日々の音色とことば

Mura Masaの新作と「もはやチルってる場合じゃない」という時代の空気について

Mura Masaのニューアルバム『R.Y.C.』がめちゃめちゃ格好いい

 

 

R.Y.C

R.Y.C

  • アーティスト:Mura Masa
  • 出版社/メーカー: Polydor UK
  • 発売日: 2020/01/17
  • メディア: CD
 

 

 

『MUSICA』の今月号のディスクレビューでも書いたんだけど、脚光を浴びた2017年のデビューアルバム『Mura Masa』からサウンドは一転してる。一言でいうとパンク・ロック・アルバム。音に本気の切迫感が宿っている。

 

全編にフィーチャーされているのはギターサウンド。歪んだギターと縦ノリの直情的なビートが駆け抜ける。特にラッパーのslowthaiを迎えた「Deal Wiv It」がアルバムのトーンの象徴になっている。

 

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slowthaiは昨年にデビューアルバム『Noghing Great About Britain』をリリースしたUKのラッパーで、Mura Masaはその収録曲「Doorman」でもコラボレーションしていた。そこでも、ヒリヒリした衝動に満ちたサウンドとラップが繰り広げられていた。

 

www.youtube.com

 

で、『Noghing Great About Britain』というタイトルから容易に思い浮かぶように、アルバムはピストルズ以来の伝統の「イギリスをこき下ろす」政治性を持つ一枚。去年のマーキュリー賞のパフォーマンスでは、ブレグジットを推し進める英首相のボリス・ジョンソンの”生首”を持ってパフォーマンスを繰り広げてた。


ジェイムス・ブレイクとの出会いからエレクトロニック・ミュージックに傾倒する以前の少年時代はパンク・ロックに憧れていたというMura Masaも、きっと、彼のスタンスに触発されたのだと思う。

 

『R.Y.C』というのは『Raw Youth Collage』、すなわち「生々しい若者たちのコラージュ」という意味。「No Hope Generation」という曲も象徴的だ。すなわち「何の希望もない世代」ということ。

 

Everybody do the no hope generation.

(誰もが希望のない世代を生きてる)

Gimme a bottle and a gun

And I'll show you how it's done

(火炎瓶と銃をくれ どうなるか見せてやる)

 

今のUKにはラッパーとトラックメイカーによるパンクロックの「再定義」が起こっていて、そのことをありありと感じさせてくれるのが、Mura Masaの新作なのだと思う。

 

そして、当然、その背景には今の社会情勢がある。端的に言うとブレグジットが決定的になり分断が進む今のUKで、ゆったりと心地よくリラックスしている余裕なんてないってこと。

 

「もうチルってる場合じゃない」

 

ということだ。

 

そういえば。

 

昨年、そう語っていたbetcover!!の言葉が心に引っかかっていた。

 

mikiki.tokyo.jp


「日本っていろいろ問題があるくせに、みんなラヴソングにしか共感しないですからね。あとはチル最高、波に乗っていこうぜみたいなのしかないっていう(笑)。いまの日本、メチャクチャ問題あるじゃないですか。チルってる場合じゃないんだけど、音楽が社会問題とかの空気感を音で示すのがタブーみたいになってる。それが音楽の廃れている理由じゃないかと思って。ただの音でしかなくて、メッセージがなさすぎて求められていない」

 

香港の民主化を求めるデモがどんどん拡大していくのも、ずっと見ていた。

 

www.bbc.com


上記の記事の通り、そこにあったのは自分たちのアイデンティティと自由が奪われることへの「怒り」と「絶望」で、それでも不服従を貫く若者たちは今も闘い続けている。

 

ひるがえって、日本は――。

 

状況は、まあ、全然違う。殺伐としている感じは、ほとんどない。でも、ひょっとしたらそれは多くの人が気付いていないだけで、水面下で沸々と起こっている変化があるのかもしれない。

 

「チルから暴力へ」

 

ただし、この場合の「暴力」というのは「誰かを屈服させ、支配するために力を振るう」ということを意味しない。むしろその逆だ。

 

そんなことを思って『MUSICA』でのMura Masaのレビューを「チルから暴力へ」というタイトルで書いたんだけれど、李氏さん(@BLUEPANOPTICON)という方が、まさにこの言葉で2019年を総括してた。

 

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blue-panopticon.hatenablog.com

 

読んで思った。そうそう、たしかにそういう空気を僕も感じる。そういうことをテーマにした音楽ZINE『痙攣』刊行を予定しているとのことで、すごく楽しみにしてます。

 

そして、たぶん、1月29日にリリースされるGEZANのアルバム『狂(KLUE)』が、ざわざわと波紋のように広がって時代に大きな作用をもたらしそうな予感がしている。これについては、またこんど。

 

(追記)

 

imdkmさんによる批判記事で言及いただく。こちらも合わせてご一読を。

 

imdkm.com

 

たしかに「チルってる場合じゃない」のだが、同時に「チルするほかない」のだ、主人公は。

 

日々の音色とことば 2020/01/18(Sat) 00:00

今年もありがとうございました。/2019年の総括

例年通り、紅白歌合戦を見ながら書いてます。

 

2019年はどんな年だったのか。

 

そのテーマについては、タワーレコード40周年記念特設サイトの連載コラム「ポップの予感」に書きました。

 

tr40.jp

 

ディケイドの終わりには、変革が訪れる。時間の流れは連続で途切れないものだけれど、人々はそこに意味と物語を求める。十年ごとの区切りで時代を語ろうとする。そのムードが積み重なって、やがて、社会そのものの色合いを変えていく。

 

2010年代は、とてもダイナミックなディケイドだったと思い。社会がありありと変わっていって、そこに、カルチャーが密接に絡み合っていた。そのうねりのようなものをまざまざと感じられたという意味では、とてもいい時代だった。

 

個人的にも、いろんな転機のあったディケイドだった。すごく充実していたと思う。

 

年々、どんどん時間がすぎるのが早くなっていって、一年があっという間に経ってしまう。それは自分の年齢のせいなのか、情報があふれ濁流のように行き交うのがデフォルトになった時代環境のせいなのかは、わからないけれど。

 

そのうえで、2019年は、個人的にも印象深い仕事をいくつか形にできたと思っています。書籍のようなパッケージにはできなかったけれど、前述したタワレコ40周年の連載とか、田中宗一郎さんと三原勇希さんがホストの「POPLIFE: The Podcast」のゲストに出てインターネットについて語った回とか、音楽と社会についての話、アイデンティティの話を深めていくことができたような気がする。

 

それでも、自分としては頑張っているつもりでも、追いつけないくらい社会の意識のほうが変わっていて。振り落とされないように必死だったという気もする。

 

今年はもうちょっとブログを書きたかったな。忙しさにかまけていると忘れてしまうけれど、自分が考えたこと、書いたことが、「置き石」になってくれる。そういうことを、2020年はもう少し気に留めておいてもいい気がする。

 

最後に、自分がよく聴いたアルバムを並べておきます。

 

 

  1. Billie Eilish「WHEN WE ALL FALL ASLEEP, WHERE DO WE GO」
  2. Post Malone「Hollywood Bleedeng」
  3. 長谷川白紙「エアにに」
  4. 小沢健二「So Kakkoii 宇宙」
  5. Dave「PSYCHODRAMA」
  6. Ariana Grande「Thank you next」
  7. FKA Twigs「MAGDALENE」
  8. カネコアヤノ「燦々」
  9. Nick Cave & The Bad Seeds「Ghosteen」
  10. ドレスコーズ「ジャズ」
  11. OGRE YOU ASSHOLE「新しい人」
  12. テイラー・スウィフト「Lover」
  13. LANA DEL RAY「Norman Fucking Rockwell」
  14. Vampire Weekend「Father of the Bride」
  15. KOHH「Untitled」
  16. ヨルシカ「エルマ」
  17. King Gnu「Sympa」
  18. Clairo「IMMUNITY」
  19. KIRINJI「Cherish」
  20. Kanye West「Jesus is King」
  21. ROTH BART BARON「けものたちのなまえ」
  22. 星野源「Same Thing」
  23. Official髭男dism「TRAVELER」
  24. BABYMETAL「METAL GALAXY」
  25. 佐々木亮介「Rainbow Pizza」
  26. あいみょん「瞬間的シックスセンス」
  27. Tyler, the Creator「IGOR」
  28. James Blake「Assume Form」
  29. Juice WRLD「Death Rave For Love」
  30. Cashmere Cat「Princess CATGIRL」
  31. RADWIMPS「天気の子」
  32. THE BLUE HARB「TBHR」
  33. Tuvaband「I Enterd the Void」
  34. PEOPLE IN THE BOX「Tabula Rasa」
  35. Gesaffelstein「Hyperion」
  36. RY X「Unfurl」
  37. LIL NAS X 「7」
  38. BLACKPINK「KILL THIS LOVE」
  39. のろしレコード「OOPTH」
  40. BiSH「Carrots And Sticks」
  41. Eve「おとぎ」
  42. JPEGMAFIA「All My Heroes Are Cornballs」
  43. Tones and I 「The Kids are Coming」
  44. Khruangbin「全てが君に微笑む」
  45. Bon Iver「I,I」
  46. 花澤香菜「ココベース」
  47. Akeboshi「a little boy」
  48. BUMP OF CHICKEN「aurora arc」
  49. ヒトリエ「HOWLS」
  50. 崎山蒼志「並む踊り」

 

 今年もありがとうございました。来年も素敵な一年になることを願っています。

日々の音色とことば 2019/12/31(Tue) 23:25

「ポップの予感」第八回 2019年とはどんな年だったのか

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 2019年はどんな年だったのだろうか。

 

 それを振り返るためには、まず「9の年」が持つ、因縁めいた符合について語らなければならない。


ディケイドの終わりには、変革が訪れる。時間の流れは連続で途切れないものだけれど、人々はそこに意味と物語を求める。十年ごとの区切りで時代を語ろうとする。そのムードが積み重なって、やがて、社会そのものの色合いを変えていく。


そしてもちろん、音楽はそこに密接にからみあっている。


たとえば、アメリカのポルノグラフィ業界を描いた映画『ブギーナイツ』には、1979年の大晦日に行われたパーティの模様が映し出されている。「グッド・バイ70s、ハロー80s」。きらびやかで騒々しいそのムードは、時代の空気の一つの象徴だ。1979年と言えば、マイケル・ジャクソンが『オフ・ザ・ウォール』をリリースし、トレヴァー・ホーン率いるバグルズが「ラジオスターの悲劇」で一世を風靡した年。

 

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「もう巻き戻せない。こんなにも遠くまで来てしまったのだから」。

 

そう歌った「ラジオスターの悲劇」では、その後の80年代に起こることが、すでに予言されていた


たとえば、今年を代表する映画の一つであるクエンティン・タランティーノ監督の最新作『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』には、1969年がどんな年だったかが色鮮やかに刻み込まれている。

 

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ウッドストック・フェスティバルからオルタモントの悲劇へ――ヒッピーたちが謳歌した60年代後半のピースフルで牧歌的な空気が大きく変質していく分岐点の一つに、映画が描いたシャロン・テート殺害事件があった。


