」へと、消費の軸足が移り変わっていったこと。ソーシャルメディアが普及し、流行が局所的に生じるようになったこと。そういう時代の潮流の大きな変化によって、マスメディアへの大量露出を仕掛けてブームを作り出すかつての「ヒットの方程式」が成立しなくなってきたのである。

 

 本書は、様々な角度から取材を重ね、そんな現在の音楽シーンの実情を解き明かすルポルタージュだ。ミュージシャン、レーベル、プロダクション、テレビ、ヒットチャート、カラオケなど、それぞれの現場の人たちが時代の変化にどう向き合っているのか。その言葉は、たとえ音楽に興味がない人にとっても、あらゆる分野で「ヒット」が生まれなくなっている今の時代を読み解くためのキーになるのではないかと思う。

 

 本書の構成は以下のようになっている。第一章では、90年代から現在に至るまで、音楽産業がどう変わってきたかを解説する。CDが売れなくともアーティストが活動を続けられるようになった現状、「コンテンツ」から「体験」へとマーケットの軸足が移ってきたここ10数年の変化を読み解く。そして、日本の音楽シーンを代表するヒットメーカーとして、音楽プロデューサー・小室哲哉と、いきものがかり・水野良樹という二人の作り手に話を聞き、それぞれのスタンスと、ヒット曲についての考え方を探る。

 第二章ではヒットチャートの変化に迫る。極端な結果を示すようになったオリコン年間ランキングから、「AKB商法」とも言われる特典商法がヒットチャートを〝ハッキング〟してきた経緯を示す。そして、当のオリコン側はそのことをどう捉えているのかを尋ねる。また、複合的な指標による新たなヒットチャートのあり方を掲げるビルボード・ジャパンの狙いと、カラオケランキングから見えるヒット曲の受容の特徴を解き明かす。

 第三章はテレビの音楽番組をテーマにしている。10年代になって民放各局で放送されるようになった「大型音楽番組」の登場、そしてその長時間化は、果たして何を意味しているのか。制作者の意識を問う。

 第四章はライブ市場の拡大の背景にあるものを解き明かす。何故フェスは盛況を続けているのか。そして大規模な演出を用いたスペクタクルなワンマンライブやコンサートが増えてきているのは何故か。テクノロジーがライブを進化させた背景と、その行き先を探る。

 第五章では、ビジネスやマーケットではなく、音楽の中身について論じる。00年代以降、日本のポピュラー音楽の潮流はどう変わってきたのか。海外への憧れとコンプレックスから解き放たれて独自の進化を果たした「J‐POP」という言葉の意味合いの変化、そして日本発のポップカルチャーとして海外進出を果たしているその原動力を分析する。

 そして第六章では、大きな転換期を迎えている世界全体の音楽市場の動向を見据え、日本の音楽シーンの先行きを探る。ストリーミング配信が普及し十数年ぶりにレコード産業が拡大基調となった海外で、ヒットはどのように生まれるようになったのか。ロングテール以降の時代にグローバルなポップスターが君臨するようになった経緯、そして新たな「モンスターヒットの時代」の仕組みを解き明かし、この先に訪れる未来の可能性を示す。

 

 日本のロック/ポップス史に大きな足跡を残したミュージシャン・大瀧龍一は、かつてこう語った。

  歌は世につれ、というのは、ヒットは聞く人が作る、という意味なんだよ。ここを作る側がよく間違えるけど。過去、一度たりとて音楽を制作する側がヒットを作ったことはないんだ。作る側はあくまでも〝作品〟を作ったのであって〝ヒット曲〟は聞く人が作った。 (大瀧詠一『大瀧詠一 Writing & Talking』より)

 とても鋭い洞察だと思う。

 しかし、いつの間にか「歌は世につれ、世は歌につれ」という言葉自体をあまり耳にしなくなった。歌謡曲の時代には一つの定番だったフレーズは、今はその意味合いが薄れてきている。

 

 かつて、ヒット曲は時代を反映する〝鏡〟だった。  果たして、今はどうだろうか?

 

―――――

 

以上が「はじめに」で書いたことです。

 

J-POPの90年代と今を語る第一章では小室哲哉さんといきものがかり・水野良樹さん。ヒットチャートをテーマにした第二章ではオリコン株式会社の垂石克哉さんとビルボード・ジャパンの礒崎誠二さん、JOYSOUNDの鈴木卓弥さんと高木貴さん。テレビと音楽番組をテーマにした第三章では『FNS歌謡祭』『FNSうたの夏まつり』の総合演出を手掛けるフジテレビの浜崎綾さん。ライブをテーマにした第四章では、BUMP OF CHICKENやサカナクションやKANA-BOONを手掛けるヒップランドミュージックコーポレーションの野村達矢さん。日本と海外の音楽シーンの関係性の変化を書いた第五章では、もう一度水野良樹さんと、シュガー・ベイブやフリッパーズ・ギターを手掛け日本のポップスの歴史の体現者であるプロデューサー・牧村憲一さん、きゃりーぱみゅぱみゅや中田ヤスタカ擁するレーベルunBORDEのレーベルヘッド鈴木竜馬さん。そして第六章では、再び小室哲哉さん、水野良樹さん、鈴木竜馬さんにご登場いただきました。

 

僕一人の論考ではなく、ミュージシャン、プロデューサー、マネジメント、ヒットチャート、テレビ、カラオケなど、音楽の現場にいる人たちの生の言葉があってこそ成立した本だと思っています。改めて感謝しております。

 

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反響にも感謝。

 

そして最後に告知ですが、ブログ「All Digital Music」を主宰するデジタル音楽ジャーナリスト、ジェイ・コウガミさんと、この本、特に第六章で書いたストリーミング以降の音楽シーンについて語るトークイベントを11月15日に開催します。詳細は以下。

 

『ヒットの崩壊』(講談社現代新書)刊行記念
柴那典×ジェイ・コウガミ「テクノロジーは音楽をどう変えたのか?」

開催日時:2016年11月15日(火)19:30スタート
開催場所:スマートニュース イベントスペース(渋谷)
イベントページ:http://peatix.com/event/211745/

 

peatix.com

 

 

 

ヒットの崩壊 (講談社現代新書)

ヒットの崩壊 (講談社現代新書)

 

 

日々の音色とことば 2016/11/14(Mon) 09:34

アメリカのポップスターは、束になってもトランプに勝てなかった

Embed from Getty Images

 

■二つの世界の分断

 アメリカ大統領選の結果が出た。ドナルド・トランプが第45代大統領に就任することになった。

 

まずは僕自身の実感をここに記しておきたい。リアルタイム実況で赤く塗りつぶされていくアメリカ合衆国の地図を見て、うわぁ、と茫然としたのが正直なところ。大方のメディアの予想を覆す結果になったというのもある。「まさか」というのが第一印象。正直ゾッとした。

 

クリントン当選確実という報道は事前に広まっていた。支持率調査もそれを裏付けていた。選挙戦を通して伝わってきたトランプのさまざまな醜聞、スキャンダル、荒唐無稽な政策を見て「さすがに大統領に選ばれることはないだろう」と思っていた。けれど結局トランプは勝ち、上院も下院も共和党が議席を握った。事前の見込みはひっくり返った。

 

けれど、起こったことは事実だ。アメリカの人たちは彼をリーダーとして選んだわけだし、その結果を受け入れて尊重するのが民主主義というやつだ。

 

そしてもう一つ。ゾッとした理由は、赤と青に塗り分けられた地図に見覚えがあったからだ。思い出したのはイギリスのEU離脱を決める国民投票。Brexitの時も、結局、投票前に報じられていた見込みは開票当日に覆った。

 

地図は二つの国の分断をクリアに示している。

 

EU離脱=青、EU残留=黄色に塗り分けられたイギリスの地図は以下。

 

f:id:shiba-710:20161110143526p:plain

 

北部のスコットランド、北アイルランドを除けば、EU残留派が大勢を占めているのは南東部のロンドンやオックスフォードが中心だ。

 

そして今回、トランプ=赤、クリントン=青に塗り分けられたアメリカの地図は以下。

  

f:id:shiba-710:20161110143452p:plain

 

 

ニューヨーク州やカリフォルニア州はクリントン、民主党支持の「青い州」だ。そしてトランプと共和党に票を投じた「赤い州」は内陸に広がっている。そして、デトロイトのあるミシガン州、オハイオ州、ペンシルバニア州など「ラストベルト(さびついた工業地帯)」と呼ばれる地域の趨勢がトランプ支持に雪崩れたことが決定打となった。

 

上記の二つから思ったのは、どうやらロンドンやニューヨークはある種の「都市国家」になってきているのだろう、ということだ。そしておそらく、東京も。グローバル企業が拠点を置く都市に暮らしている人たちの価値観や思想と、内陸の郊外や田舎に暮らす人たちの価値観の乖離は、どんどん広がっている。

 

ロンドンにはシティがあり、ニューヨークにはウォール街がある。多くの金融機関がそこに拠点を置いている。メディア企業や情報産業も都市に拠点を置いている。商社もある。カリフォルニアにはシリコンバレーがあって、そこには世界的なテクノロジー企業が集まっている。彼らが相手にしているのはグローバル化を前提にした「オープンになっていく世界」だ。金融資本も情報も国境を軽々と超えてリアルタイムで移動する。富を生み出すのは知識と人的資本で、だから生まれた場所も人種も性別も多様な人たちが集まることが「是」とされる。多文化で、フラットで、より多様性に寛容で、より自由でクリエイティブな環境が称揚される。

 

一方で、内陸に暮らす人たちの目の前にあるのはグローバル化によって「閉ざされていく世界」だ。工場では、かつての雇用や繁栄が、少しずつ抜けていく歯のように失われていく。大きな視点で見ればそれは地球規模の富の平準化に他ならないのだろうけれど、そんなことを言われようがなんだろうが、その地に這いつくばって生きてきた人たちの間に「ふざけんな」という苛立ちは募る。

 

うねりを生み出したのは決して「貧乏な白人労働者階級」ではない。年長の高所得者層、つまり従来から共和党を支持してきた富裕層もトランプ支持に動いたことはデータが示している。以下の記事にそれが詳しい。

 

bylines.news.yahoo.co.jp

 

一方でシリコンバレーの投資家たちは平常心を失い、(半ばジョークだろうけど)カリフォルニアの分離独立を主張するような人すらいる。

 

jp.techcrunch.com

 

年齢に関しては若者がヒラリー、高齢者がトランプを支持していたことをデータが示している。特にミレニアル世代の投票結果を見るとほぼ全ての州が青に塗りつぶされている。

 

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これも理由は明らかで、ミレニアル世代(特に若くして政治に関心を持つような高い教育を受けている階層)が見ているのは、やはり前者の「オープンになっていく世界」だからだ。たとえ住んでいる場所は田舎でもその機会は開かれている。一方で、内陸の郊外や田舎で暮らす中高年層たちが見ているのは、たとえ工場や地元企業の経営者だったりして所得は高くても、やっぱり後者の「閉ざされていく世界」だ。