1989年はもっとはっきりと、世界全体の枠組みが大きく変わった一年だった。北京の天安門広場で暴動が起き、ベルリンの壁が崩壊し、マルタ会談で冷戦の終結が宣言された年。ストーン・ローゼズやニルヴァーナがファーストアルバムをリリースし、フランシス・フクヤマが『歴史の終わり?』と題した論文を発表した年だ。


そんな風に、2019年も、きっと後から振り返れば沢山のことが思い出される一年になるだろう。少なくとも、人々の価値観は、目に見えて、大きく変わっている。家族や友人、仕事仲間との何気ない会話の中でも、そのことに触れることが多くあった。


そして、敏い人はもう気付いているだろう。2020年代への胎動はすでに始まっている。

 

たとえば、リゾがデビュー作『コズ・アイ・ラヴ・ユー』でブレイクを果たしたこと、グラミー賞で主要4部門を含む最多8部門にノミネートされるなどアーティストとして大きな成功を得たことは、「すでに2020年代が始まっている」ことの一つの象徴と言えるだろう。

 

「ブラック・ライヴズ・マター」も「#ME TOO」も経て、誰もがコンプレックスに縛られず、ハラスメントの対象にならず、自分に誇りを持って生きていける時代が、ひょっとしたらこの先、本当に訪れるかもしれない。彼女の醸し出すポジティヴなエネルギーには、そんな希望を感じてしまう。


 ビリー・アイリッシュもが巻き起こしたセンセーションも二十年代への架け橋になるはずだ。18歳という年齢というよりも、僕は彼女の存在の重要性を「セルフ・アウェアネス」という切り口から見ている。つまり、自分自身と深く向き合うこと


スマートフォンとソーシャルメディアの普及を経て「人々が常時接続し、相互に作用しあうこと」が当たり前になった2010年代は、メンタルヘルスが大きな問題になった時代でもあった

 

様々な統計がアメリカで10代の自殺率が激増したことを示している。その要因をソーシャルメディアのせいだけにするのは早計かもしれないが、少なくとも、新しい情報技術が若者たちのメンタルに作用していることは明らかだ。XXXテンタシオン、リル・ピープ、そして先日夭折を遂げたジュース・ワールド。みな20歳か21歳で命を失った。

 

抗不安薬ザナックスの広まりと共に生まれた「エモ・ラップ」のムーヴメントと、そのシーンのヒーローとなるべき才能に溢れた若いラッパーたちの死は、苦悩に溢れたティーンエイジャーたちの心象の象徴でもあった。もともとダークで内向的なセンスの持ち主でもありXXXテンタシオンとも親交のあったビリー・アイリッシュが、ポップ・アイコンとして巨大なスケールの成功を経て眩しすぎるスポットライトを浴びた後に、どう歩みを進めていくか。それが次の時代の扉を開ける一つの鍵になる気がしている。


グレタ・トゥーンベリが一躍「時の人」になったのも、2019年を象徴するような現象だった。世界中の注目を浴びたきっかけは9月に行われた国連の地球温暖化サミットだったが、すでに彼女はそれ以前からアイコンになっていた。だからこそTHE1975は8月に発表した楽曲でそのスピーチをフィーチャーしたわけだし、ビリー・アイリッシュも支持を呼びかけたわけだ。気候変動にまつわる問題は、すでに危機的な状況に達している。そのことがようやくイシューとして前面化したということだ。


 一方で、グレタ・トゥーンベリの言動や存在に憤慨したり嘲笑したりしている多くの人間が、いわゆる「おっさん」だったことも、とても印象的だった。その中には、トランプ大統領を筆頭に権力者の人間、企業家やエスタブリッシュメント側の人間も少なくなかった。


 「toxic masculinity(有害な男らしさ)」という概念に注目が集まるようになったのも、2019年の兆候の一つだろう。強権的な態度や、暴力性や、他者を支配し屈服させることへの欲求は、これまで「男らしさ」の一つの側面として捉えられてきた。その背景には長らく続いてきた家父長制の影響もあったと思う。

 

けれど、その男らしさの呪縛こそが、女性を、LGBTQなどのマイノリティを、そして当の男性自身を苦しめ、生きづらくさせてきたのではないか。世界は、徐々にそのことに気付きはじめている。たとえばサム・フェンダーのデビュー作『Hypersonic Missiles』やレックス・オレンジ・カウンティの3作目『Pony』は、この「有害な男らしさ」をどう乗り越え、どう解毒していくかをテーマにした作品だ。

 

 


 ポップ・ミュージックは〝予感〟に満ちている。

 この連載では、ずっとそのことについて書いてきた。


 日本に暮らしていると、日々、うんざりするようなニュースを目にすることが多い。気が滅入るようなことも多い。取り繕って平気な顔をしているつもりはないけれど、それでも、基本的には僕は楽観的でいようと思っている。

 

(初出:タワーレコード40周年サイト「音は世につれ」2019年12月26日 公開)

 

tr40.jp

日々の音色とことば 2019/12/26(Thu) 00:00

長谷川白紙『エアにに』と、拡張されるアイデンティティの境界

忘れないうちに書いておこう。長谷川白紙のファーストアルバム『エアにに』がめちゃめちゃ素晴らしい。

 

エアにに

 

エアにに

エアにに

  • アーティスト:長谷川白紙
  • 出版社/メーカー: MUSICMINE
  • 発売日: 2019/11/13
  • メディア: CD
 

 

アルバムについては『MUSICA』の12月号でディスクレビュー書きました。

そこにも書いたことだけど、こちらにも。

 

大袈裟なことを言うと「長谷川白紙以降」というタームが生まれそうなくらいの飛び抜けた才能。リズムとアンサンブルと歌の奔放で綿密な躍動があふれている。どんどん表情を変えせわしなく駆け抜けていく曲調は現代ジャズやエレクトロニカなど様々なルーツも感じさせつつ圧倒的にオリジナル。そして何より歌の強さ。譜割りもメロディの跳躍もこれまでのポップスの常識から逸脱してるのに、一度聴くとしっくりと馴染む。単なるエクスペリメンタルな音楽ではなく、シンガーソングライターとして「歌うべきテーゼ」を持ち、詩としての強度を持つ言葉を歌っているからだと思う。

 

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ひとたび聴いて伝わるのは、彼の音楽が、今まで聴いたことのないテクスチャ―と構造を持っているということで。緻密なコラージュの数々、カオティックな展開、自在なストップ&ゴ―、いろんなタイプの興奮を味あわせてくれる曲調が展開されていく。

で、それも間違いなく素晴らしいと思うんだけれど、僕としては、上に書いたとおり、これだけエクスペリメンタルでぶっ飛んだ音楽が、それでも「シンガーソングライターの表現」になっているということが凄いと思うのです。ただ音符と戯れているというよりも、彼の中に確固たるテーマがあって、その表出として歌がうたわれているということ。歌詞をちゃんと紐解くと、そのことが伝わってくる。

 

体を囲う虹の糸が
見えているのはあなただけ
天国くらいに磨り減って
光を通す
あなただけ
思ったときできた
肌から臓が 着くずれ 文字を待つ
(「あなただけ」)

 

「あなただけ」の冒頭で歌われるのは、身体の境界や、自分の内部の溶融をモチーフにした表現。『草木萌動』でも自分の身体をモチーフにした表現が頻出していたけれど、今作もその延長線上にある表現になっている。

どうして、彼は、そういうことを歌おうとしているのか。

『MUSICA』に編集長の有泉さんによるインタビューが載っていて、彼自身が明確にそれを言語化していた。

 

基本的に、私は常に私自身を否定して外に行きたいんですね。何重もの領域を持っていたいというか、私を固定するひとつの枠組があったとして、それを常に壊して「ない」状態にしておきたい――というのが私の根源的な欲求だなということに気づいたんです。私のやってきたことは全部それで説明がつくぐらい、私にとって基本的な欲求なんだなと。でも、それって実際には無理があることなんですよ。「何者でもありたい」なんてことはもちろん実現できないですし。でも音楽であればそれが可能になる。つまり私が音楽をやるのは、私にとって「私ではない私」にアクセスするための1個の手段なんだなということに気づきまして。私が想像し得なかった私であるとか、もしくはなりたかった私であるとか、少なくとも今の自分ではない広い領域に自分の体を持っていったり、広い領域まで自分の体を広げるための手段が音楽だったんだな、と。

 

私が曲を書く上で一番重要視している、というかこれ以外はほぼ重要視してない判断基準があるんですけど、それは曲を書いている時や書き終わった後に、「私の中を何かに探られていく感覚、あるいは私の中の何かが更新されていく感覚があるかどうか」なんです。やってて楽しいとかそういうことを基準にしていると、私の中ではどんどん立ち行かなくなってしまうところがあって。

 

この二つの発言を読んで、僕としては、とても合点がいったし、なんだかすごく感動してしまった。

たぶん、長谷川白紙の音楽を聴いて「わかりづらい」と思う人は沢山いると思う。馴染みのある様式を使ってはいないから。でも彼の曲はポップスとして機能する。というか、なんだかわからないけれど感覚を揺さぶられるようなものがある。それは、彼がアイデンティティについて歌っているから。

アイデンティティというのは、古くて新しい、すごくクリティカルな問題だと思ってる。

アイデンティティとは「自己同一性」のこと。辞書的な説明をすると「人が時や場面を越えて一個の人格として存在し、自己を自己として確信する自我の統一を持っていること」という意味。もうちょっと噛み砕くと「私はこういう人間だ」と思える「自分らしさ」のよすがというか。

で、ほとんどの人は、アイデンティティについて「あったほうがいい」と思っている。生きていくために「自分らしさ」が必要だと思っている。たとえばサカナクションの「アイデンティティ」みたいに、そのことをテーマにした日本のポップソングも多い。

 

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アイデンティティがない、つまり「自分らしさ」のよすががないことは、人を不安にさせる。

だから、多くの人は、人種や民族や、生まれ育ちや住む場所や、性別や性的志向や、職種や所属や、いろんな「領域」や「枠組み」をアイデンティティのよすがにする。

でも、長谷川白紙が言ってるのは、その反対なわけだ。「私を固定するひとつの枠組があったとして、それを常に壊して『ない』状態にしておきたい」というわけだから。

すごくラディカルな、そしてめちゃめちゃ風通しのいい考え方だと思う。

もちろん現実には難しい。でも少なくとも、音楽を聴いている瞬間には、それができる。「私」という境界は溶けて、違う領域にタッチできる。長谷川白紙はそういうことをテーマに表現してるから、こういう歌、こういう音楽にある。必然性がある。

そういうところにすごく興奮します。

日々の音色とことば 2019/11/21(Thu) 19:39

「ポップの予感」第七回 ポスト・マローンと、インターネットが希望だった時代によせてのララバイ

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「無知が至福だというなら、もう放っといてくれ」


 ポスト・マローンは「インターネット」でこう歌っている。

 