 

そしてトランプは後者に、強く、強く訴えかけた。

 

まあ、そんな風に簡単に世の中を二分できるという考え方自体がどうなんだろう、という気もするけど。少なくとも、今回の投票結果を導いたものの一つに「アンチ・エスタブリッシュメント」の潮流があるのではないかというのは以前から指摘されていたところ。

 

だからメディアはこの潮流を予測できなかった。というか、メディア企業の人たちは前者の「オープンになっていく世界」に属する人種で、後者の人たちの中に身体ごと飛び込んでいくのは、マイケル・ムーアのような数少ない例外を除けば、ほとんどいなかった。

 

だからマイケル・ムーアは7月の時点から「トランプが大統領になる」と繰り返し予測してきた。

 

www.huffingtonpost.jp

 

そして、マスメディアも含めて「より多様性に寛容」なはずの人たちの中には、選挙戦を通して、後者の人たちの愚かさを叩いたり、蔑んだりするような動きもあった。だからこそ、分断の溝は深まった。

 

そういうことなのではないかと思う。

 

■ 「ミュージシャン VS トランプ」の結果

 

この結果を受けて、僕が強く感情を揺さぶられたのは、エンターテイメントやポップカルチャーについてのことだ。

 

今回の大統領選の結果自体は、いろいろな思いはあるけど、フラットに受け止めようと思っている。だけど、はっきりと悔しい気持ち、とてもつらい落胆の感情があるのは、僕の大好きなアメリカのミュージシャンたち、俳優や、映画の作り手たちが、束になっても「勝てなかった」ことだ。

 

僕は特にアメリカの音楽シーンを支えるミュージシャンたちの動きを注視していた。日本と違って、多くのアーティストが政治的なスタンスを明らかにするのがアメリカという国だ。

 

そして、見たところ、トランプ支持のアーティストはほとんどいなかった。キッド・ロックとアジーリア・バンクスくらいかな。マドンナも、ビヨンセも、レディー・ガガも、ケイティ・ペリーも、アリアナ・グランデも「#I'mWithHer」(クリントン支持のハッシュタグ)だった。

 

digital.asahi.com

 

カニエ・ウェストも、チャンス・ザ・ラッパーも、エミネムも、アーケイド・ファイアも、いろんなミュージシャンが「反トランプ」だった。ローリング・ストーンズも、エアロスミスも、ニール・ヤングも、R.E.M.も、ホワイト・ストライプスも、トランプの選挙キャンペーンに自分たちの曲が使われたことを非難してきた。

 

news.aol.jp

 

楽曲使用を快諾したのはトゥイステッド・シスターくらいで、「ミュージシャン VS トランプ」の対立構造は明確だった。

 

以下の記事にはその顔ぶれがまとめられている。

www.nme.com

 

ハリウッドだってそうだった。クリント・イーストウッドなど数少ない例外を除けば、多くの俳優や監督がクリントンを支持していた。

 

どれもセレブリティ中のセレブリティたちだ。ツイッターやインスタグラムのフォロワー数を足したらアメリカの全人口を軽く上回るくらいの影響力だ。けれど、彼らの支持や応援は響かなかった。

 

彼らがツイッターでトランプの間違いを論理的に正したり、揶揄するようなことを指摘したりしても、それは結局何にもならなかった。支援コンサートやライブも何度も開かれた。しかしそれも「トランピズム」の潮流を押し返すことはできなかった。

 

なんというか、とても残念で悲しい気持ちがある。「この先の日米関係は~」とか「アメリカ社会の分断が~」みたいな、そういう大上段の話じゃない。応援しているチームが見くびっていた相手チームに負けてしまったときのような、そういう気持ち。きっとそれは僕がレディー・ガガやビヨンセやマドンナやケイティ・ペリーが好きだからで、僕と同じように彼女たちのファンである若者たちも、きっと同じような打ちひしがれた気持ちがあるんじゃないか思う。

 

僕としては、その理由はこんな風に分析している。

 

成功したポップ・ミュージシャンやポップスターは、マイケル・ムーアが言うところの「トランプランド」、この記事で書いた「閉ざされていく世界」に住んでいる中高年層にとっては、やはり違う世界の住人に見えているのだろう。SpotifyやApple Musicなどのストリーミング配信は急速に世界の音楽シーンを一つにしている。大規模なワールドツアーを繰り広げる音楽界のトップスターは、ニューヨークやシリコンバレーで働いている「その気になればどの国でも才能を発揮できる」人たちと同じように「オープンになっていく世界」を目の前にしている。

 

そういうセレブリティたちに、トランプがいかにレイシストでセクシストかをこんこんと説明されても、それは「ポリティカル・コレクトネスの棍棒で殴られた」苛立ちにしか感じなかったのかもしれない。

 

なんと言うか、そういうことも含めて、とても悔しい気持ちがある。

 

■内戦の時代へ

 

ミュージシャンたちは、クリントンの敗北とトランプの勝利を受けて、こんな風にツイートしている。

 

www.cinra.net

 

 

マドンナは「私たちは諦めない。私たちは屈しない」とツイートし、「希望を失わないで」と告げた。

 

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レディー・ガガは「私は#CountryOfKIndness(思いやりのある国)に住みたい」「#LoveTrumpsHate(愛は憎しみに勝る)」とハッシュタグをつけてツイートした。

 

<script src="//platform.twitter.com/widgets.js" async="" charset="utf-8"></script>

 

 

ケイティ・ペリーは「座り込まないで。泣かないで。動こう。私たちは憎しみに導かれる国に住んでいるわけじゃない」と。

 

<script src="//platform.twitter.com/widgets.js" async="" charset="utf-8"></script>

 

 

その他、沢山のリアクションが以下の記事にまとめられている。

 

www.billboard.com

 

pitchfork.com

 

pitchfork.com

 

沢山のミュージシャンが失望を表明し、それでもマドンナやレディー・ガガやケイティ・ペリーをはじめ、多くの人たちがファンを鼓舞するようなメッセージを発している。諦めるな、負けるな、再び立ち上がれ、と。

 

それを見て僕は思う。

 

2016年は、アメリカにおいても、イギリスにおいても、新しい時代の扉が開いたのだと思う。

 

それは、僕が思うにある種の「内戦の時代」だ。資本家と労働者、右翼と左翼、白人と黒人みたいな、従来の対立とは構造が違う。「オープンになっていく世界」と「閉ざされていく世界」、それぞれの住人同士の戦いの火蓋が切って落とされた。それがBrexitと大統領に起こった二つの番狂わせの理由なのかもしれない。

 

そして、おそらく日本においてもそれは同じなのだろう。静かな内戦が少しずつ始まっている。

 

 

日々の音色とことば 2016/11/10(Thu) 14:50

【告知】新刊『ヒットの崩壊』が11月15日に発売になります。

 

ヒットの崩壊 (講談社現代新書)

 

 

ヒットの崩壊 (講談社現代新書)

ヒットの崩壊 (講談社現代新書)

 

 

今日は告知。11月15日に新刊『ヒットの崩壊』が、講談社現代新書より発売になります。(amazonでは16日発売ですが、書店では15日あたりから並び始めるはずです)

 

「激変する音楽業界」と「新しいヒットの方程式」をテーマに、各方面に取材して半年くらいかけて書き下ろした一冊です。このブログでも発売までいくつか記事をアップしていこうと思いますが、まずは、ざっくりと内容を。以下が目次です。

 

 ■目次

はじめに

第一章 ヒットなき時代の音楽の行方

1 アーティストもアイドルも「現役」を続ける時代

  • 「音楽不況」は本当か?
  • CDは売れなくともアーティストは生き残る
  • 「ブームはいつか終わるもの」だった90年代
  • 「遅咲きバンドマン」が武道館へ
  • 終わらなかった「アイドル戦国時代」
  • 音源よりもライブで稼ぐ時代に
  • 失われた「ヒットの方程式」
  • 2010年代の前提条件

2 みんなが知っている「ヒット曲」はもういらない?

  • 小室哲哉はこうしてヒットを生み出した
  • タイアップとカラオケがもたらしたもの
  • 「刷り込み」によってヒットが生まれた
  • 宇多田ヒカルの登場と20世紀の大掃除
  • AKB48とSNSの原理
  • 動員の時代
  • いきものがかり・水野良樹が語るJ-POPの変化
  • 音楽は社会に影響を与えているか
  • バラバラになった時代を超えるために
  • 「共通体験」がヒットの鍵を握る

第二章 ヒットチャートに何が起こったか

1 ランキングから流行が消えた

  • 異様な2010年代の年間チャート
  • オリコンチャートからは見えない「本当の流行歌」
  • 音楽は特典に勝てない
  • オリコンはなぜ権威となり得たか
  • 「人間の対決」が注目を集める
  • ヒットチャートがハッキングされた
  • そもそもCDを買う意味とは
  • オリコンの未来像

2 ヒットチャートに説得力を取り戻す

  • ビルボードが「複合チャート」にこだわる理由
  • 「ヒット」と「売れる」は違う
  • ランキング1位の曲を思い出せるか
  • 懐メロの空白
  • カラオケから見える2010年代の流行歌
  • 定番化するカラオケ人気曲
  • J-POPスタンダードの登場
  • ヒット曲が映し出す「分断」

第三章 変わるテレビと音楽の関係

 1 フェス化する音楽番組

  • 東日本大震災がテレビと音楽の歴史を変えた
  • 各局で超大型音楽番組が拡大中
  • フェス文化を取り入れて進化した
  • 「入場規制」が人気のバロメーター
  • スマホでフェスが生中継される時代に
  • 制作者の意識はどう変わったか
  • 「メディアの王様」ではなくなった
  • 「音楽のお祭り」を作る

2 テレビは新たなスターを生み出せるか

  • 狙いは「バズる」こと
  • 人気を測る尺度が複数になった
  • テレビの役割は紹介になった
  • 『ASAYAN』以降の空白
  • 世界的なスターは今もテレビから生まれている

 第四章 ライブ市場は拡大を続ける

  • ライブビジネスが音楽産業の中心になった
  • 音楽体験は「聴く」から「参加する」へ
  • 「みんなで踊る」がブームになった時代
  • 時間と空間を共有する
  • 前代未聞の「事件」がもたらしたもの
  • アミューズメント・パーク化したフェス
  • スペクタクル化する大規模ワンマンライブ
  • ピンク・フロイドとユーミンがライブを「総合芸術」にした
  • ライブの魅力は「五感すべて」の体験
  • メディアアーティストがライブの未来を作る

 第五章 J-POPの可能性――輸入から輸出へ

 1 純国産ポップスの登場

  • 洋楽コンプレックスがなくなった
  • J-POPの起源にあった「敗北の意識」
  • ニッポンの音楽の「内」と「外」
  • 演歌も「舶来文化」から生まれた
  • 『風街ろまん』が日本のロックの起点になった
  • はっぴいえんどのイノベーション
  • アメリカへの憧れと日本の原風景
  • 洋楽に憧れない世代の登場
  • J-POPが「オリジン」になった
  • なぜカバーブームが起こったか
  • ブームの仕掛け人は誰か
  • 大瀧詠一の「分母分子論」

2 新たな「日本音楽」の世界進出

  • なぜBABYMETALは世界を熱狂させたのか
  • 「カレーうどん」としての発想
  • 「ミクスチャー」から生まれた発明
  • 「過圧縮ポップ」の誕生
  • 「パンク」としてのきゃりーぱみゅぱみゅ
  • 原宿の元気玉
  • 中田ヤスタカが作る次の「東京」

第六章 音楽の未来、ヒットの未来

  • 過渡期の続く音楽業界
  • 所有からアクセスへ
  • 拡大するグローバル音楽産業
  • 世界の潮流に乗り遅れた日本の音楽業界
  • 変化を厭い「ガラパゴス化」した
  • この先に何が訪れるのか
  • 音楽を“売らない”新世代のスター
  • アデルの記録的な成功
  • 「ニッチの時代」は来なかった
  • ロングテールとモンスターヘッド
  • サブカルチャーとしての日本音楽
  • 小室哲哉の見出す「音楽の未来」
  • unBORDEの挑戦
  • 健全な「ミドルボディ」を作る
  • 水野良樹が語る「ヒットの本質」
  • 「歌うこと」が一番強い
  • 音楽シーンの未来

おわりに

 

ヒット曲は、かつて時代を反映する”鏡”だった。果たして、今はどうだろうか?

 

――というのが、本の全体のテーマ。「コンテンツ」から「体験」へと消費の軸足が移ってきたここ10数年の変化を経て、音楽ビジネスのあり方はどう変わってきたのか? そして日本の音楽シーンのこの先はどうなっていくのか? というのを、ミュージシャン、プロデューサー、マネジメント、ヒットチャート、テレビ、カラオケ……という各方面のキーマンに取材して書きました。

 

取材に快諾いただいた小室哲哉さん、いきものがかり・水野良樹さん、オリコン株式会社の垂石克哉さん、ビルボード・ジャパンの礒崎誠二さん、株式会社エクシングの鈴木卓弥さんと高木貴さん、フジテレビの浜崎綾さん、ヒップランドミュージックコーポレーションの野村達矢さん、牧村憲一さん、ワーナーミュージック・ジャパンの鈴木竜馬さんには心から感謝をしております。

 

手前味噌ですが、音楽ジャーナリストとしての勝負作のつもりで書きました。発売はもう少し先ですし、まだ書影も出てないくらいの段階ですが、ぜひチェックよろしくお願いします。

 

ヒットの崩壊 (講談社現代新書)

 

ヒットの崩壊 (講談社現代新書)

ヒットの崩壊 (講談社現代新書)

 

 

 

 

 

日々の音色とことば 2016/10/27(Thu) 08:00

『君の名は。』は、何故ここまでヒットしたのだろうか

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 ■「オタクとリア充」みたいなことじゃない

 

『君の名は。』を、もう一度観てきた。

 

www.oricon.co.jp

 

正直、ここまでヒットすると思ってなかった。興行収入ランキングは3週連続1位。累計では早くも動員481万人、興収62億円を記録している。すごいことになっている。『シン・ゴジラ』も社会現象的なヒットを巻き起こしたけれど、それを上回る成績。評判もすこぶる良い。

 

なので、今日は『君の名は。』について、ちゃんと書いておこう。僕も試写で観たときには絶賛モードだったけど、ここまでの現象を巻き起こすことは予期してなかった。

 

なんでこの映画はここまでヒットしたのか? 


批評家の東浩紀さんは『君の名は。』のヒットについて、『シン・ゴジラ』とあわせて、こうツイートしている。

 

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togetter.com

 

  

その前後のツイートで東さんが引用している批評家の渡邉大輔さんはこう書いている。

 

『君の名は。』をその深部で規定しているのは、新海がその出自としてもっている、ゼロ年代の美少女ゲームのジャンル的想像力だといえると思います。

 

今回の空前の『君の名は。』現象が興味深いのは、かつて「10~30代の男性オタク」をおもな消費者にし、しかも男性向けポルノメディアのムービー制作にもかかわっていた新海が、明確にそれらかつての物語的/ジャンル的記憶に「原点回帰」して作っているはずの作品が、セカイ系も美少女ゲームもまったく知らない「10代の女性観客」を中心に、目下、前代未聞の大ヒットを記録しているという事実でしょう。きわめてニッチなファンに向けて、マイナーなジャンルから出発した作家が、ある種の「原点回帰」した作品で、破格のメジャー性=国民性を獲得してしまった。ここには、多くの「捻れ」が潜んでいます。

  

realsound.jp

 

 でもこれ、「オタクとリア充」みたいな話じゃないと思うんだよなあ。

 

『君の名は。』のヒットの背景には、新海誠監督が考えた「エンタテインメント性」の徹底がちゃんとあると思う。社会論というよりも、むしろ技術論として還元できる話だと思う。

 

たしかに渡邉大輔さんが指摘してる通り、「ループ的な物語構造」は、ある意味、今の時代の作劇としては定番のネタだと思う。『涼宮ハルヒの憂鬱』とか『時をかける少女』とか『魔法少女まどか☆マギカ』など、先例がたくさんある。

 

物語構造としては「ベタ」である。でも『君の名は。』が優れていたのは、それをどう見せるかという観点だったと思う。SF的な難解さよりも「胸キュン」を優先させる演出。そして、疾走感あるストーリー展開の巧みさなのではないかと思う。

  

 

■ エンタテインメント性とは「時間軸のコントロール」

 

新海誠監督は、この『君の名は。』を作るにあたって、エンターテイメント性を重視したことをインタビューで語っている。

 

今ならば、もっと鮮明にエンターテインメントを描けるという感覚はありました 

 

kai-you.net

 

では、新海誠監督の考える「エンターテイメント性」とは何か。過去の作品と今作で大きく違うのは何か。それは「時間軸のコントロール」だ。美しい絵という「静的」な魅力はすでに自身の強力な武器として持っている。けれど今回に新海誠監督が意識したのは「動的」な魅力を映画にいかに宿すかだった。

 

とにかく見ている人の気持ちになって、できるだけ退屈させないように、先を予想させない展開とスピードをキープする。一方で、ときどき映画を立ち止まらせて、観客の理解が追いつく瞬間も用意する。それらを作品のどの場面で設けるか、徹底的に考えました。

 

『君の名は。』の上映時間である107分間をいかにコントロールするかは、僕にとっての大きな仕事でした。 

  

前述のKAI-YOUのインタビューで新海誠監督はこうも語っている。

 

■「音楽×映画」の相乗効果

 

そしてやっぱり、その上で大きな役割を果たしたのがRADWIMPSの音楽だったと思う。

 

以前にもリアルサウンドの原稿で書いたけれど、『君の名は。』では、これまでのアニメーション映画の文法からは逸脱するような演出がなされている。

 

realsound.jp

 

 

主題歌は「前前前世」含めて全部で4曲。よく思い浮かべる「エンドロールに流れる歌」だけじゃない。歌モノの楽曲がストーリーの中に不可欠なパーツとして位置している。

 


RADWIMPS 前前前世 (movie ver.) MV

 

RADWIMPSのアルバム『君の名は。』の初回限定盤DVDに収録された新海誠監督とバンドとの対談では、新海誠監督はこんな風に語っている。

 

RADWIMPSって、アニメーション映画の中にどうハマるんだろう、本当に可能なのかなって。下手をすると、その強度みたいなものに飲み込まれて、「ラッドの映画だったね」ってことになっちゃいかねない。 

  

だから、劇伴とかBGMとか主題歌みたいな考え方じゃなくて、神木隆之介さんや上白石萌音さんみたいな登場人物の一つとしてRADWIMPSの楽曲がある。そういう設計の仕方をしないと上手くいかないだろうなと思いました。

 

 

君の名は。(初回限定盤)(DVD付)

君の名は。(初回限定盤)(DVD付)

 

 

 

 

RADWIMPSの楽曲があったことが、新海誠監督の意識した「107分間をいかにコントロールするか」という狙いの照準を定める助けになったはず。実際、ビデオコンテを作ったこと、その時に音楽が重要な役割を果たしたことも以下のインタビューで語っている。

  

『君の名は。』のビデオコンテでは効果音も全部入れているんです。仮の効果音なんですけど足音とかも入れていて、どちらかというと絵を書くというよりは、音のトラック、音のリズムでどうやって107分間聴かせるかということをやっていきました

 

RADWIMPSとのコラボレーションの中で彼らが作ってくれた音楽というものが、物語の形を少しずつ変えていったというのはあります。今回音楽はすごく大きな要素だったので、彼らの疾走感というものが物語に出ています。例えば主人公の2人がお互いにスマホでやりとりをするだけではなくて、体に何かを書くというコミュニケーションは最初の脚本では無かったんです。RADWIMPSからあがってきた曲を聴いていたら、勢い的にスマホだけじゃおさまらずもっと外側に刻み付けるような行為をやらないとこの絵に音楽が乗らないという気持ちにさせられて、シナリオが変わっていきました。 

www.sensors.jp

   

初回限定盤DVDの対談でも、物語と音楽が一体だったことを語っている。

 

最初にあげていただいた「前前前世」や「スパークル」があったから、それを聴きながらコンテを書いていったので。だからもう、初めから一体だった感覚はありますね。「この言葉なんだ、この作品で言おうとしているのは」というのが歌詞の中に沢山あった。

 

 

■プロデューサー・川村元気の天才性

 

ということは、つまり。

 

これはもう、制作の初期段階で新海誠とRADWIMPSを結びつけ、この座組みを作ったプロデューサー・川村元気の勝利だと思う。『君の名は。』のヒットの「仕掛け人」はやっぱり彼だと思う。プロダクションノートや対談でも最初の出会いが語られている。

 

「新海から好きなロックミュージシャンとして名前が出てきたのが、RADWIMPS。奇しくも川村がボーカル・ギターの野田洋次郎と交流があったことから、一気に話は進んでいった」 

 

映画『君の名は。』公式サイト

 

 

新海「川村元気プロデューサーと音楽の話をしていて『そもそも誰が好きなの?』って訊かれて『好きなのは、RADWIMPSです』って答えて。その時はラッドの音楽がアニメーションの画面に合うかどうかも考えず、単に好きなものを答えただけでした。でも川村さんが『俺、洋次郎くん、知ってるよ』と、その場でLINEをして」

――その時のこと、覚えてます?