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 この曲が収録された彼のニューアルバム『ハリウッズ・ブリーディング』は、2019年もっともセールスをあげたアルバムのうちの一枚だ。その中でも「インターネットなんてファックだ」と言い放ち、インターネットがいかに自分たちのライフスタイルをろくでもないものにしているかを歌い上げるこの曲は、どこか、2010年代という一つのディケイドが終わろうとしている今の時代を象徴しているように思える。

 

 9年前、世の中には、もっと希望に満ちたムードがあった。

 

 インターネットによって、ソーシャルメディアによって、何かが変わるかもしれない。これまでになかった、現実社会を変える大きな力が生まれつつあるのかもしれない。そんなことを、いろんな人が思っていた。たとえば2012年に刊行された津田大介『動員の革命 - ソーシャルメディアは何を変えたのか』は、そんな気分に満ちた一冊だ。本の中には、当時、中東や北アフリカで起こった民主化運動「アラブの春」を肯定的に描いた一節がある。たしかにあの時点では革命の熱狂があった。しかし、その後数年で、地域は再び混沌と暴力に包まれることになる。

 

 

動員の革命 - ソーシャルメディアは何を変えたのか (中公新書ラクレ)

動員の革命 - ソーシャルメディアは何を変えたのか (中公新書ラクレ)

  • 作者:津田 大介
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2012/04/07
  • メディア: 新書
 

 

 2010年代は、スマートフォンとソーシャルメディアのディケイドだった。新たな情報技術と、それによってもたらされた人々の紐帯が、最初は興奮をもって、そして次第に幻滅と共に語られるようになった。そういう10年だった。

 

 もちろん、インターネットによってエンパワーメントされた人は沢山いる。この連載でも何度も触れてきたように、ここ数年で社会の価値観はずいぶん変わった。マイノリティの声は少しずつ世を揺るがす力を得るようになってきている。


 それでも、その裏側にはダークサイドがある。


 デイビット・パトリカラコス『140字の戦争』は、ソーシャルメディアが戦場においてどんな役割を果たしたかを克明にドキュメントしたルポルタージュだ。そこでは、戦車や爆撃機といった武力ではなく、ソーシャルメディアを通じた言葉とナラティブによって勝者が決まる二十一世紀の戦争のさまが描かれる。イスラエルとパレスチナで、ロシアとウクライナで、シリアとISで、どんなデジタル・コミュニケーションが人々を駆り立てたのかを詳細に描いている。なかでも印象的なのは、サンクトペテルブルクの「トロール工場」で相場以上の月収をもらい日々フェイクニュースの執筆に勤しんでいたヴィターリ・ベスパロフの述懐だ。彼は毎日、自分がまるでジョージ・オーウェルが『1984』に描いた「真理省」に勤めているようだと感じ、次第に心を病んでいったという。

 

140字の戦争 SNSが戦場を変えた

140字の戦争 SNSが戦場を変えた

 

 
 ファック・ザ・インターネット。


 ポスト・マローンの歌声には、どこか「心地よい虚無感」のようなものが宿っている。そして、それは彼自身の厭世的なキャラクターとも結びついている。右眉毛の上に「Stay Away」(俺に近づくな)、両眼の下に「Always Tired」(いつもぐったり)というタトゥーを入れたポスティ。この二つの言葉は、彼のスタンスの象徴と言ってもいいかもしれない。

 

 DJだった父親のもとで育ち、ゲーム「ギターヒーロー」をきっかけにギターに夢中になったテキサス州の少年オースティン・リチャード・ポストは、高校を卒業し、LAに移住する。2015年、デビューシングル「White Iverson」で一躍注目を集めた彼を後押ししたのも、インターネット・カルチャーだった。

 

 無類のゲーム好きでもあり、実況サイトTwitch にも自身のチャンネルを持つ彼は、2019年、ハリウッドからユタ州ソルトレイクシティに引っ越している。メタル界の大御所オジー・オズボーンとトラヴィス・スコットを一曲で共にフィーチャリングするほどのスーパースターとなった彼が、ハリウッドの喧騒を離れて求めたのが、「1人っきりでビールを飲んでビデオゲームをやるための豪邸」だった。

 

 つまり、ポスト・マローンは一貫して「デタッチメント」を象徴するポップアイコンなのだ。退却主義と言ってもいい。この連載でスポットをあててきたビヨンセやTHE1975が「コミットメント」の象徴であるのとは対照的だ。60年代や70年代のロックミュージシャンのライフスタイルを称揚した「ロックスター」で世を席巻しスターダムを上り詰めた彼。そこから一貫して、享楽性と虚脱感が背中合わせになったようなムードを音楽の中に表現している。それがポップな魅力として人々を惹きつけ続けている。

 

「退屈した者たちの王国では、片手で操作する無法者が王である」

 

 ニコラス・G・カーは『ウェブに夢見るバカ』(原題は『Utopia is Creepy』)にて、こう綴っている。「ツイッターは、哲学者のジョン・グレイの言葉を借りるなら、『無意味からの避難所』となり得る」と喝破している。2010年に刊行された『ネット・バカ』(原題は『The Shallows』)にて注目を集めた著述家である彼は、インターネットというテクノロジーが人々の知性と集中力を削ぎ落とすように巧みに設計されたインターフェースとして機能していることを繰り返し述べている。

 

ウェブに夢見るバカ ネットで頭がいっぱいの人のための96章

ウェブに夢見るバカ ネットで頭がいっぱいの人のための96章

 

 

 2010年代の後半に入り、同様の主張は増えている。

 たとえば、行動経済学の専門家であるアダム・オルターは、著書『僕らはそれに抵抗できない 「依存症ビジネス」のつくられかた』の中で、スマートフォンとソーシャルメディアがもたらした新たな「行動嗜癖」の発生と広がりを分析している。

 

 

僕らはそれに抵抗できない 「依存症ビジネス」のつくられかた

僕らはそれに抵抗できない 「依存症ビジネス」のつくられかた

  • 作者:アダム・オルター
  • 出版社/メーカー: ダイヤモンド社
  • 発売日: 2019/07/11
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

 コンピュータ科学の専門家であるカル・ニューポートが記した『デジタル・ミニマリスト』にも、スマートフォンが人々の生活を侵食し重度の情報依存をもたらしている理由の一端を、フェイスブックの初代CEOショーン・パーカーの言葉の引用と共に解説されている。

 

「フェイスブックを先駆とするこういったアプリケーションの開発者の思考プロセスは……要するに〝どうしたらユーザーの時間や注意関心を最大限に奪えるか〟だ。自分の写真や投稿や何やらに〝いいね〟やコメントがつくと、ユーザーの脳内にわずかながらドーパミンが分泌される。これが一番手っ取り早い」 

 

デジタル・ミニマリスト: 本当に大切なことに集中する

デジタル・ミニマリスト: 本当に大切なことに集中する

  • 作者:カル・ニューポート
  • 出版社/メーカー: 早川書房
  • 発売日: 2019/10/03
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 
 間歇強化、つまりランダムな報酬によって引き起こされる心理的な影響がユーザーの注意を引きつける。それがユーザーにとっては行動嗜癖の、テクノロジー企業にとっては成功のトリガーになる。「アテンション・エコノミー」という言葉が示す通り、人々の関心を集めることはそのまま経済的な成功に結びつく。そうやってテクノロジー企業は訴求力を高め、それを利益の源泉にしている。

 

 アンドリュー・キーン『インターネットは自由を奪う』(原題『Internet is not the Answer』)には、北京航空航天大学が2013年に起こった調査から、ソーシャルメディア上での拡散速度がもっとも速かった感情は怒りで、次点だった喜びを大きく引き離していたという記述がある。人々はソーシャルメディア上で喜びよりも怒りをわかちあう傾向にある。

 

インターネットは自由を奪う――〈無料〉という落とし穴

インターネットは自由を奪う――〈無料〉という落とし穴

 

 

 ファック・ザ・インターネット。

 

 ポスト・マローンの「インターネット」は、カニエ・ウェストがプロデュースした楽曲だ。2018年9月、そして2019年5月に、「ファック・ザ・インターネット」と題された、両者のコラボレーションによる未発表バージョンの音源がリークされた。

 

soundcloud.com

 

そしてそのカニエ・ウェストは2019年10月、再三に渡る延期を経て、アルバム『ジーザス・イズ・キング』をリリースする。全編ゴスペルをベースにした、しかしこれまでの黒人教会の伝統に連なるオープンネスとは違う、とてもスピリチュアルで密室感のある曲調を展開する一枚だ。

 

 

 2010年代の終わりと共に、「インターネットが希望だった時代」も終わりゆく予感がしている。

 

 でも、そのさきの希望がどこにあるのかは、まだ、見えていない。

 

(初出:タワーレコード40周年サイト「音は世につれ」2019年11月11日 公開)

 

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日々の音色とことば 2019/11/11(Mon) 00:00

嵐「Turning Up」/ J-POPを背負う、ということ

Turning Up

 

www.youtube.com

 

嵐の新曲「Turrning Up」。いい曲よね。

11月3日、デビュー20周年の記念日に記者会見を行い、公式のTwitter、Facebook、Instagram、TikTok、Weiboのアカウント開設、全シングル65曲のデジタル配信を開始。それに合わせて公開されたのがこの曲。

というわけで、「嵐のネット解禁」はいろんな社会的インパクトを持って受け止められている。僕もいろんな媒体に『ヒットの崩壊』著者の音楽ジャーナリストとして取材を受けました。音楽産業にあたえるインパクトとか、海外への波及効果への影響とか。

まあ、でもそんなことはさておいて。経済的な影響だとかジャニーズのネット戦略とか、そういうのはおいておいて「いい曲よね」というのがグッド・ニュースだなあと思う。ただ過去曲が解禁になるのよりも、新曲が配信されて、そこに意志とメッセージが読み解けるものになっているのが大きい。

というのも、これ、シングルとしては本当に久々の「嵐が嵐のことを歌ったポップソング」だから。

ここ何年もずっと、嵐のシングル曲というのは、メンバー主演のドラマや映画の主題歌だったり、大きなスポーツイベントのテーマソングだったり、ナショナルクライアントのCMソングだったりした。要はタイアップありきで制作された楽曲ということで、それはまあ国民的グループとしては当たり前の事実でもあった。

でも、この「Turrning Up」に関しては、「Theme of ARASHI」や「COOL & SOUL」に通じる、グループがグループのことを真っ向から歌ったノンタイアップの曲。ラップのリリックに「山 風 (嵐)と ほら朝まで」とグループ名をことを綴っているのも象徴的。

作曲はAndreas CarlssonとErik Lidbom。曲調はコンテンポラリーなブラック・ミュージックをベースにしている。そういう意味でも「ファンクをどうJ-POP化するかを考えて作られた曲」であるデビューシングル『A・RA・SHI』の20年後の正統的なアップデートという感じもする。

で、ポイントは、いわゆる海外のポップミュージックの動向とJ-POPの要素の絶妙なブレンドにあると思う。サウンド自体は、いわゆるブルーノ・マーズ以降の今のR&Bを意識しているもの。だけど、Aメロ、Bメロ、サビという曲の構造も、曲後半のヴァースでラップが入るという構成も、すごくJ-POP的。この「サウンドは洗練されているけれど構造はJ-POP」というのは、実はこの曲のメッセージ性ともリンクしてる。

曲を聴いて耳に残るのはサビの「Turrning Up With The J-POP」という一節。ここでの「Turn Up」は「音量を上げる」という意味だと思うので、直訳すれば「でっかい音でJ-POP聴こうぜ!」みたいなことを歌ってる。つまりそれがこの曲の持つメッセージ性ということになる。「嵐=J-POPの代表」ということをこの曲で打ち出してるわけだ。

 

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ツイッターの発信が明らかに英語圏を意識していることや、中国語圏のSNSであるweiboのアカウントを開設していることを含めて、全てのアクションと曲に込められた意図が合致してる。

嵐については活動をつぶさに追っているわけではないのだけれど、ここぞというタイミングで意志の強い楽曲を放ってくるところが、わりと好きなのです。

 

(ちなみに数年前の対談はこちら)

realsound.jp

 

 

 

日々の音色とことば 2019/11/06(Wed) 00:00

小沢健二が「彗星」で1995年と2020年の「今」を歌う理由

彗星

すごいの来た。小沢健二の新曲「彗星」。これを待ってた、という感じ。11月13日にリリースされる13年ぶりのニューアルバム『So kakkoii 宇宙』の収録曲とのこと。きっとアルバム全体を聴いたらまた捉え方も変わってしまうというので、今の時点でのファーストインプレッションを書きとめておこう。

 

 

歌詞はこちら。

 

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曲はオルガンから始まる。いきなり歌が始まる。

そして時は2020
全力疾走してきたよね 

 

その言葉に応えるかのように、優しいストリングスがふわっと響く。

「♪ツー、タッタタ」というドラムのフィルを合図に、ベースラインがグルーヴのスイッチを入れる。ギターのカッティングとクラビネットがファンキーに跳ねる。そしてフレーズはこう続く。

 

1995年 冬は長くって寒くて
心凍えそうだったよね

 

その言葉に「♪パッパラッパ〜」とホーンセクションが合いの手のようなオブリガードを入れる。ここまで約30秒。完璧。このオープニングがほんとに最高で、ここばっかり繰り返して聴いちゃう。歌い出しから「1995年」と明示した歌詞も、軽快で多幸感に満ちたソウル・ミュージックのサウンドも、明らかにこの曲が「強い気持ち・強い愛」のアンサーソングであることを示している。

この「強い気持ち・強い愛」がリリースされたのが1995年。アルバム『LIFE』リリースの翌年だ。異例なハイペースでシングルをリリースし、音楽番組にもたびたび出演して軽妙なトークを繰り広げ、さらには紅白歌合戦にも初出場と、小沢健二のキャリアでは数少ないマスメディアを賑わせた狂騒の一年。

「強い気持ち・強い愛」はアルバム未収録曲なのだけれど(ベストアルバム『刹那』には収録)、今年に入って「強い気持ち・強い愛 (1995 DAT Mix)」という別バージョンも配信リリースされていた。

 

 

このジャケット写真を見ても、2曲が呼応しているのがわかる。

「強い気持ち・強い愛」にはこんな歌詞がある。

 

寒い夜に遠くの街からまっすぐに空を降ってきた
冷たく強い風 君と僕は笑う 

 

「寒い夜」に「冷たく強い風」。この曲では冬の情景が描かれている。

 

1995年の冬。それは阪神・淡路大震災と地下鉄サリン事件が起こった季節だ。前年夏に「ジュリアナ東京」が閉店した。バブルの残り香がたち消え、未曾有の天災と事件が世の中の空気と人々の価値観をがらりと塗り替えた季節。戦後日本のターニングポイント。

 

「強い気持ち・強い愛」は、そういう年に世に放たれた冬の曲だった。だから「彗星」ではこう歌われる。

 

1995年 冬は長くって寒くて
心凍えそうだったよね 

 

つまりこれは1995年と、おそらくやはり日本のターニングポイントとなるだろう2020年をつなぐ曲なわけだ。ちなみに、じゃあその途中の2000年代はどうなの?という問いにも、丁寧に歌詞の中で答えている。

 

2000年代を嘘が覆い イメージの偽装が横行する
みんな一緒に騙される 笑

 

そしてここからがポイント。

「強い気持ち・強い愛」と「彗星」には共通点がある。それはサビで歌われる「今」という言葉が大事なキーワードになっている、ということ。

 

今のこの気持ちほんとだよね  (「強い気持ち・強い愛」)

 

今ここにある この暮らしこそが 宇宙だよと
今も僕は思うよ なんて素敵なんだろう!と  (「彗星」)

 

どういうことか。

この2曲は、共に「長い人生の中で、ほんのわずかに訪れる完璧な瞬間」のようなものをモチーフにしている。まばゆい光に包まれるような、その記憶だけを抱えてずっと生きていけるような、すべてがむくわれるような瞬間。だから曲調は多幸感に満ちているし、ホーンは祝福の響きを高らかに鳴らすし、言葉は饒舌になる。この2曲に使われている「ほんと」と「真実」というキーワードがその象徴になっている。

で、「強い気持ち・強い愛」は、その「今」から未来を見通す曲で、「彗星」は、逆に「今」から過去を振り返る曲だ。

長い階段をのぼり 生きる日々が続く
大きく深い川 君と僕は渡る (「強い気持ち・強い愛」)

 

今遠くにいるあのひとを 時に思い出すよ
笑い声と音楽の青春の日々を(「彗星」)

 

そういう風に呼応していると考えると、この曲に1995年と2020年というキーワードが表れているのがハッキリすると思う。

ちなみに「彗星」の後半も相当やばい。転調して、最後の大サビをコーラスと共に高らかに歌い上げて、そこで3分ちょっと。そこで曲を終えても全くもって熱量たっぷりの大団円なのに、さらに掛け合いを畳み掛ける。

あふれる愛がやってくる 
その謎について考えてる
高まる波 近づいてる
感じる
ここ、控えめに言って狂ってると思う。素晴らしいです。

 

 

 

日々の音色とことば 2019/10/11(Fri) 11:10

テイラー・スウィフト『Lover』と、「他の誰かの評判」じゃなくて「自分の好きなもの」で自分を定義する、ということ

Lover

ここのところ更新頻度落ちてたんだけど、ちゃんとこちらでも記録していこう。

というわけで告知から。BS日テレで毎週月曜 23:00~23:30放送の「イマウタ」にレギュラー出演してます。ストリーミングサービスのチャートにスポットをあてて「今、本当に聴かれている曲」をセレクトして紹介する番組。毎回”音楽マスター”として大仰な紹介されてるのこそばゆいんだけど、そろそろ慣れました。

www.bs4.jp

というわけで、今回は10月7日放送回で紹介したテイラー・スウィフト「Lover」について。

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テイラー・スウィフトのなにがすごいって、ポップアイコンであることの「業」みたいなものに、誰よりも真っ向から立ち向かっていることだと思うのだ。

端的に言うと、自分自身が商品になる、ということ。自分の人生が、感情が、パッケージされて市場に並ぶということ。それをとことんまで突き詰めてるシンガーソングライターだと思う。

恋愛体験を赤裸々に書き留めた初期の作品にしてもそう。元カレへの復讐とか、有名どころとの恋愛ゴシップとか、テイラー・スウィフトの曲は、いわば「リアリティーショー・ポップソング」として磨き上げられて世に放たれていた。

カニエ・ウェストとの確執とか、炎上とか、いろいろあった騒動の数々をモチーフにした前作『レピュテーション』もそう。挑発的なエレクトロのビートに乗せ、悪評と復讐心を背負う「蛇としての自分」を歌い上げたキャリア史上最もダークなアルバム。

 わざわざ曲中に「ごめんなさい。昔のテイラーは今電話にでられません」「どうして?」「彼女は死んだから」というやりとりをフィーチャーする「Look What You Made Me Do」が最も象徴的。

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でも、あれは「行き止まり」だったのだろうな、とも思う。

6枚のアルバムで、テイラー・スウィフトは常に自分自身の人生を切り売りしてきた。そうして記録的なセールスを達成してきた一方で、当然、彼女自身の人生は名声に踏み荒らされてきた。

『レピュテーション』がダークで”黒い”アルバムであるのに比べて新作『ラヴァー』は一聴して明らかにカラフル。曲調は『Red』に通じるチアフルなエレクトロ・ポップが中心。ディクシー・チックスをフィーチャーした“スーン・ユール・ゲット・ベター”のようにカントリーサウンドを打ち出した曲もある。表題曲はアコースティック・ギターに乗せてフォーキーな歌を聴かせる6/8拍子のロッカ・バラード。タイトルもアートワークも、焦点を当てているのは「愛」。

 

 MTVのVMAで「You Need to Calm Down」と「Lover」を披露したときのパフォーマンスも最高だった。

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ただ、やっぱりすごいのは、単に「ラブソング回帰」「カントリー・ポップ回帰」なアルバムじゃない、ということ。ロマンティックなラブソングが並ぶが、新作は単なる恋愛ソング集ではない。そこがやはりテイラー・スウィフトの凄味だと思う。

アルバムにはテイラー・スウィフト自身の解説が封入されていて、そこには「10代の頃につけていた日記がアルバムのインスピレーションになった」ということが書かれている。

日記には自分の好きなことやものばかりが綴られていたそうで、だから新作のアルバムタイトルは「Lover」なのだという。「私は私の好きなもので私を定義する」というのが、実はアルバムのメインテーマ。誰かが自分について言ってた評判(=レピュテーション)ではなく、自分の愛するものこそが、自分のアイデンティティになる。ソーシャルメディアに跋扈する「自分について何かを言っている誰か」ではなく、自分自身の声に耳を傾ける、ということ。そういうメッセージがアルバムの核になっている。

そのうえで。このアルバム何がすごいって、テイラー・スウィフトが実際につけてた直筆の日記のコピーが、デラックス盤のCDに封入されているということなんですよ。しかも4種類。

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デラックス盤の4種類、それぞれ違う時期の日記の抜粋がされていて、コンプリートするためには全部買わなきゃいけないという。いわばJ-POPのCDの特典商法めいた手法。で、結果、アメリカにおいて2019年最大のアルバム・セールスを記録したという。

そういうところも含めて、やっぱりテイラー・スウィフトの「人生を切り売りするポップアイコンとしての業」ってすさまじいな、とも思うけれども。

テイラー・スウィフトが言っている「”誰かの評判”じゃなくて”自分の好きなもの”で自分を定義する」というメッセージって、誰もがソーシャルメディアに振り回される今の時代、とても大事なものだよな、とも思う。

 

 

 

日々の音色とことば 2019/10/09(Wed) 11:01

「ポップの予感」第六回 THE1975と『天気の子』が立ち向かう、気候変動の未来

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「頼むから聞いてくれないか。耳を傾けてくれないか?」

 

 マシュー・ヒーリーは、鬼気迫る顔でそう歌った。ステージを降り、カメラに向かって叫び、客席に飛び込み、オーディエンスの上に馬乗りになり、「I Like America & America Likes Me」のこんな一節を歌った。