野田「LINEが来た瞬間は覚えてないんですけど(笑)、でもお話してもらった時は覚えてます。面白い組み合わせだなあと思いましたし、新海さんの作品はもともと知ってたんです。お会いした時に本作のストーリーを持ってきてくださって」

新海「脚本の初稿でしたね」

野田「それが面白かったし、ちょっと今までの新海さんのテイストとは違うなと。一段と複雑にいろんな要素が入り組んでいたし、一読して理解できないぐらいの奥行きがあって。すごい世界が広がっているなと思いました」

新海「最初がホテルのラウンジで、次がお蕎麦屋さんでしたね」

野田「お蕎麦屋さんで会いましたね(笑)」

新海「で、その2ヵ月後ぐらいに曲が上がってきたんです」

野田「『まず読んでみて、まっさらなところで曲を書いていただけませんか』と言われて。だからどのシーンに使うとかじゃなく、まずストーリーを目にして、思ったものを曲にしてみますと。監督もラッドの曲を聴き込んでくださっていて、だからこそ『君の名は。』という世界を拝借して新曲を作ることが真っ当にやるべきことなんだろうなと思いました」

 

ro69.jp

 

こういう風にお互いに共通する世界観、作家性を持つクリエイターを結びつけるのが、まさに「プロデューサーの仕事」なんだなと思う。

 

そして、「音楽×映画」という観点で見ると、川村元気という人はいろんな実績がある。

 

『おおかみこどもの雨と雪』『バケモノの子』では、細田守監督と高木正勝を結びつけた。

 


映画「おおかみこどもの雨と雪」予告3

 

 

『バクマン』では大根仁とサカナクション・山口一郎を結びつけた。


「バクマン。」予告

 

山口一郎は映画の劇伴音楽を全て手掛け、主題歌として「新宝島」を作った。

 


サカナクション / 新宝島

 

 

10月15日公開の『何者』では中田ヤスタカが劇伴音楽を手掛けている。主題歌の「NANIMONO」は米津玄師を作詞・ボーカルに迎え、中田ヤスタカ feat.米津玄師という名義でリリースされる。

 


『何者』予告編

 

『何者』も試写で観たんだけど、これも、すごく面白かった。中田ヤスタカが劇中音楽でこれまでのイメージを覆すようなサウンドに挑んでいて、主題歌も、米津玄師とのコラボレーションによって両者にとって新境地になるような一曲に仕上がっていた。

 

高木正勝や山口一郎や野田洋次郎や中田ヤスタカのような作家性の強いアーティストに「映画のための音楽」を作らせる手腕。さらに主題歌と劇伴を同じアーティストが手掛けることによって、映画と音楽が密接に関わりあう作品に仕上げる手腕。そのあたりは、『バクマン』や『君の名は。』や『何者』に共通する、川村元気のプロデューサーとしての天才性だと思う。

 

ちなみに。

 

「新海誠監督の『君の名は。』を観て、ピクサーのジョン・ラセター方式をすべて捨てようと決意した」と言っている人がいるんだけど、

 

新海誠監督の『君の名は。』を観て、ピクサーのジョン・ラセター方式をすべて捨てようと決意した。《天狼院通信》 - 天狼院書店

 

それは大きな間違いだと思うんです。

 

ピクサーにジョン・ラセターがいるのと同じように、東宝に川村元気という人がいる、というのが僕の認識。

 

 

■もう一つの主題歌「蝶々結び」

 

 (ここからは映画の核心部分にまつわるネタバレを含むので未見の方は注意)

 

 

RADWIMPS『君の名は。』初回限定盤の対談は他にもとても面白い内容がたくさんあった。

 

新海誠監督はどうやら『君の名は。』を作るにあたって「ふたりごと」の歌詞に影響を受けていたらしい。

 

 「一生に一回のワープをここで使うよ」って、作劇上のピークみたいな言葉がそこに来てるわけですよ。「一生に一回のワープ、これだ!」みたいな。「ここで口噛み酒を飲むんだ!」って。ヒントだらけでした。ずいぶん導いてもらった感覚がある。

 

そう考えると、たしかに「ふたりごと」の歌詞と、口噛み酒を飲むところのシーケンスはとても共通しあうところある。

 

 


ふたりごと RADWIMPS MV

 

俺は地球人だよ
いや、 でも仮に木星人でもたかが隣の星だろ?
一生で一度のワープをここで使うよ
君と僕とが出会えた 奇跡を信じてみたいんだ
君と僕が出会えたことが奇跡だろうとなんだろうと
ただありがとう 君は言う
奇跡だから 美しいんだね 素敵なんだね.

「ふたりごと」RADWIMPS

 

一方、野田洋次郎の方も、『君の名は。』の音楽を担当することで、自分の音楽性に大きな影響を受けたことを語っている。

 

恋愛の歌って、僕の中では減ってきたというか。同じことは歌えないので、その感覚の中で僕の人生の割合の中で減ってきちゃって。この感覚を呼び覚ましてくれたのは間違いなくこの映画でした。途中まで書いてたような曲でも、それを仕上げるために歌詞がどうしても書けなかった曲もあって。そういうものも、全部新海誠さんんが作ったストーリーの登場人物が影響を与えてくれて。「こんな歌詞が書けるんだな」って、嬉しかったです。映画に引っ張られて、あのストーリーを観たからできた。

 

これ、僕は「蝶々結び」のことを言っているのではないかと思う。野田洋次郎がプロデュースしたAimerの新曲。これ、本当に大好きな曲で。そして、僕は勝手に『君の名は。』の「もう一つの主題歌」だと思っているのだ。

 


Aimer 『蝶々結び』 ※野田洋次郎(RADWIMPS)楽曲提供・プロデュース

 

映画を観た人ならきっと納得してくれると思う。

 

『君の名は。』の主題のモチーフに「結び」というものがある。主人公の三葉が住むのは「糸守」だし、そこで三葉が自分で結った組紐が、瀧と三葉を結びつける大事なアイテムになる。

 

物語の終盤、三葉は、一人東京に出かけて瀧に会いにいく。でもそこに居たのは「3年前の中学生だった瀧」で。向こうはこっちを知らないわけで、そっけない対応をされてしまう。で、その時にハッと思いついて、自分が髪を結んでいた組紐をわたす。

 

そして「現在の瀧」が彗星によって崩壊した糸守にやってくる。瀧はその組紐をミサンガのように腕に巻いている。誰から貰ったかを忘れてしまっても「お守り代わりに」身に付けるのが習慣になっている。

 

そして「誰そ彼時」のマジックタイムに、二人が出会う。ほんの一瞬の逢瀬の時間。その時に、瀧が腕に巻いた組紐を三葉に手渡す。

 

そこでハッとするのは、三葉がその組紐を髪に「蝶々結び」で結んだこと。

 

 

鈴木謙介はこんな風に書いている。

 

瀧と三葉の二人が出会えた理由は「ふたりがともに同じだけの力で出会おうとしたから」という風には言えないだろうか。瀧が三葉に会いに行ったように、三葉もまた瀧に合うために東京に出ていた。二人はクレーターの縁で、異なる時間軸の中で互いを探していた。ラストシーンにおいても二人は、互いの姿を認めるまではもやもやした気持ちを抱えていたものの、その気持の出処を求めて一方だけが誰かを探しに行くということはなかった。二人が同じ気持で同じだけの力を込めて相手を求めた時に、ようやく二人は出会うことができるのである。

 

blog.szk.cc

 

ここはまさに同意。

 

映画のオープニングを飾る「夢灯籠」では

 

消えることない約束を 二人で「せーの」で言おう 

  

と歌う。

 

そして「蝶々結び」では

 

 

この蒼くて広い世界に 無数に散らばった中から

別々に二人選んだ糸を お互いたぐり寄せ合ったんだ

結ばれたんじゃなく結んだんだ

二人で 「せーの」 で引っ張ったんだ 

 

と歌う。

 

ちゃんと呼応している。

 

 

だから僕は『君の名は。』に、一つだけ不満があって。

 

それは「なぜこの曲を使わなかったのか」ということ。もちろん事情はいろいろあるのかもしれないけれど、この曲がエンドロールの「向こう側」で鳴っていたら、観客の感動にさらにトドメのようなものをさせたんじゃないかと思うのだ。

 

「なんでもないや」もとてもいい曲だけど、「蝶々結び」は野田洋次郎という音楽家にとっても、代表作の一つになっていいような曲だと思う。一つのメルクマールを示すような曲になっている気がする。

 

ともかく。

 

『君の名は。』は、すごくいい映画だったと思うし、それがちゃんとヒットしているということは、率直に、とても嬉しいです。

 

 

日々の音色とことば 2016/09/14(Wed) 12:22

SMAP解散の「真相」と「本当」について

SMAPは終わらない~国民的グループが乗り越える「社会のしがらみ」

 

■「関係者」が語るもの

 

今日はSMAPの解散を巡る「真相」と「本当」の話。

 

と言っても、僕が何かを知ってるわけじゃない。事情通みたいな話をしたいわけじゃない。むしろその逆だ。

 

そういう話は、スポーツ新聞とか週刊誌とかネットメディアに山ほど載っている。そして、それを見ると、どのスタンスで書かれた文章でも同じ「書かれ方」をしている。というのも、ほとんどが「芸能記者」とか「事務所関係者」とか「テレビ局関係者」とか「知人」みたいな匿名の内部者がコメントし、それを元にストーリーを組み立てる構成になっている。それをもとに、何があったのか、誰と誰との関係がどうなのか、事務所は、元マネージャーはと、いろんな内幕といろんな思惑が語られている。

 

で。ざっと記事は見たけど、それ以上読む気がしなくなってしまった。なんだか、「関係者」って、そもそも一体なんなんだろう?って改めて思ってしまったのだ。

 

メンバーの言葉は届けられない。最初に発表されたコメントはあったが、それが話したものなのか、書いたものなのかさえ判然としない。その一方で情報が奔流のように届く。たとえば中森明夫さんは「天皇陛下が生前退位のお気持ちを、国民に向けて映像と肉声で語られたというのに、SMAPにはそれすらない」と指摘している。

 

dot.asahi.com

 

これは1月に書かれた記事だけれど、津田大介さんも「一部を除く芸能マスコミは軒並み情報源をぼかし、結果的に事務所の情報コントロールに加担した」と指摘している。特にスポーツ新聞のような媒体において、事務所関係者という匿名の情報源」の伝えたいメッセージを発言者の「コメント」ではなく「地の文」で書かせる手法が横行していたと言う。

 

digital.asahi.com

 

そういうメディア環境のなか、スポーツ新聞も週刊誌も「SMAP解散の真相」という見出しの記事を連発している。繰り返しになるが、どれも匿名の「関係者」が語ることをもとに、これが真実だ、これが真相だとストーリーが組み立てられている。メディアリテラシーが試されている。

 

僕が思うのは、そもそも「真相」って何だろう?ってことだ。そこに「本当」はあるのだろうか?