 

「子供たちにはライフルなんて必要ない。Supremeの方が欲しいんだ。銃なんて一切必要ない。これで少しは眠れるようになるかな」

 

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 2019年のサマーソニックの個人的ハイライトはTHE1975のライブだった。ちょっと、泣いてしまうくらい素晴らしかった。ロックバンドが、今の時代に真っ向から立ち向かうというのは、どういうことか。それをまざまざと見せてくれるようなステージだった。


 昨年にリリースした傑作アルバム『ネット上の人間関係についての簡単な調査』を引っさげてのライブ。序盤にあったのは、とてもチアフルで高揚感に満ちたムードだ。映像を多用し、バンドメンバーに加えてサックス奏者や黒人女性ダンサーもパフォーマンスを繰り広げる華やかなステージ。僕はスタンドから、スタジアムをぎっしりと埋めるオーディエンスを見下ろしていた。すごい熱狂だった。

 

でも、途中から、バンドとオーディエンスの化学反応は「楽しい」とか「盛り上がる」だけじゃないところに向かっていった。美しさと、悲しさと、不安と、怒りと、だからこその愛しさと、いろんな喜怒哀楽が混ざりあった感情のレッドゾーンのようなところまで連れていかれる感じがあった。日本酒をラッパ呑みしながらステージに立つマシュー・ヒーリー自身にも、それを導く危うい魅力があった。

 

 終盤、バンドは「Love It If You Made It」をプレイした。

 

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これも、オンラインコミュニケーションをテーマの主軸にした昨年のアルバムの重要曲。トランプ大統領のツイートや、リル・ピープの名前や、いろんな引用を散りばめつつ、洪水のように氾濫する情報の中で真実を見失う2010年代後半の社会の実相をなかば分裂症気味に歌う曲だ。


「近代は失敗した」「そう、僕らが成し遂げられたら最高だね」。マシュー・ヒーリーは右手を高く掲げながら歌った。

 

 ポップは力だと思う。

 

 この連載の中でも、そういうことを繰り返し書いてきた。音楽は時代の切っ先に漂う空気を切り取るもので、だからメインストリームのポップソングこそ、むしろ、ジャーナリスティックに時代の姿を反映している。THE1975はそのことにとても自覚的なバンドだ。


 バンドは来年2月に新作『ノーツ・オン・ア・コンディショナル・フォーム』のリリースを予定している。7月にはその冒頭を飾るオープニングトラックの「The 1975」も発表された。

 

 

そこにフィーチャーされたのは、現在16歳の環境活動家、グレタ・トゥーンベリのスピーチだ。同曲の収益はすべて気候変動に抗議する運動「エクスティンクション・レベリオン」に寄付されることが発表されている。

 

「私たちは今、気候や環境の危機の始まりに足を踏み入れています」 

 

 グレタ・トゥーンベリは同曲で、こう語り始める。気候変動の問題の解決は、ホモ・サピエンスがこれまでに直面してきた中で最も大きく最も複雑な問題だということ。解決策はシンプルで、温室効果ガスの排出を止める必要があるということ。しかし、上の世代による現状のあらゆる政策が失敗に終わっていること。まずはそれを認めなきゃいけないということ。それでも、ホモサピエンスとしてはまだできることがある。まだ状況を変えるだけの時間はある、ということ。そういうことを、滔々と語っていく。

 

「今こそが、市民が立ち向かう時。今が反逆の時です」

 

 スピーチは、こんな言葉で締めくくられる。

 

 続けて8月19日に発表されたのは、きたる新作アルバムの2曲目に収録される予定の「People」。今までのバンドの音楽性とは全く違う、尖ったギターと激しいシャウトに満ちたパンキッシュな曲だ。

 

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マリリン・マンソンやナイン・インチ・ネイルズあたりを彷彿とさせるサウンドに乗せ、冒頭からマシューが「ウェイク・アップ!」と叫ぶ。アルバムではグレタ・トゥーンベリのスピーチから間を置かずにこの曲が始まることを考えると、そこに込められた意志の強さにわくわくする。

 

 アニメーション映画『天気の子』も、明確に気候変動をテーマに打ち出した作品だった。

 

 『君の名は。』から3年ぶりとなる新海誠監督の新作。予告編のキャッチコピーには、こんな言葉があった。

 

「あの日、私たちは世界の形を決定的に変えてしまったんだ」 

 

 最初は単なる情緒的な宣伝文句だと思った。けれど、作品を見た後では、その言葉の意味が全然違って伝わってきた。たしかに筋書きはボーイ・ミーツ・ガールだ。アニメーションの絵は美麗で、東京の街並みはとてもリアルで、老若男女が楽しめるストーリーだと思う。でも、そこには同時に大きな問いかけも内包されていた。


 果たして「私たち」とは、映画の主人公の陽菜と帆高のこと、だけなのだろうか。

 

 物語の中では、神秘的な力を得て「天気の巫女」となった陽菜と、犠牲になった彼女を救おうと大人や権威と対立し奔走した帆高の選択の結果が描かれる。その終盤のシーンで重要なキーワードが登場する。それが「アントロポセン(人新世)」。


 映画の序盤では帆高愛読書としてサリンジャーの『キャッチャー・イン・ザ・ライ』が登場するが、終盤には「アントロポセン(人新世)」をテーマにした記事を読んでいる場面が描かれる。


「アントロポセン(人新世)」とは「人類の時代」という意味の新たな地質年代の名。人類の活動が地質学的な変化を地球にもたらしているという認識から、「完新世」に続く新しい区切りとして提唱されている。


 新海誠監督も、数々のインタビューで気候変動が本作のテーマにあることを明かしている。天気というものが四季の情緒を示すものからある種の脅威として人々の前に立ち現れるようになってきたという変化の実感から構想の根幹が生まれたと語っている。


 つまり、『天気の子』の「私たちは世界の形を決定的に変えてしまった」というキャッチコピーからは、物語においてそれは「陽菜と帆高」のことかもしれないけれど、現実世界においてその「私たち」とは、人類そのもののことではないか、という問いかけを見出すことができるのだ。

 

 主題歌を依頼される前、脚本の初稿を新海誠監督から受け取ったRADWIMPSの野田洋次郎は、それに対してのアンサーのように「愛にできることはまだあるかい」という曲を書き下ろし、送ったという。

 

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結果としてこの曲を含む計5曲が同作の主題歌となった。それだけでなく、前作『君の名は。』に続き映画の劇伴もRADWIMPSが手掛けることになった。野田洋次郎は毎日同じ時間に新海にメールをし、完成直前まで一緒に映像と音楽を直したという。タイアップの手法で主題歌の制作が進むことが多い映画においては、とても異例な手法だ。しかし、『天気の子』は両者がタッグを組み、刺激を与え合う関係性だったからこそ生まれた作品だ。

 

 「愛にできることはまだあるかい」では、こんな言葉が歌われる。

 

「世界が背中を 向けてもまだなお 立ち向かう君が 今もここにいる」

 

 

 僕がこのフレーズを聴いたときに、ふと思い浮かんだのが「The 1975」で繰り広げられたグレタ・トゥーンベリのスピーチだった。


 もちろん、両者の立っている場所も、投げかけているメッセージの射程と深度も全然違う。


 でも、THE1975も、RADWIMPSも、それぞれUKと日本から「今の時代だからこそロックバンドがやれること」を更新し続けている、だからこそトップの地位に立っているバンドだと僕は思っている。だから、そこに何らかの共通点を見出すこともできるのではないかと思う。

 

『天気の子』はアカデミー賞国際長編映画賞部門の日本代表の出品作品にも決まった。英題は「Weathering with You」。動詞の「Weather」には「(嵐や困難を)乗り越える」という意味がある。きっと、映画が持つ「立ち向かう」というムードが、この先、より大きく広まっていくだろう。そんな予感がする。

 

(初出:タワーレコード40周年サイト「音は世につれ」2019年9月3日 公開)

tr40.jp

日々の音色とことば 2019/09/03(Tue) 00:00

東方Projectの同人CDをサンプリングした「Omae Wa Mou」がTikTok経由で世界中でバイラルを巻き起こしている謎現象について

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ツイッターにも書いたんだけど、あまりに意味がわからないミームの拡大を目の当たりにしたので、こちらにもちゃんと書き残しておこう。

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簡単に言うと、2013年に作られた東方Projectのアレンジ曲が、なぜか2019年の夏になって英語圏を中心に世界中で巨大なバイラルを巻き起こしてしまっている、という現象だ。

それがdeadman死人「Omae Wa Mou」という曲。

open.spotify.com

 

これが、英語圏で謎のミームとなり、バイラル現象を起こしている。

アニメ絵の女の子がジャケットで、歌詞は日本語。これがSpotifyのアメリカのバイラルチャートで1位(8月25日時点)。グローバルのバイラルチャートでも2位(同)となっている。

 

spotifycharts.com

聴いてみると、柔らかなアコースティックギターの響きから曲は始まる。ボサノヴァの曲調だ。そして唐突に「お前はもう死んでいる」のセリフ。北斗の拳だ。誰がどう聞いてもケンシロウである。

続いて、キュートな女性ヴォーカルで「♪ うつむいたこのおでこトントン叩いたのは 君なのかな? 違うのかな?」と歌が始まる。

www.youtube.com

一体これは何なのか? 何が起こってるのか?

調べてみたら、原曲は2013年に同人頒布された東方ボサノバアレンジCD 『TOHO BOSSA NOVA 2』に収録された楽曲「タイニーリトル・アジアンタム」。作曲は、同人音楽サークル「Shibayan Records」の代表shibayanさんだ。

www.youtube.com

Shibayan Recordsによる「TOHO BOSSA NOVA2」公式ページとクロスフェードはこちら。

shibayan.la.coocan.jp

soundcloud.com

「東方アレンジ」というのは、ちゃんと話すととても長くなってしまうのだけれど、ざっくり言うと、「東方Project」という同人界隈で大きな人気を持つシューティングゲームのBGMに端を発する音楽の二次創作のカテゴリのこと。つまり、00年代から2010年代に至る日本のオタクカルチャー、同人文化のかなりど真ん中にある音楽。

で、なんで、これが2019年になって英語圏でバズっているのか?

それを解説した記事がこれ。

www.rollingstone.com

上記のRolling Stone.comの記事によると、どうやら曲を作った「deadman死人」とは、18歳のトラックメイカー、Noah Ryan Murphyのことだという。

彼が曲を作って発表したのは2017年9月。まだ16歳のときのことだ。

曲を作った動機は「Type beatを作って、それを売って小遣い稼ぎをしたかった」ことらしい。Type beatについてはちゃんとした解説が必要だと思うので、以下の記事を参照。

note.mu

Type Beatとは、ざっくり言うと「有名なラッパーの曲調を真似て作られた販売用トラック」のこと。日本語に訳すなら「○○っぽいビート」ということになるかな。ラッパーがヒット曲を出すと、それっぽい感じのトラックをトラックメーカーが作って、主にYouTubeで公開する。

そして、デビューしていなかったり金がなかったりしてプロデューサーにトラックを発注できない若いラッパーは、YouTubeでたとえば「Chance the Rapper type beat」とか「Travis Scott type beat」みたいに検索して、気に入ったビートを見つけたら、その動画の説明欄に記載されているリンクからBeatStarsやAirbitといった販売サイトで楽曲をダウンロード購入する。大抵は安値なので気軽に買える。それに乗せてラップを発表する。

有名どころで言うと、2019年最大のヒットになったLil Nas Xの「Old Town Road」も、もともとはType Beatにラップを乗せて作られた曲だった。

www.youtube.com

このトラックを作ったのは、19歳のオランダのビートメーカー/プロデューサーYoung Kio。 Nine Inch Nails の「Ghost IV – 34」のバンジョーをサンプリングしたビートを販売サイト「beatstars」で売っていて、それを見つけたLil Nas Xがラップを乗せて作ったのが「Old Town Road」のそもそもの成り立ち。ちなみにYoung Kioは今でもbeatstarsにアカウントを持っている。

www.beatstars.com

Type Beatについて詳しくは、以下の記事も参照。

 

Type Beat(タイプビート)とは?mcknsy.wordpress.com

ototoy.jp

というわけで、話を戻すと「deadman死人」こと当時16歳のトラックメイカーNoah Ryan Murphyは、2017年、どっかから見つけてきた東方アレンジ曲「タイニーリトル・アジアンタム」と、『北斗の拳』の「お前はもう死んでいる」というセリフをサンプリングして、「Lil Boom × anime Type Beat」として販売した。つまりは「Lil Boomがアニメっぽいトラックでラップしてる風のビート」ということ。

そしたら、ラッパーのLil Boom本人がこれを買ってラップを乗せた。それが「Already Dead」という曲。

www.youtube.com

と言っても、別にLil Boomは全然メジャーデビューしてる大物ってわけでもない。アメリカの無名のアニメ好きラッパーで(ちなみにLil Uzi Vertを筆頭に今のアメリカのアフリカ系アメリカンのラッパーにはアニメ好きがかなり増えてきている)、自分の曲とアニメのマッシュアップをInstagramに投稿したりもしている。

www.instagram.com

で、ここからが最大の謎。

このLil Boom「Already Dead」が、なぜかTikTokでバイラルを起こし始めた。「#uwuchallenge」というハッシュタグと共に、ダンスチャレンジのBGMになった。

www.youtube.com

www.youtube.com

TikTokの公式サイトで「#uwuchallenge」を検索しても、かなりの動画が投稿されている。

www.tiktok.com

それこそLil Nas Xの「Old Town Road」がそうだったように、TikTokはグローバルなミーム発火装置になっている。大物プロデューサーの後ろ盾があったわけでもなく大々的なプロモーションもなかった無名の新人をいきなりメインストリームに押し上げ記録的なヒットを成し遂げる原動力を果たしている。そのあたりを辰巳JUNKさんが解説した記事がこれ。

www.cinra.net

リアクション動画シェアに特化したTikTokは、それ自体が「ミームソング量産機」と言える。若者が中心のため斬新でアクティブなダンスやユーモア動画の需要が高く、みんなで同じテーマに挑戦するハッシュタグチャレンジが流行しやすい。そこでBGMに用いられるミームソングがバイラルヒットとなる仕組みが形成されているのだ。

ちなみに僕もこれについての記事を書いています。TikTok Adsの鈴木瑛さんへのインタビュー取材。

www.cinra.net

機械学習のアルゴリズムにより、ユーザーが今最も興味を持っているコンテンツを提供することができます。我々は「ソーシャルグラフからコンテンツグラフへ」という言い方をしています。

ソーシャルグラフというのは従来のSNSのような、友人や親しい間柄のつながりをもとにした関係。コンテンツグラフは、友人関係ではなく、ユーザーがどんなコンテンツを作り、消費してきたかということに基づくレコメンデーションによるつながりです。

ソーシャルグラフからコンテンツグラフに移行すると、クリエイターとしては、面白いコンテンツを投稿すれば、もともとのフォロワー数は関係なく視聴者を獲得することができるようになるんです。ユーザーとしては、楽しいコンテンツが自然に集まってくるようになり、そういうレコメンデーションが我々の大きな強みになっています。

 

上記のように鈴木さんは語っている。重要なのは、TikTokが機械学習のアルゴリズムを用いて「面白いコンテンツを投稿すれば、もともとのフォロワー数は関係なく視聴者を獲得することができる」というレコメンデーションを実現していることで、つまりはすでに多くのフォロワーを持つインフルエンサーでなくてもミームを生むことができる、というプラットフォームになっている。

上記の記事の末尾で、僕はこんなふうに書いた。

TikTokがここ数年で証明しているのは、ひとつのプラットフォームの勃興が新しい形のコミュニケーションを生み、それが今までにないヒットに結びつき、新しいカルチャーを定着させていくという潮流だ。とても興味深いことが起こっていると思う。

そしたら、まさにその直後に、今までにないヒットが生まれつつある瞬間を目撃してしまった。

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これは冒頭の僕のツイートに対しての、「タイニーリトル・アジアンタム」の作曲者shibayanさんのコメント。

マジで意味わかんないことが起こってると思います。完全に新時代。

日々の音色とことば 2019/08/29(Thu) 00:00

「ポップの予感」第五回 リル・ナズ・Xと、ミーガン・ラピノーと、開いた扉の向こう側

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「ここまで来て、自分がやりたいことをしない人生を送ることは嫌だったんだ。それに、これがもっと多くの人にとって、扉を開くことになると思った」

 7月5日。リル・ナズ・Xは、BBCのニュース番組『BBC Breakfast』に出演し、「自分はゲイだ」と告げた。そして、カミングアウトの真意をそう語った。

 

 2019年上半期、ヒットチャートの頂点に君臨し続けたのは彼だった。デビュー曲「Old Town Road」が全米13週連続1位(7月5日時点)と空前の大ヒットを記録し、まさにスターダムを駆け上がったさなかの発言だ。世界中でセンセーションを巻き起こし、子供たちにまで熱狂的な支持を広めつつある一方で、「一発屋」と揶揄するような声も増えてきたタイミングでもある。慣れないはずのテレビ出演の場で、しかし、そんな風に語る彼の表情は、どこか落ち着いて理知的に見えた。

 

 リル・ナズ・Xとは何者か? そして、どのようにして彼はブレイクを果たしたのか。

 彼は現在20歳、アトランタ出身の新鋭ラッパーだ。とは言っても昨年まではまったくの無名な存在だった。現地のライブハウスやクラブで叩き上げのキャリアを積んできたわけでも、大物プロデューサーやラッパーの後ろ盾があってデビューしたわけでもない。自作の曲をネットに発表している、大学をドロップアウトした一人の若者に過ぎなかった。

 

 昨年12月、彼はナイン・インチ・ネイルズの「34 Ghosts IV」をサンプリングした「Old Town Road」を自主レーベルから発表する。

www.youtube.com

 火がついたきっかけはTikTokだった。

 

 最初は彼の周囲から、そして徐々にアメリカの若者たちのあいだでこの曲をBGMにテンガロンハットを被ったカントリー・スタイルに変身する「Yeehaw Challenge」という動画が流行りはじめた。そのバイラルヒットがストリーミングサービスでの再生回数に結びつき、今年3月にヒットチャートに初登場した。

 

 トラップのスタイルを踏襲しつつ、バンジョーのフレーズや、カウボーイをモチーフにしたリリックは、あきらかにカントリーの音楽性をイメージさせるものだった。西部劇の世界を描いたゲーム『Red Dead Redemption2』の映像を用いたミュージックビデオの世界観もそうだろう。そうした背景もあり、この曲は「R&B/ヒップホップ」と「カントリー」の両チャートに登場する。その後、米ビルボードが「カントリー要素が十分ではない」とカントリーチャートから一時除外したことも物議をかもした。

 

 風向きを変えたのが、マイリー・サイラスの父親でもあるベテランカントリー歌手のビリー・レイ・サイラスだった。4月には彼がフィーチャリングに参加した同曲のリミックス・バージョンを発表し、一連の経緯が話題を呼んだこともあって本格的なブレイクに至る。4月9日にはついに全米1位となり「カントリー・ラップ」という新たなジャンルが大々的に喧伝されることとなった。

 

 その後も「Old Town Road」は異例のヒットを続けている。テイラー・スウィフトや、ポスト・マローンや、エド・シーラン&ジャスティン・ビーバーなど、数々の大物アーティストの新曲を押しのけ、連続で全米チャート1位を記録している。その勢いはとどまることなく、おそらく2019年最大のヒット曲となることは確実だろう。

 

 発端はインターネットミームだが、思わず口ずさんでしまうメロディや親しみやすい歌声、ジャンルを越境するセンスといった、彼の音楽家としての才能も間違いなくヒットの背景になっているはずだ。

 

 それを証明したのが6月21日にリリースされた初のEP『7』だ。

 

 

そもそも、今年3月になってからソニー傘下のコロムビア・レコードと契約した彼にとって、まともな環境でレコーディングされた初めての作品でもある。そこにはニルヴァーナの「In Bloom」のメロディを引用した「Panini」や、フィーチャリングにカーディ・Bを迎え印象的なギターリフと共に西部劇のモチーフをふんだんに用いた「Rodeo」など、一曲だけでは伺い知ることのできない彼の作風が刻み込まれていた。

 

 EP『7』を聴いて印象的だったのは、ロックのテイストが予想以上に強いこと。ブリンク 182のトラヴィス・バーカーが制作に参加した「F9mily (You & Me)」も、グランジなギターとエイトビートのドラムに乗せて歌う「Bring U Down」も、かなりストレートなロック・ナンバーだ。

 

 そして、中でも重要な一曲が、「C7osure (You Like)」だった。

 

 彼はLGBTプライドマンスでもある6月の終わりに、「じっくり耳を傾けてほしい」とレインボーマークの絵文字と共にこの曲のミュージックビデオをツイートしている。歌詞では「もう嘘を演じてはいられない」とある。

 

 そのツイートの意図を問われたときに、彼が答えたのが、冒頭の言葉だった。

 

「カントリーやヒップホップのコミュニティは、ゲイを受け入れていない」と彼は続けている。その後沢山の誹謗中傷を受けたことも、それに対してジョークで返していることも語っていた。

 

 繰り返すが、彼は、まだ20歳だ。

 

 リル・ナズ・Xのアーティストのキャリアがこの先どうなるかはわからない。ひょっとしたらワン・ヒット・ワンダーで終わるかもしれない。

 

 それでも、僕は、20歳の彼のことを「幼い」とはまったく思わない。もっと幼い同世代や年上の大人たちは沢山いる。

 

「私たちは、もっとできる。憎しみよりも愛を。しゃべることよりも、耳を傾けることを」

「世界をより良い場所にするのは私たち全員の責任だ」 

 