 

■「ロックンロールは鳴り止まない」としての「SMAPは終わらない」

 

 

そんな中で、献本いただいた『SMAPは終わらない 国民的グループが乗り越える「社会のしがらみ」 』を読んだ。『ジャニ研! ジャニーズ文化論』の著者の一人でもある矢野利裕さんの新著。

 

 

SMAPは終わらない~国民的グループが乗り越える「社会のしがらみ」

SMAPは終わらない~国民的グループが乗り越える「社会のしがらみ」

 

 

 

批評の鋭さと、思いの強さが文章の根底に流れている一冊だった。ただ、この本の発売一週間後にSMAPの解散が報じられ、よくも悪くも話題を集めるタイミングでの刊行になった。

 

アマゾンのレビューには現時点でこんな評が並ぶ。一目見ればわかるが、本の中身を一行たりとも読んでないだろうことがまるわかりの感想だ。たぶんタイトルを見て一言何か言いたくなっただけなのだろう。

 

 

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しかし、この本の題名の「SMAPは終わらない」という言葉が意味するものは、「きっとSMAPは解散しないはず」という見込みのようなものとは全く異なる。それは少しでも内容を読めばわかる。

 

「SMAPは終わらない」という言葉には、「パンク・イズ・ノット・デッド」とか「ロックンロールは鳴り止まない」とか、そういった言葉と近いニュアンスが込められている。

 

SMAPを「アイドルに自由と解放の気分をもたらしたグループ」と位置づけ、実質的には1月の謝罪会見の時点でその「SMAPらしさ」は失われてしまった、とするのが本書の論点だ。そして、タイトルには、たとえグループが解散したとしてもその存在が持つロマンは決して失われないだろうという願いが謳われている。

 

■SMAPというグループの「本当」はステージの上にある

 

著者の矢野利裕さんの立場は一貫している。この本の「はじめに」で語られているのは1月の報道と『SMAP×SMAP』での謝罪会見を受けてReal Soundに掲載されたコラムだ。

 

realsound.jp

 

以下引用する。 

 

芸能の本義は、常人とは異なる身体性を用いて、日常とは異なる空間を演出することだ。僕たちは、だからこそ、歌や踊りや笑いに触れることで、ほんのつかのま、社会のしがらみから解放される。かつて、ブロードウェイ・ミュージカルに魅了され、美空ひばりの舞台に感銘を受けたジャニー喜多川は、そのことをいちばん知っていたのではなかったのか。ジャニーズ事務所は、そういう日常から解放されるようなステージングを、なにより目指していたはずではなかったのか。だったら、ほかならぬ芸能‐人を、ああいうかたちで、社会のしがらみの最前線に立たせてくれるなよ。

(中略)

もし希望があるとすれば、それでも芸能は社会を越えてくる、ということだ。あらゆる社会的な困難にあるときこそ、歌と踊りと笑いが必要とされる。芸能は最後の最後、社会を越えてくると信じている。

(中略)

社会のしがらみに巻き込まれたSMAPが、「正直」に話ができないことくらい分かっている。しかし、芸能‐人にとっての「正直」さとは、あの、歌って踊る身体に他ならない。だから、社会のしがらみとはまったく別の水準で、芸能‐人としての「正直」さこそを早く見せて欲しい。

 

  

上に引用したとおり、矢野利裕さんはSMAPの「歌って踊る身体」「歌と踊りと笑い」に強い価値を置いている。「本義」や「正直」という言葉を使って、それを表現している。

 

すなわち、SMAPというグループの「本当」はステージの上にある、というのが矢野利裕さんのスタンスの根底にある価値観だ。それは匿名の関係者のコメントから「真相」を解き明かせるとする週刊誌やスポーツ新聞やネットメディアの立場とは真っ向から相反する。

 

なので、騒動の「内幕」のようなものは本には一切書かれない。本の目次は以下のようになっている。

 

はじめに

第一章 SMAP的身体論

第二章 Free Soul : the classic of SMAP――SMAPを音楽から考える

ゲスト:橋本徹(SUBURBIA)、柳樂光隆(Jazz The New Chapter)

第三章 SMAPがたどった音楽的変遷~触れておくべき8タイトル~

第四章 世界に一つだけの場所・にっぽんのアイドル論

ゲスト:中森明夫(作家/アイドル評論家)

 

 

大部分を占めているのは、SMAPのヒストリーを音楽から辿る論考だ。橋本徹さん、柳樂光隆さんとの鼎談で、90年代のクラブカルチャーとの親和性が示される。そして中森明夫さんとの対談では、アイドル文化と文学、社会、芸能、つまりは今の日本を巡る様々な状況の象徴としてのSMAPの存在が批評的に語られる。

 

 

僕は矢野利裕さんのスタンスに心底同意する。

 

もちろん、芸能の世界に「思惑」や「事情」や「しがらみ」があるのは誰にだってわかる。様々に絡み合うそれが物事を動かしているのだって承知している。でも、「歌って踊る身体」の持つ根源的な力に比べたら、そんなことは(わりと)どうだっていい。

 

カルチュラル・スタディーズの古典である、ディック・ヘブディッジ『サブカルチャー』は、まさに記号分析的な手法でパンクやモッズなどを批評していきました。というかそもそも、ロラン・バルトが『神話作用』のなかで最初におこなったのはプロレス分析ですよね。冒頭に「レスリングのよさは、度を越えた見世物であることだ」と書かれていますが、ようするに「見世物」なわけですよ。見世物においては、そこで演じている人がなにを思っているかとか、事実としてどうであるかとかとは別に、それを見ている観客にどういう意味作用・神話作用が起こるか、ということが重要です。ヘブディッジもバルトを参照していました。ジャニーズなどのアイドルやいわゆる芸能人というのも、見世物として人前に出ていく存在です。人前に出たとき、その人が何を考えているかとは別に流通していく記号や表象というものがあって、その分析は当然されるべきだと思います。いやむしろ、記号や表象としてこそ残っていくものがあるだろうし、芸能に生きる人というのは、そういう記号的な存在であることを引き受けている人なのだ、という感覚が個人的にはあります。

(『SMAPは終わらない』より引用)

 

たとえそれがどれだけ真相に近いものであったとしても、「匿名の関係者が語る裏事情」なんかより、「ステージの上」にこそエンタテインメントの「本当」がある。僕もそう思う。

 

2016年は、たぶん一つの時代の変わり目になる年なんだろう。SMAPだけでなく、いろんな事象がそれを象徴している。

 

何かの地殻変動が明示的に起こっているときには、僕はいつも、それが後から振り返ったときに「結果的にはよいターニングポイントになったのかもしれないね」と語られるような変化になることを願っている。

 

日々の音色とことば 2016/08/25(Thu) 11:27

サニーデイ・サービスの新作が常軌を逸している

DANCE TO YOU

 

 

サニーデイ・サービスのニューアルバム『DANCE TO YOU』を、リリースされてから繰り返し聴いてる。すごくよい。最初はピンと来なかったんだけど、何度か聴くうちにどんどんハマってきた。その「よさ」の輪郭がクリアになってきた。

 

これ、相当ヤバいアルバムだ。ドラッギーだとも言える。ちょっと聴いただけじゃ気付かない。基本的にはゆるいテンポのダンサブルなリズムの楽曲が並ぶ、軽やかでポップなアルバムだ。スロウなディスコビート。ファンキーなベースライン。お洒落なエレキギターのカッティング。メロウな旋律に乗せて、曽我部恵一が持ち前の柔らかい歌声を響かせる。

 

だから「いいアルバムだよね」「ですよね」みたいな感じで消費されてしかるべきだと思う。そんな風に聴かれても何もおかしくない。

 

が、よくよく耳を凝らして聴くと、ヒリヒリした感触、精神の暗がりみたいなものが透けて見えてくる。

 

今回のアルバムについてナタリーの大山卓也さんがインタビューで「サウンドはポップでメロウなのに、どこか鬼気迫る印象を受けた」「メロディやサウンドは軽やかなのに、全体から受ける“圧”がすごい」と語っている。僕も同感。

 

natalie.mu

 

この記事に「悪魔に憑かれた渾身ポップアルバム」というキャッチをつけているのだけれど「まさに」と思う。

 

常軌を逸していると思う。

 

■異常な制作過程

 

何が常軌を逸しているか。

 

上記のインタビューでも語られているんだけれど、この『DANCE TO YOU』というアルバムが完成するまでには異様な時間がかかっている。作り始めたのが2015年の春。そこから数ヶ月かけて2015年の初夏にアルバムが一度完成したものの、そこにあった10曲は全てボツになってしまう。

上記のインタビューではこんな風に語られている。

 

普通は核になる曲が何曲かできて、それを中心に10曲とかまとめてアルバム完成ってことになる。6月ぐらいに一度そういう状態になったんだけどね。

──6月って1年前ですよね?

そう(笑)。そのときに一度完成したはずなんだけど、もっと新しいものを出したくなったというか。いわゆるサニーデイっぽさを残さずに、完全に脱皮した状態を見せたくなって。

──でもその新しいものがどういうものかは見えないまま?

だから途中からこれはヤバいな、このままずっと完成しないんじゃないかって思い始めて。「これでいいんじゃないか」と「もうちょっといかないとダメだろう」っていうののせめぎ合いでしたね。

──最終的に何曲ぐらい作ったんですか?

50曲は作ってる。そのうち40曲以上はちゃんと録ってミックスダウンまでしてるし。

──めちゃくちゃですね。

めちゃくちゃだと思う。そもそもレコーディングには予算ってものがあるからさ。スタジオ代やエンジニアのギャランティを確保して、だいたいの予算を決めた上でスタジオに1週間とか入るんだけど、結局そこでは何もできなかった。

──でもレコーディング初体験の新人じゃあるまいし、普通はもう少しうまくやれそうなものですが。

もちろん予算とか期間のことを考えたら、落としどころはあったと思うんだけど、でも今回は自分のアーティスト性のほうが勝っちゃったんだよね。よくわかんないところから無理やりひねり出すみたいな感じで、とにかく作り続けてた。

natalie.mu 

 

制作の途中でドラマーの丸山晴茂は体調不良により離脱。結局、曽我部恵一自身がドラムを叩き、夜通し編集作業を経て、最終的にはほぼソロのような体制になりながらアルバムは完成する。

 

もちろん、ロックやポップスの歴史をたどれば、もっとめちゃくちゃなレコーディングは沢山ある。たとえばケヴィン・シールズマイ・ブラッディ・ヴァレンタインの名盤『ラブレス』の制作費用がかさんで、レーベルを倒産寸前にまで追い込んでいる。日本でも、巨大なスタジオを何ヶ月もロックアウトして結局一曲も完成しなかったとか、作った曲を全部ボツにするとか、そういう例は枚挙に暇がない。

 

ただ、曽我部恵一の場合は、彼自身がインディーズレーベルの経営者であるというのが大きなポイントだ。しかも稼ぎ頭である。スタッフもいるし家族もいるし抱えているアーティストもいる。巨大な資本に支えられたメジャーレコード会社に所属するアーティストとは金銭感覚が全く違う。

 

40代も半ばを超えたそういう人が

 

「めちゃくちゃになっちゃいましたね、すべてが」

「やっぱり“業”なのかな」

「理性の部分を超えて、全部を破壊しようとする何かが自分の中に生まれてきたんだよね」 

 

とか言っているの、率直にかなりヤバいと思うのだ。

 

■幻になったアルバム

 

ちなみに僕は去年の夏に『AERA』の「現代の肖像」という企画で曽我部恵一さんに密着取材していた。

 