 7月10日。女子サッカー史上最多となる4度目のワールドカップ優勝を成し遂げたアメリカチームの主将をつとめたミーガン・ラピノー選手は、凱旋パレードと表彰セレモニーの場でそう語った。場所はニューヨーク市庁舎前。場は祝福のムードに包まれていた。

 

「私たちのチームには、いろんな人たちがいる」と彼女は言った。

「ピンクの髪や紫の髪の人も、タトゥーをしている人も、ドレッドヘアも、白人も、黒人も、そのほかの人種の人も。ストレートも、ゲイも」と。ピンクのショートヘアがトレードマークの彼女も、同性愛者であることを公言している。

 

 歓声にわく人たちを見て、僕は、初めてニューヨークを訪れた8年前のことを思い出していた。

shiba710.hateblo.jp

 

 2011年12月。ニューヨーク市庁舎から遠くない場所にあるズコッティ公園は、閑散としていた。

 

 そこは「オキュパイ・ウォールストリート」の舞台だった。その年の9月頃から、金融機関や大企業、富裕層に対する抗議の意志を込めたデモは自然発生的に広まっていった。「我々は99%だ」という声がソーシャルメディアを介して一つのミームとなっていた。

 

しかし、11月には警察によって参加者が排除され数十人が逮捕された。寒空の広がる12月には、もう熱気は終息していた。公園の周囲には黄色いテープが張られ、一体感と高揚感はそこになく、祭りのあとのようなムードが漂っていた。

 

 当時、とある原稿に、僕はこんなことを書いた。

 

「大人というのは、時に抑圧や束縛として機能する社会のルールを『まあそういうもんだよね』と受け止め、次の世代にそれを受け渡す役目を持った人間のことを指す」

 

 ある種の諦念と共に、でも、それが世の真実なのだと思っていた。

 

 しかし、時代は変わった。

 

 もちろん変わってないこともたくさんある。

 

 それでも、今だったら「時に抑圧や束縛として機能する社会のルールを『まあそういうもんだよね』と受け止め、次の世代にそれを受け渡す人間」のことを、僕は「大人」だとは思わない。あえて言葉にするなら、それは「無能」か「無責任」だと思う。

 

「馬を走らせよう、行けるところまで行こう」と、リル・ナズ・Xは歌っている。

 

(初出:タワーレコード40周年サイト「音は世につれ」2019年7月19日 公開)

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日々の音色とことば 2019/07/19(Fri) 15:33

「ポップの予感」第四回 ドレスコーズとヴァンパイア・ウィークエンドの新作から夢想する「美しき調和と安らかな滅び」について

 

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終末は近い。

 

そんな気分は、いつの世でも、どこかしらかにはある。べつのいい方をすれば、人類の歴史は、破滅や悲劇的な結末の話で満ちあふれてきた。

 

 イギリスの科学ジャーナリスト、アローク・ジャーの著した『人類滅亡ハンドブック』には、こんな一説がある。

 

 宗教家や預言者や賢者たちは、繰り返し、さまざまな災厄を予言してきた。空から降り注ぐ炎。すべてを押し流す巨大な波。超越的な力をもって生命を消滅させる邪悪な存在。数々の滅亡の物語が紡がれてきた。

 

 

DOOMSDAY HANDBOOK 人類滅亡ハンドブック

DOOMSDAY HANDBOOK 人類滅亡ハンドブック

  • 作者:Alok Jha
  • 出版社/メーカー: ディスカヴァー・トゥエンティワン
  • 発売日: 2015/01/29
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

 

そのモチーフは決して古代や中世だけの話だけじゃなく、現在のポップカルチャーにも引き継がれている。たとえば今年4月に公開され世界中で記録的な興行収益を実現している映画『アベンジャーズ/エンドゲーム』には、指をパチンと鳴らすだけで全宇宙の生命の半分を消滅させてしまう最凶の敵、サノスが登場する。

 

 しかし、アローク・ジャーは、こんな風に続ける。

 

 こうした宗教による「炎と灰の物語」は、お話としては上出来だし、適度に危機感をあおる役にも立っている。しかし、現実にくらべると、つくられた破滅の物語は独創性という点ですっかり色あせてしまう。科学のレンズを通して見たほうが、終末は、はるかにミステリアスで興味深くなるのだ。

 

 というわけで、今回は、ポップ・ミュージックと滅亡や終末論にまつわる〈予感〉の話。というのも、志磨遼平率いるドレスコーズが今年5月、2年ぶりにリリースした新作アルバム『ジャズ』が、まさにそういったテーマを描いた傑作なのである。

 

 

 アルバムは、ロマ(ジプシー)ミュージックの要素を大きく取り入れ、それを現代的にアップデートした音楽性を軸にした一枚。どことなく哀愁漂う曲調には、「世界最速のジプシー・ブラス・バンド」と呼ばれるファンファーレ・チョカリーアやザック・コンドン率いるベイルートと相通じるテイストもある。

 

 ただ、その中で僕が惹かれてやまないのは、アルバムの中では若干異色なヒップホップ・ナンバー「もろびとほろびて」。XXXテンタシオンやポスト・マローンを思わせるダークでチルなトラックに乗せて、志磨遼平はこんな風に歌う。

 

500年続いた人間至上主義を いっかい おひらきにしよう
核兵器じゃなくて 天変地異じゃなくて
倫理観と道徳が ほろびる理由なんてさ

 

 ここで志磨遼平が歌っていることは、まさにアローク・ジャーが『人類滅亡ハンドブック』で書いたことと通じ合っている。

 

 それだけじゃなくて、たとえばジェームズ・ブライドルが『ニュー・ダーク・エイジ テクノロジーと未来についての10の考察』で書いていること、ユヴァル・ノア・ハラリが『サピエンス全史』や『ホモ・デウス』で書いていること、ティモシー・モートンが『自然なきエコロジー 来たるべき環境哲学に向けて』で書いていること、ケヴィン・ケリーが『テクニウム』で書いていることとも、リンクしている。

 

 

ニュー・ダーク・エイジ テクノロジーと未来についての10の考察

ニュー・ダーク・エイジ テクノロジーと未来についての10の考察

 

 

 

サピエンス全史 上下合本版 文明の構造と人類の幸福

サピエンス全史 上下合本版 文明の構造と人類の幸福

 

 

 

自然なきエコロジー 来たるべき環境哲学に向けて

自然なきエコロジー 来たるべき環境哲学に向けて

 

 

 

テクニウム――テクノロジーはどこへ向かうのか?

テクニウム――テクノロジーはどこへ向かうのか?

 

 

 どういうことか。

 

 ある世代以上の人ならきっと思い当たると思うのだけれど、みんなが「ノストラダムスの大予言」を心のどこかで信じていた時代が、かつてあった。少なくとも僕はそうだった。1999年に恐怖の大王が空から訪れる。最終戦争か、それとも天変地異か、とにかく巨大で圧倒的なカタストロフがいつか僕らの世界を終わらせる。どこかでそんな風に思っていた。

 

 でも、そうはならなかった。原発が爆発しても日常は続き、戦争はテロリズムとして各地に拡散した。そして、ハンス・ロスリングが『ファクトフルネス』で喝破したように、21世紀になって、世界は確実に、少しずつ良くなっていった。飢饉、疫病、戦争といった人類が数千年にわたって向き合ってきた問題は、徐々に解決に向かいつつある。

 

 ただし、その一方で、かつての終末論のような壮大なカタストロフではなく、もっと目に見えない、しかし確実に我々の生活の中に浸透しているテクノロジーがもたらす「幸福な滅び」についての夢想が勃興しつつある。それが『人類滅亡ハンドブック』や『ニュー・ダーク・エイジ』、『ホモ・デウス』や『テクニウム』に通底する一つの世界観となっている。

 

 テクノロジーは確実に人類に快適で便利な生活をもたらしている。21世紀になって訪れた爆発的な情報流通の増大と、ソーシャルメディアの浸透は、人々に新しい倫理観と道徳をもたらしている。「社会的動物」としての人間は否応なしにハイパー・ネットワークの端末となりつつある。

 

 だとしたら、その先には何があるだろうか?

 

 『サピエンス全史』の最終章「超ホモ・サピエンスの時代へ」には、こんな一説がある。

 

 未来のテクノロジーの持つ真の可能性は、乗り物や武器だけではなく、感情や欲望も含めて、ホモ・サピエンスそのものを変えることなのだ。

 

 ユヴァル・ノア・ハラリは、続いて著した『ホモ・デウス』でも、人類が不死と至福と神性を目指すようになるであろうと予測している。

 

 一方で、ジェームズ・ブライドルは『ニュー・ダーク・エイジ』の中で、こう書いている。

 

 今日、ふと気付くと私たちは、巨大な知の倉庫とつながってはいるが、考えることを学べてはいない。それどころか、その反対になっているというのが正しい。世界の蒙を啓こうと意図したことが、実際には世界を暗黒へと導いている。インターネットで入手できる、あり余るほどの情報と多数の世界観は、首尾一貫したリアリティを生み出せず、原理主義者の簡素な語り(ナラティブ)の主張と、陰謀論と、ポスト事実の政治とに引き裂かれている。この矛盾こそが、新たなる暗黒時代という着想の根源だ。

 

 ここで書かれている「新たなる暗黒時代」というモチーフは、ヴァンパイア・ウィークエンドの新作アルバム『ファーザー・オブ・ザ・ブライド』に描かれた視点へのリンクも感じる。

 

 

 『ファーザー・オブ・ザ・ブライド』は、今のアメリカのインディ・シーンを代表するバンドである彼らによる、5年ぶりの新作。そのオーガニックなサウンドと包容力あるメロディに、優しく穏やかなポジティビティを感じる人は多いと思う。

 

 でも、歌っていることは、とても辛辣だ。社会に対しての痛烈な問題意識がその根底にある。

 

 たとえば「ハーモニー・ホール」では、こんな風に歌われる。

 

怒りは声を欲する 声は歌を求める

歌い手たちはハーモニーを奏でる

他に何も聴こえなくなるまで

こんな風に生きたくはない でも死ぬのも嫌だ

 

 この曲を聴いたときに僕が思い出したのが、伊藤計劃の傑作SF『ハーモニー』だった。 

ハーモニー〔新版〕 (ハヤカワ文庫JA)

ハーモニー〔新版〕 (ハヤカワ文庫JA)

  • 作者:伊藤計劃
  • 出版社/メーカー: 早川書房
  • 発売日: 2014/08/08
  • メディア: 文庫
 

 

 『ハーモニー』で描かれるのは、人類が病気を克服した世界だ。そこでは従来の政府に替わるグローバルな統治機構「生府」(ヴァイガメント)のもとで高度な医療福祉社会が築かれている。それを支えるのが「WatchMe」と呼ばれるナノマシンによる体内監視システムと、ネットワークを介してその健康情報が共有される医療システム。そこにおいては、人々の身体は公共のリソースとみなされる。誰もが他人を思いやり、健全で、平和で、摩擦のない、「優しさで息の詰まる」世界がそこにある。

 

 志磨遼平が『ジャズ』で描いた終末論も、伊藤計劃『ハーモニー』の世界観と通じ合っている。《幸せな このままで おだやかな ほろびかた》と歌った「ニューエラ」のように、どこか安らかな調和を感じさせるものだ。