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その中ではこのアルバムのレコーディングスタジオにもお邪魔していて、なので、スタッフやメンバー以外では数少ない「ボツになった曲」を聴いている人間ということになる。

 

その時に書いた文章を引用します。

 

 世田谷の閑静な住宅街の一角にある小さなレコーディングスタジオに、ピンと張り詰めた空気が漂う。エンジニアの合図と共に流れてきた音楽に載せて、ブースの中でマイクに向かった曽我部恵一(44)が、丁寧に歌声を響かせる。ゆったりとした、しかしとても繊細な雰囲気を持った曲だ。

「うん、いいんじゃないかな」

 声の調子やニュアンスを変え、何度かの録り直しを経て、曽我部は小さく頷く。

 彼は今、自らのバンド「サニーデイ・サービス」の新作のレコーディングを行っている。デビューは94年。情緒的なメロディと日本語の柔らかい響きを活かした歌詞でロックファンに確かな支持を集めてきた。新作は通算10枚目、2008年の再結成からは3枚目となるアルバムだ。ただし、発売の予定はまだ決まっていない。

 スタジオにいるのは、曽我部とバンドメンバーの田中貴、丸山晴茂、そしてマネージャーとエンジニアの5名のみ。昼過ぎに集まり、ときに他愛のない話をかわしながら、作業はたいてい深夜か早朝まで続く。三児の父でもある彼は、翌日起きて子供たちを学校に送り出すと、眠そうな目をこすりながら、またスタジオに向かう。そんな毎日が、数ヶ月続いている。

「ものによっては数日でパッと録ってしまうアルバムもあるし、サニーデイの前のアルバムも一週間くらいで仕上げたんで、ここ数年では一番長い時間がかかってると思います」

 

 この取材を開始したのがまさに去年の6月くらいの頃。たしかフジロック前だったはず。その時点で「ここ数年では一番長い時間がかかってると思います」と言っていた。で、その時に聴いた曲も、正直、めちゃいい曲なんですよ。少なくともボツにするようなレベルでは全くない。

 

で、その夏にフェス出演の裏側を追ったり、メンバーの田中貴さんやROSE RECORDSの岩崎朗太さんやMIDI時代のディレクター渡邉文武さんにインタビューしたり、香川県坂出市にまで行って母親の曽我部輝子さんに話を聞いたり、いろんな周辺取材を経て9月に再び曽我部さんにインタビューしたら状況が変わってた。

 

上記の記事から再び引用。

 

 しかしアルバム完成の目処はまだ見えていない。

「再結成してから2枚のアルバムは、今の3人が出せる音を自然体で出そうと作ったんです。でも今はそうじゃなくて、自分の意識下を探るような旅になっている。暗闇の中で自分に対峙するような感じがある。20代半ばの頃の感覚に戻っている気がします」

 制作の過程は二転三転している。ツアー前にシングルをリリースする当初の計画もなくなった。冒頭に書いたレコーディングの時点で筆者が聴かせてもらったものも含めて、最初に録音した10曲は全て白紙になった。レコーディング費用の数百万円が水の泡になったと言いつつ、「陶芸家が窯から取り出した作品を気に入らなくて割るようなときって、困るんだけど、ものづくりの醍醐味と思ったりもする」と言う。振り回される形となった田中も「僕らは曽我部がそういう人間だってわかってますから」と笑う。

 どうなるか全くわからないと言いつつ、曽我部は今探っているものをこう語る。

「子供が夢で見るような、漠然とした、説明がつかないような風景を音楽にしたいという気持ちがある。僕らがバンドを始めたころの日本のロックはみんなでマスゲームのように同じタイミングで拳を振り上げるものが主流で、それは今も同じ。そういうものに対する反発心で、全く違うものをやろうとしていたのがサニーデイ・サービスというバンドだったんです」

 静かな、しかし芯の強いパンクの意志が曽我部恵一というミュージシャンを導いている。

 

この記事が出たのが去年の秋だったので、さらにそこから半年は制作が続いたことになる。相当ヤバい。

 

■自分の意識下を探るような旅

 

もちろん制作過程が大変だったというのは、いろんなアーティスト、いろんな作品でもよくある話だと思う。なんだかんだ言って、本当に「ヤバい」のは肝心の中身のほうだ。

 

なんでこれでMV作らないのか謎なんだけど、アルバムを象徴するのは冒頭の2曲「Im a boy」と「冒険」だと思う。

 

「Im a boy」の歌詞がいい。

 

きみのことが忘れられない
なにをしても手につかない
ぼくの中に暗い夜が続く
きみと手をとりさまよい続けたい

祈ることしかできないのか?
祈ることすらできないのか?
神様は踊っているのかな?
ああこのままさまよい続けたい

 

「冒険」もネジが外れている。最近のバンドにたとえるならD.A.N.みたいな感じの曲。ひんやりしたミニマルビートとカッティング・ギターに乗せて「♪ぼくは ぼくは ぼくは…」(♪パー、パパパ、パー~)「♪こんな場所で こんな場所で」と歌う。酩酊感しかない。

 

「血を流そう」も、ちょっと普通の曲じゃない。けだるい感じのビートに乗せてギターとユニゾンするメロディで「今夜血を流そう」と繰り返す。不穏な転調が訪れる。

 

シングルカットされた「苺畑でつかまえて」も、よくよく改めて聴くととかなりドラッギーな曲だ。

 


サニーデイ・サービス「苺畑でつかまえて」【Official Music Video】

 

見たこともないこんな街で 知らないだれかを探してる
苺畑で逢えるのかな

 

(……たぶん会えないよ!)

 

パンチドランク・ラブソング」も。

 


サニーデイ・サービス「パンチドランク・ラブソング」【Official Music Video】

 

「ねえ、ここは何て名前の街だっけ?」
メロンソーダ アイスクリーム 溶けていく

「ねえ、ここは何て名前の街だっけ?」
メランコリア 愛す 狂う ほどけていく

 

「セツナ」も。

 


サニーデイ・サービス「セツナ」【Official Music Video】

 

子供の頃に作ったしゃぼん玉に乗ってふたりでこの空を飛ぼう

 

曽我部恵一BANDでも、ソロでも、基本的にはここ10年くらいの曽我部恵一は日常や生活と地続きのことを歌詞に書いてきた。下北沢という街で暮らしていることとか、子供がいることとか、そこで考えた日記みたいなことを歌にしてきた。

 

再結成後のサニーデイ・サービスの2枚のアルバムもそう。40代になった3人の自然体が、そのまま音になっていた。

 

でも、このアルバムの歌詞で描かれているのは完全に脳内風景。「日常」とか「自然体」とかと一番対極にある世界だ。しかもキマりまくってる。クスリとかそういうんじゃなくて、想像力だけで飛んでいる感じ。自分の精神の内奥の暗がりの奥の方まで降りていく感じ。そういうアルバムの風景が繰り広げられる。

 

で、混沌の中進んでいくアルバムのストーリーは、「桜 super love」で、

 

きみがいないことは きみがいることだなぁ
桜 花びら舞い散れ あのひとつれてこい
夏に見つけたら 冬にひもといて
いつも踊ってる 僕も踊ってる

 

と、ふわーっとしたダンス・ミュージックの高揚感に達する。結局のところ何にも解決してないんだけど、なんだかOKになってしまう感じ。

 

そこがとても素敵だ。時を止めるような透明なロマンティシズムが音楽になっている。

 

サニーデイ・サービスというバンドは、解散と再結成を経て、ようやく『LOVE ALBUM』と「魔法」の次に来るべきアルバムを作り上げたんだと思う。

 

 

DANCE TO YOU

DANCE TO YOU

 

 

 

 

 

日々の音色とことば 2016/08/08(Mon) 21:50

虚構と現実は逆転する――『シン・ゴジラ』感想

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シン・ゴジラ』を観た。ゾクゾクした。おもしろかった。というか「すげえ……」という感想だった。終わったときに自然と拍手してしまった。

 

 

shin-godzilla.jp

 

そしてこれは、ただ単におもしろいだけでなく、観た人の胸に「刺してくる」作品だということも痛感した。少なくとも僕はそういう余韻が残った。

 

シン・ゴジラ』は、エンタテインメントに徹しているのは大前提で、でも、東日本大震災を経た2010年代の日本を、時代というものをちゃんと照射している。1954年に公開された初代『ゴジラ』がそうであったように。きっといろんな人が、いろんなことを言うだろう。言いたくなるだろう。なぜならこれは踏みこんでくる作品だから。

 

僕は特撮映画のマニアではないし、これまでのシリーズもハリウッド版のゴジラもろくに観てない人間なので、そっち方面の深い考察とかオマージュの指摘みたいなものは他の人にまかせようと思う。

 

シン・ゴジラ』はとても社会性を持った作品でもあるので、そちら側の視点からの考察も沢山出まわると思う。いろんな批評や感想が出揃って、評価が確定していく前に、公開から数日経った今の段階で僕が感じたことを書き留めておこうと思う。

 

というわけで以下からはネタバレです。未見の方は注意。というか、これは余計な情報いれずにまず観ることをおすすめします。

 


『シン・ゴジラ』予告

 

■なぜ『シン・ゴジラ』のゴジラは怖いのか

 

シン・ゴジラ』を観て最初の印象。それは「ゴジラ、怖い……」だったのよね。制作陣の意図として「最初のゴジラに立ち返る」というものがあったらしいと後で聞いて、とても納得。圧倒的な理不尽さをもって、普段の生活が、日常が破壊される恐怖。それがあった。

 

ゴジラの登場は「災害」として描写される。まず、東京アクアラインで大規模な陥落事故がある。その時にリアルだなーと思ったのが、逃げ惑う群衆に「余裕がある」のをちゃんと描いていること。スマートフォンで惨状を撮影したり、避難路を歩く人が「へー、こんなところあるんだ」と言い合ったり。

 

そして東京湾に姿を表したゴジラは「巨大不明生物」としてニュース報道される。人々が海ほたるからスマートフォンでそれを群がって撮影する様子がカットインで描かれる。

 

「巨大不明生物」は第一形態から第二形態に進化し、我々がよく知るゴジラのビジュアルではなく、爬虫類に近い身体となる。そして上陸する。あの時の「眼」が怖い。意思疎通できない生物の眼。何を考えてるかもわからないし、意志なんてないんだ、ということが眼の描写だけで伝わってくる。その「巨大不明生物」が時速10数kmでただ歩くだけで蒲田から品川が蹂躙される。

 

そして、街をなぎ倒してる瞬間は「うわー!」「すげー!」なんだけど、ハッとするのは、その被害の「跡地」の描き方なんだよね。第二形態の「巨大不明生物」はなぜか海に帰る。なぎ倒された区域では、瓦礫や、木造住宅の破片や、ひっくり返った車両が、道路に積み重なっている。でも、それ以外の人々は、翌日も会社に行ったり学校に通ったり、日常を取り戻す。ニュースはL字型の画面で緊急報道となり、被害の模様や政府の対策を映し出す。何億円、何兆円の損害という話も聞こえる。

 

僕らはこの光景を観たことがある。震災だ。

 

過去数十年を経てキャラクター化されて、街を破壊する様子もすっかりエンタメ化された「ゴジラ」はここにはいない。この時点では、まだ劇中には「ゴジラ」という単語も現れていない。

 

そしてゴジラの「怖さ」のクライマックスは、再び上陸したゴジラが東京の中心で第四形態に進化して熱戦を吐くシーンだ。硬い皮膚にマグマのように滾っていた赤い光が紫色になり、それまでとは比べ物にならない圧倒的な破壊を見せる。基本的には「緩慢に移動する」だけだった巨大不明生物としてのゴジラが、ここで初めて自らの獰猛な意志を見せる。

 

すべてを焼き尽くせ。

 

東京が絶望に包まれる。ここで鷲巣詩郎の音楽がゾクゾクするような美しさと高らかな神聖さを奏でる。

 


『シン・ゴジラ』予告2

 

やはり僕らはこの光景を観たことがある。使徒だ。

 

僕らの知っている街と、暮らしが、壊される。単なるディザスター・ムービーの快楽としてではなく、リアルにそれが実感される。

 

それが『シン・ゴジラ』のゴジラが「本気で怖かった」理由だと思う。途中で「もうやめてくれ。これ以上街を焼かないでくれ」と感じた理由だと思う。

 

■「現実 対 虚構」の構造

 

ここまできて、いろいろなるほどと思うことがあった。

 

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今回の『シン・ゴジラ』のキャッチコピーは「ニッポン 対 ゴジラ」。公式サイトでは「現実 対 虚構」として、「現実」に「ニッポン」、「虚構」に「ゴジラ」というルビが振ってある。

 

本編を観終わったあとで振り返ると、このキャッチコピーがとても秀逸であることがわかる。

 

映画のストーリーは、かなりのウェイトをさいて政府の対応を追っている。政治的、軍事的な駆け引きや情報交換を忠実に描写している。官僚にメモ出しされる大臣とか、会議室に立ち上げられる対策本部とか、コピー機や段ボール箱にかき集められる各種資料とか。「今の日本にゴジラがあらわれたらどうなるか」というシミュレーションが綿密に行われている。

 

そして、最初に「巨大不明生物」が上陸した時の日本政府は、はっきり言って上手く対応をとれていない。「そんなことがあるわけない」と想定外の予測を棄却して事実確認に遅れる。記者会見で発表したこともリアルタイムに進展する新たな事象によってあっという間に覆される。会議ばかりで話がまとまらない。招集された学者の意見は参考にならず時間のムダ(ここ笑いどころだったなー)。

 

結局、政府は何をすることもなく、ただ海に帰るのを眺めるだけになる。そして東京が放射能汚染されていることが民間の計測で明らかになり、メディア発表よりも先にネットでそれが広がり、やはり対策は後手後手になる。

 

つまり、ここで描かれている「ニッポン」、「虚構=ゴジラ」に立ち向かう日本は、東日本大震災福島第一原発の事故に対峙した現実の日本政府そのものだ。かなりのリアリティをもってそこを突き詰めている。どうやら取材協力には枝野幸男がクレジットされているらしい。脚本を書くにあたって、巨大災害、そして原発事故にあたっての危機管理について綿密に取材したのだと思う。

 

しかし、作中で、虚構と現実は逆転する。

 

第四形態で街を壊滅させたゴジラは、エネルギーを使いきり、再び活動を停止する。国連によって核攻撃が決議される。再び目覚めるまでの猶予は2週間。

 

前述の日本政府は壊滅し、対策チーム「巨大不明生物特設災害対策本部」で主人公としての活躍を見せてきた内閣官房副長官・政務担当の矢口蘭堂が強いリーダーシップをとりはじめる。研究者たちによって、ゴジラを凍結させることのできる希望が示される。「ヤシオリ作戦」と、それが名付けられる。

 

ゴジラの体内に溜まっているエネルギーを使い果たさせ、ゴジラを転倒させ、倒れたゴジラの口からポンプ車で凍結剤を流し込むという作戦だ。地味である。核攻撃に比べてはるかに地味ではあるが、重機と鉄道を駆使した(この夏最高のパワーワード「無人在来線爆弾」!)とても日本的な攻撃手段だ。

 

そして、これを遂行する日本政府は、前半に登場する日本政府とはまるで別物のような敏腕さを見せる。情報収集の巧みさ、意思決定の速さ、国際的な協力をとりつけるしたたかさ。すべてのピースがあっという間にバチバチとハマっていく。解決に向かっていく物語のカタルシス、エンタテインメント要素を重視した演出のせいだと思うけれど、前半に描かれたような「ぐだぐだ」は一切排除される。ほんのわずかな手掛かりから導かれた「希望」に全員があっという間にベットする。前半にあれだけ念入りに用いられたマスメディアの報道や避難する一般市民の視点はぐーっと後景に追いやられる。

 

「ヤシオリ作戦」という言葉は、日本の古代の神話に由来している。古事記日本書紀に書かれる、スサノオノミコトヤマタノオロチという大蛇を倒すときに用いた「八塩折之酒」の名前からとられている(と思う)。

 

が、観た人の多く「ヤシオリ作戦」という名前から別のものを想起するだろう。エヴァの「ヤシマ作戦」だ。それぞれの持ち場の人が力を発揮し、誰も足を引っ張ることなく、すべての人が犠牲を厭わず協力して一つの巨大な敵を倒す。そのプロットはヤシマ作戦にそっくりだ。

 

シン・ゴジラ』の後半においての「ニッポン」は、「現実」ではなく「虚構」をなぞらえている。そう僕は考える。

 

つまり『シン・ゴジラ』の「現実 対 虚構」は二重の構造を持っている。前半では、現実(=日本)が虚構(=ゴジラ)に蹂躙されるさまを。そして後半では、圧倒的な現実(=ゴジラ)に立ち向かう虚構の希望(=日本)を描いている。

 

そして見事ゴジラは凍結する。

 

観終わった時に、絶望ではなく、元気とか勇気のようなものを感じた人が多かったのは、思わせぶりのエンディングで「留保つきの解決」だったとしても、ちゃんとエンタテインメントをまっとうして「希望の勝利」を描いたからだと思う。

 

 ■虚構の力を信じるということ

 

庵野秀明という人、そして樋口真嗣という人は、本気で「虚構の力」を信じているんだと思う。渾身の力を込めた虚構は、決して絵空事ではなく、現実に作用しうるということを、『シン・ゴジラ』で示したんだと思う。

 

そのことが伝わってきたのも、僕が『シン・ゴジラ』に大きく感動した理由だった。

 

ポケモンGO』が世界中で社会現象を巻き起こしていることが象徴的なように、今の時代のテクノロジーやアーキテクチャの向かう先は、映像メディアに立脚した「虚構の力」の次を探すタームに入っていると僕は思っている。二十世紀的な二次元のイメージが作り出す「虚構の力」よりも、現実世界の座標軸の中に浮かび上がる「架空の力」が強まっている気がする。

 

このあたりのことは、AR三兄弟として活躍する川田十夢さんと話したり、現代の魔法使いとして知られる落合陽一さんの本を読んだり、それをプロデュースしている宇野常寛さんが語っている内容から僕なりにインスパイアされていることではあるのだけど。

 

そんな時代に「虚構の勝利」を真っ向から描いた庵野秀明監督の力量は、やはりとんでもないものだと思った。

 

おもしろかった!

 

日々の音色とことば 2016/08/02(Tue) 13:16

まぶしい光の中でゴールテープをきるということ――BOOM BOOM SATELLITESの最後の作品に寄せて

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今日の記事はBOOM BOOM SATELLITESの新作『LAY YOUR HANDS ON ME』について。そして、「何かをやり遂げる」ということについての話です。彼らのことを知らない人にも届けばいいな。

 

■闘い続けてきたバンドの最後の凱歌

 

BOOM BOOM SATELLITESは、6月22日にリリースされる新作『LAY YOUR HANDS ON ME』をもって活動を終了することを発表した。

 

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ニュースでも報じられた通り、その理由は、川島道行(Vo/G)が脳腫瘍による麻痺などの後遺症で音楽活動を続けることが困難になったため。中野雅之(B/Programing)はブログにこう記している。

 

これがBOOM BOOM SATELLITESの最後の作品になります。理由は川島道行の脳腫瘍による麻痺などの後遺症です。現在、川島道行はミュージシャンとしての役割を終えて家族と共に穏やかな毎日を過ごしています。言葉はゆっくりですが話せます。手足は不自由になってきて車椅子を使う機会も増えました。正確な意思の疎通が難しいので、今彼が何を考えて何を思って毎日を過ごしているのか、僕でも少し理解しきれない時があります。しかし、この作品を作りきった充実感や達成感は感じていると思います。僕には本当に燃え尽きてしまった抜け殻のようにも見えます。「お疲れ様!」と声をかけてあげて欲しい。

 

あともう一息でデビュー20周年というところでしたが音楽家、川島道行との旅もあともう少しで終わろうしています。川島くんと一緒に数え切れないほどの景色を見てきました。何を思い返しても簡単な事は無かった。思いのままジタバタして、もがいて、駆け抜けてきました。振り返るとどれも素晴らしく、誇らしく、思い出達はキラキラと輝いています。

 

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というわけで、この『LAY YOUR HANDS ON ME』は、デビューから19年を迎えた彼らの最終作となる。4曲入りで23分弱。枠組みとしてはEPということになるのかもしれないけれど、まぎれもなく「アルバム」としての聴き応えと重みを持った作品だ。

 

LAY YOUR HANDS ON ME

 

最高傑作だと思う。最初に音源が届いてから何度も聴いているけれど、聴くたびに胸がいっぱいになる。心が揺さぶられる。でも、それは僕が彼らのことをよく知っているからだけではないと思う。この4曲の中に込められたもの、音楽に宿る力そのものは、時代や状況を超えてちゃんと伝わっていくと思う。

 

表題曲「LAY YOUR HANDS ON ME」は、強靭な四つ打ちのビートに乗せて力強い歌声が響くダンス・ナンバー。

 

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歌詞にはこんな言葉がある。 

 

Lay your hands on me while I'm bleeding dry

Break on through blue skies, I'll take you higher

ずっとその手で触れていてくれ、生気が抜けてゆく僕のからだに

青空を突き抜けて、君をもっと高いところまで連れて行こう

 

YouTubeに公開されたミュージックビデオには、可愛らしい女の子が満面の笑みを浮かべて砂浜を走ったり、おもちゃで遊んだり、ギターを抱えてジャンプしたりする、無邪気で愛らしい姿が映し出されている。

 

この女の子が川島道行の実の娘だということも明かされている。ファンや彼らを知る人にとっては、この映像には、胸を締め付けられるようなものを感じると思う。でも、この曲がアニメ『キズナイーバー』OPテーマになったことで、YouTubeのコメント欄には、それを全く知らない海外からのいろんな感想が英語やスペイン語やロシア語で書き込まれている。国境を超えて届いている。そのことを、なんだか嬉しく思う。

 

2曲目「STARS AND CLOUDS」は、キラキラとした光に歌声が包まれるような、静かな、とても美しいバラード。

 

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その2曲で感じた賛美歌のような感覚、高揚感と抱擁感をリプライズしていくかのようなアンビエントナンバーの「FLARE」と、先鋭的なビートと声を重ねあわせるインストゥルメンタルの「NARCOSIS」が続く。

 

この「NARCOSIS」の終盤、フィールドレコーディングによる街の雑踏の中に、音楽が溶けていく。過去の作品でも彼らはアルバムの最後の曲をこういう環境音を用いた曲で終えていた。どこか浮世離れした場所じゃなくて、あくまで日常の中、普段の生活の中に音楽がある、ということを表現していた。

 

そして、ヘッドホンで聴いていると気付くのだが、この「NARCOSIS」にも仕掛けが凝らされている。最後の最後、静寂の中で川島が「すぅっ」っと息を吸い込む音が聴こえる。そこに、すごくハッとする。

 

noteにも書いたけれど、僕は「LAY YOUR HANDS ON ME」という曲は「凱歌」だと思っている。BOOM BOOM SATELLITESは、ずっとレベル・ミュージック、つまり何かに抵抗する音楽を鳴らしてきたバンドだった。パンク・ロックとダンス・ミュージックを、スタイルとかじゃなくて「反抗」と「祝祭」という、それぞれの精神性の最も深い部分で融合させてきた2人だった。

 

20年近くのキャリアの中でその「抵抗」の相手はいろんなものだったけれど、たぶん、ここ数年の彼らが対峙してきたのは、運命そのものだったのだと思う。とても大きな相手だ。ちっぽけな人間に勝ち目なんてない。それは過酷で、ときに残酷なものでもあったと思う。

 

けれど、でもこの曲を聴くと、真っ向から闘い続けてきたからこそ、最後に彼らは「凱歌」を作ることができたんだと思う。そしてこのアルバムに収められた4曲で、生命が持っているエネルギーのようなもの、光のようなものを、音楽に結実させることができたんだと思う。

 

BOOM BOOM SATELLITESは、こうして自らの音楽活動に幕を下ろした。到達点まで上り詰めて、そこで高らかに鳴り響くような希望を鳴らしきった。音楽の歴史を紐解いても、こんな風にゴールテープをきることのできたバンドなんて、きっとほとんどいなかったと思う。書いてるうちにどんどん大袈裟な表現になってるのは自分でもわかるんだけど、思い浮かぶのは感傷的な言葉より、「おめでとう」と「おつかれさまでした」という言葉だ。

 

■華々しい海外デビューと「ロックンロール」への道

 

というわけで。ここからは、すこしくらい思い出話をしてもいいよね。

 

BOOM BOOM SATELLITESは97年に『JOYRIDE』でベルギーのレーベルからデビューし、日本よりも先に海外のメディアで華々しく取り上げられる。時代はちょうどケミカル・ブラザーズやファットボーイ・スリムが登場して脚光を浴びていたころ。「ビッグ・ビート」なんて言葉が持て囃されていたころだ。

 

僕が1stアルバム『OUT LOUD』を初めて聴いたのは大学生のころ。こんな風にロックとダンス・ミュージックを融合して世界の舞台で戦ってる人がいるんだと知って、夢中になった。

 

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初めてインタビューしたのは2002年、3rdアルバム『PHOTON』をリリースしたときのこと。二人はロンドンに拠点を置いていた。2ndアルバム『UMBRA』と『PHOTON』は、最初の作品が持っていた突き抜けるような爽快感とは一転した、ディープに内奥を掘り進んでいくような聴き応えを持ったものだった。

 

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当時は9・11の後の殺伐とした世相と絡めてあの作品を受け取っていた。でも、後になって、この時期に、川島道行に一回目の脳腫瘍が発覚したことが明かされている。

 

当時のインタビューで彼はこんな風に語っていた。

 

「ある日命に終わりが突然やってくるものだっていうことが僕の中で実感できた時期があって」

「人がどこから来てどこへ行くのかっていうこと――自分が考えてることを歌詞の題材にしてたんだけど。ただ、今までは自分から離れた手の届きそうもないようなところのことばっかり考えてたんだけど、今回は普段の生活の中でそういうことが起こってるということを、細かくシチュエーションとして10曲挙げたかった」

(『BUZZ』2002年7月号より)

 

当時のイギリスの音楽シーンはビッグ・ビートのブームが一段落し、90年代に接近していたロックとダンス・ミュージックのシーンが再び分化していったころ。ダンスの快楽性を離れた彼らはマーケットにおいては苦戦していたけれど、その見据えるものは当時から変わっていなかった。

 

次にインタビューをしたのは、4thアルバム『FULL OF ELEVATING PLEASURES』の頃。「MOMENT I COUNT」や「DIVE FOR YOU」などを収録した、彼らにとっても代表作となる一枚だ。

 

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当時のインタビューでは、作品が「ロックンロール・アルバム」であることを語っていた。

 

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そしてその音楽性にゴスペルの要素が加わってきたことについて、二人はこんなふうに言っていた。

 

「簡単には見出せない生きる光のような、希望の光は絶対音楽が提示していくっていうものだと思っていた」

(『BUZZ』 2005年10月号)

 

「ゴスペルってね、なんて言うんだろう……すごく日々の思いをメロディにのせて、自分も参加して、その気持ちを昇華させているという、宗教的な部分の音楽だけど、歌の持つ力でできることですよね。歌じゃないとできないことだし。(略)手を差し伸べるときの手段なのかって言われれば、それは手段だし、おいでよって感じだから」(川島)

(『BUZZ』2005年4月号)

 

翌年、そして翌々年、彼らは『ON』と『EXPOSED』という2枚のアルバムをリリースする。よりロックンロールとしての強度と即効性を高めた作品だ。『FULL OF ELEVATING PLEASURES』とあわせて「三部作」と位置づけていたこの3作で、彼らはライブバンドとしての支持を高め、日本のロックシーンに確固たる地位を築き上げていく。

特に『ON』の一曲目「KICK IT OUT」は、いろんな場面で耳にしたことのある人は多いはず。

 

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■苦闘の日々と「再生」の光

 

ただ、2010年代に入ってからのBOOM BOOM SATELLITESは、それまでとは違ったフェーズに入っていた。

 

『TO THE LOVELESS』をリリースした2010年の頃は「悩んでいる時期」だったと言う。当時はこんな風に語っている。

 

「音楽は細分化されすぎている。だから、ただトレンドだけを追いかけても自分たちを見失うだけだと思いますね。そういう時代になったと思う」(中野)

インタヴュー | BOOM BOOM SATELLITES(NEXUS)

 

そして2012年末。アルバム『EMBRACE』を完成させた直後、川島に脳腫瘍の再発が発覚し、2013年1月からの全国ツアーは中止となる。

 

そしてその年の5月に、初の日本武道館で復活ライブが実現。それは、長らく僕が観てきた彼らのライブの中でも最高のものだった。ライブ・アルバム『EXPERIENCEDII』にその模様が収められている。

 

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EXPERIENCEDII-EMBRACE TOUR 2013 武道館-(完全生産限定盤)(Blu-ray Disc付)

EXPERIENCEDII-EMBRACE TOUR 2013 武道館-(完全生産限定盤)(Blu-ray Disc付)

 

 

しかし、その裏側は壮絶な状況だったという。

 

「あの時期は非常事態に近かったですね。精神的な追い込まれ方もすごかったし。数ヶ月でもう一度ステージに立つこと自体に無理があった。でも半年後や一年後だったら、逆にモチベーションを失っていたかもしれない。やっぱり脳の手術だし、何かしらの変化は起きるだろうと思っていたから。武道館をやり切れたのはよかったけれど、とにかく、半端無く大変なことだった。で、その時点でもうアルバムの制作に片足を突っ込んでいたんです」(中野)

「意識が混濁している時もあったし、辛いだけの時間を過ごしていたこともあった。それでも、僕はこのバンドで生まれる新曲を聴きたいので、音楽をやろうと思いを改めた時期でもあったと思います」(川島)

 

NEXUS | <インタヴュー> BOOM BOOM SATELLITES 「無駄なことなんて一つもなかった」――不屈の年月と、辿り着いた今を語る

 

武道館公演を行った時には、すでに次作『SHINE LIKE A BILLION SUNS』の制作も始まっていた。『EMBRACE』から『SHINE LIKE A BILLION SUNS』にかけては、彼らの音楽に、抱擁力とか、「光」をイメージするようなものがどんどん増えていった。

 

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「“NINE”だと<I wake up lying on the dance floor>(ふと目覚めたらダンスフロアで横たわってた)という一節が、最後の曲の一行目にきている。それは偶然だけれども再生感を得られてすごく勇気づける一行になっているんじゃないかって自分でも思っています」(川島)

インタヴュー |BOOM BOOM SATELLITES (NEXUS)

 

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「引き受けるとか、肯定的であるとか、そういう表現になってきていると思います。でも、それがレベル・ミュージックじゃないかといえば、そんなことはないと思う。それが聴き手にとっての力になる音楽であれば、やっぱりそれはそう言えるんじゃないかと思う」(中野)

NEXUS | <インタヴュー> BOOM BOOM SATELLITES 「無駄なことなんて一つもなかった」――不屈の年月と、辿り着いた今を語る

 

そして2015年7月。フジ・ロック・フェスティバルで本当に素晴らしいライブを見せた後に、5度目の再発が発覚する。11月に予定されていた最後のワンマンライブは体調の悪化のためキャンセルとなり、結果的にはその年の夏のフェス出演が彼らにとっての最後のライブになった。

 

それでも、彼らはそこで諦めなかった。二人はBOOM BOOM SATELLITESの最後の作品として『LAY YOUR HANDS ON ME』を作ることを決意し、残された時間の中でそれを完成させる。

 

「LAY YOUR HANDS ON ME」を聴いていると、とても不思議に感じることがあって。こうして振り返っても、相当な苦闘の中で作り上げてきた作品であるのは間違いないと思う。でも、鳴らされている音からはそういう匂いは一切感じない。もっと純度が高いというか、浄化されているというような感じがする。

 

「音楽が生き方に作用する、心に働きかけるものであってほしい。そういう思いは表現に託してきたものだと思っています」(川島)

NEXUS | <インタヴュー> BOOM BOOM SATELLITES 「無駄なことなんて一つもなかった」――不屈の年月と、辿り着いた今を語る

 

彼らはこんな風に言っていた。川島道行、中野雅之という二人は、お互いに手を取り合い、影響を与えあいながら、20年近くの歩みを経てきた。そういう年月があったからこそ、まぶしい光の中でゴールテープをきるような曲が完成したのかもしれないな、と思う。

 

LAY YOUR HANDS ON ME(初回生産限定盤)(Blu-ray Disc付)

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日々の音色とことば 2016/06/20(Mon) 11:08