 

 ちなみに、このアルバムは、5月1日、日本における新たな年号「令和」の幕開けとなった日にリリースされている。

 

 日本政府は、外務省を通じて「令和」の意味は英語で「Beautiful Harmony」だと説明している。そのことを知ったときに、僕がまず思い浮かべたのが、ヴァンパイア・ウィークエンドの「ハーモニー・ホール」と伊藤計劃の『ハーモニー』だった。

 

 美しき調和がもたらす、安らかな滅びの世界。そんな〈予感〉を奏でるポップ・ミュージックに、なんだか、惹かれてしまう自分がいる。

 

(初出:タワーレコード40周年サイト「音は世につれ」2019年6月8日 公開)

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日々の音色とことば 2019/06/08(Sat) 00:00

VIVA LA ROCKと、今や「失われつつある文化」かもしれないフェスの速報レポート職人としての挟持のこと

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ゴールデンウィークは5月3日から6日にかけて「VIVA LA ROCK」の4日間、フェスのオフィシャルの速報ライブレポート「FLASH REPORT」を担当していました。

 

フェスはこれで6年目。初年度からずっと書き続けています。正直、これ、体力的なところも含めてすごく大変な仕事ではあるのです。会場を駆けずり回るし、だいたいライヴが終わった15分後~20分後くらいに書き終えないと次のアクトが始まってしまうし。ただ、やり甲斐も、意義もあることだと思ってやってます。

 

とはいえ、「フェスのクイックレポートなんていらない」って声があるのもわかるのよね。というのはなぜかというと、薄っぺらいライブレポートなら、ツイッターの感想を集めてまとめたものを読んだほうが、よっぽど率直で嘘のないものなわけだし。一方で、ナタリーのように、その場にあった事実をきっちり客観的に伝えるウェブメディアもあるわけだし。

 

実際、ROCK IN JAPAN FESTIVALやCOUNTDOWN JAPANやJAPAN JAMといったロッキング・オン主催のフェスでは、初期からずっとやってきたクイックレポートに文章を載せるのをやめちゃったわけだし。「全てのアクトのフォト&セットリストを会場からお届けします」と銘打ってるし。いまやフェスのステージを観て15分後にそのライブレポートを書き上げる職人技なんて「失われつつある文化」なのかもしれない。

 

でもね。僕自身はロッキング・オンで社員だった時代からもう15年以上この仕事をしてるし、今ではなかなか忙しくなったし、おかげさまでいろんな分野の仕事も増えたけど、それなりに愛着も、職人としての誇りもあるつもり。そして「VIVA LA ROCK」の主催側、鹿野さんと『MUSICA』の有泉さんに対しても、この「FLASH REPORT」が、フェスがメディアとして機能するための一翼を担うと考えて、自分にオファーしてくれるんだろうという勝手な気持ちもある。

 

だからこそ、できるだけ表面だけをなぞるようなレポートじゃなく、オフィシャルサイトに掲載される文章であるがゆえに果たさねばならない「そのフェスの物語の中での位置づけ」としての役割と、署名付きの原稿として書くものであるがゆえの「自分が何を感じて何を受け取ったか」という主観を、限られた時間の中で可能な限り形にするようにしています。

 

そして、ビバラのフェスのレポートは、とりあえずフェスが続くかぎりアーカイブされるという信頼を運営サイドに抱いてるし、実は書いてるライター陣もずっと同じ面々なので、「速報」が積み重なることで「歴史」になると思ってやってます。

 

ベンジャミン・ブラッドリーの言う「ニュースは歴史の最初の草稿である」というジャーナリズム精神を、そこまで大それたことじゃないかもしれないけれど、でも心のどこかに挟持としてちゃんと持って、ステージに立つアーティストたちと向き合ってるつもりです。

 

というわけで、4日間で書いた原稿のいくつかの抜粋を。

 

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日々の音色とことば 2019/05/09(Thu) 11:10

「ポップの予感」第三回 我々は〝ビーチェラ以降〟の新しい歴史を生きている

 

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「花冠を用意するより、自分たちの文化を持って行く方が大切だった」

 

 ビヨンセ・ノウルズはそう語った。

 

 2018年のコーチェラ・フェスティバルにヘッドライナーとして出演したビヨンセ。先日にはその模様を収録しメイキングを掘り下げた映像作品『ホームカミング』が完成し、Netflixで配信がスタートした。

 

www.youtube.com

 

 そのステージは、間違いなく歴史的な一幕だった。21世紀のポップカルチャーにとって、黒人文化にとって、大きなターニングポイントになる瞬間だった。

 

 そしてそこには、これからの社会や価値観全体に変化をもたらす一つの“予感”があったように、僕は感じている。彼女が代弁者となった黒人や女性だけでなく、すべてのマイノリティがポップカルチャーを通して自分に誇りを感じることのできる可能性の新しい回路が開いた瞬間だったと思う。

 

 それは、ピラミッド型のセットに100人以上のマーチングバンドとダンサーを従えた圧倒的なステージだった。誰もが目を奪われる壮麗なパフォーマンスだった。そして、そこにあったのは歴史を受け継ぎ未来にバトンを渡すという明確な意志だった。HBCU(歴史的黒人大学)の伝統と意匠をモチーフに、ブラスバンドのスタイルで再構築した数々の楽曲が披露された。その迫力には、ちょっと神々しさすら感じるくらいだった。

 

 僕が特に感じ入ったのは、ステージ全体に満ちていた歓喜と自由のムードだった。披露されたのは、一つのミスもない完璧なパフォーマンス。ドキュメンタリーを見れば数ヶ月にわたる徹底した練習とリハーサルの日々があり、その全てをビヨンセ自身が指揮してきたこともわかる。でも、そこにあったのは、「一糸乱れぬ」という言葉がぴったりくるような、ビシッと統率された上意下達の緊迫感とは、ちょっと違っていた。軍隊由来の「個を殺し組織に尽くす」美学ではなく、メンバーそれぞれが音楽の喜びに身を委ね「自分の踊りを踊る」HBCUのマーチングバンドの躍動感が基軸にあった。それが美しさと強さと団結感につながっていた。

 

 だからこそ、あのパフォーマンスには「連帯」の新たなスタンダードが示されていた、と僕は思う。「連帯」なんて難しい言葉を使わなくても、「みんなが一つになる」時の格好いいやり方の基準が、あれを観れば直感的にわかる。たとえば日本にだって京都橘高校のブラスバンド部があって、あの自由闊達な演奏が評判を集めてるわけだから、きっと本質的な部分は変わらないと僕は思う。おそらく10年後、20年後に、きっと何度も振り返られることになるだろう。2018年のコーチェラには、ビヨンセがいた。

 

 そして『ホームカミング』を観ると、HBCUは単なるモチーフとして用いられたのではなく、ビヨンセ自身が、歴史と教育をとても強く意識していたことがわかる。

 

 ドキュメンタリーの序盤で、ビヨンセは父親がHBCU出身であること、自分自身もそこに憧れ通おうと思っていたことを語っている。しかし10代でデビューした彼女にはそれは叶わず、かわりにデスティニーズ・チャイルドが、彼女にとっての「大学」になった、と。

 

 そして、フェスの出演後、ビヨンセは「ホームカミング奨学金プログラム」として、黒人に高等教育の機会を与えるために作られた大学に総額10万ドルを寄付することを発表した。

 

「教育は仕事だけでなく人生を教えよ」

 

 ドキュメンタリーの中では、公民権運動の指導者だったW・E・B・デュボイスが1888年に残した言葉が引用されている。130年前に放たれたメッセージを受け止め、そのバトンを次代に渡したのが、「ビーチェラ」と称されたビヨンセのコーチェラ出演だった。 

 

 そして、4月に開催された今年のコーチェラに垣間見えたのも、明らかに“ビーチェラ以降”の時代状況だった。

 

 ビヨンセがあれだけの歴史的なパフォーマンスを見せたことで、トップアーティストの野心と意欲に火がついたのだと思う。今のコーチェラは、単なるセレブが集う野外フェスというよりも、もはやアーティストたちが新たな音楽表現を世界に問う場所になっている。

 

 その象徴が、徹底したカメラワークでライブ配信の映像美を追求し、自身とリアーナが主演した映画『Guava Island』もライブにあわせたタイミングで公開することで、映画と音楽をクロスオーバーさせた新たな表現領域を開拓したチャイルディッシュ・ガンビーノだった。ジャスティン・ビーバーを筆頭に数々のサプライズゲストを招きポップスターとしての存在感を示したアリアナ・グランデも、今の時代のロックバンドのあり方を見せたテイム・インパラも、かなりの野心が感じられた。

 

 僕が最も心を奪われたのは、若干17歳にして、すでに世界中を虜にしつつあるビリー・アイリッシュのステージ。彼女の音楽には根底のところに絶望と拒絶があって、だからこそ小さな声でも胸の底の方を震わせるようなパワーがあって、それが世界中に共振を巻き起こしている。だからこそ、ステージ上の彼女の奔放な振る舞いや、数万人が叫び大合唱になっている一体感に、新しいスターダムのあり方を感じた。

 

 また、初のK-POPグループの出演となったBLACKPINKも、とてもモニュメンタルなステージだったと思う。カラフルなパーティー空間を作り上げたJ.バルヴィンも含め、アジアや南米のアーティストが大きな熱狂を作り出し、話題を呼んだのも、今年のコーチェラの特徴だった。もちろん、真鍋大度らライゾマティクスの協力のもとテクノロジーとダンスが高次元で融合したステージ演出を展開したPerfumeも、きっとJ-POPの歴史に残る一幕になったはずだ。

 

 いまや、コーチェラはスーパーボウルのハーフタイムショーやグラミー賞授賞式に並ぶ「グローバルなポップミュージックの震源地」になった。

 

 9年前からいち早くYouTubeの生配信に取り組み、来場者だけでなく世界中の音楽ファンがネットを通してライブを同時に体験しSNSで興奮を共有するようになったこと。インスタグラムの普及と共にファッションのトレンド発信地としてのイメージを獲得していったこと。音楽シーンの変化を反映しロックだけでなくR&Bやヒップホップも含む幅広いジャンルのアーティストが出演するようになったこと。4月という開催時期からその年のシーンを占うラインナップが集うようになったこと。様々な要因もあり、コーチェラは「世界で最も注目を集める野外音楽フェス」としてのブランドを確立していく。

 

 そうして2010年代のディケイドに生まれた新しいポップカルチャー、新しいテクノロジー、新しい社会を象徴する場所がコーチェラだった。そこで自身のキャリアと、ここ10年の時代のうねりの、一つの集大成のようなステージを見せたのが、2018年のビヨンセだった。

 

我々は“ビーチェラ以降”の新しい歴史を生きている。そういう実感が、改めてあった。

 

(初出:タワーレコード40周年サイト「音は世につれ」2019年5月8日 公開)

 

tr40.jp

日々の音色とことば 2019/05/08(Wed) 00:00

1998年という「音楽シーンの特異点」、そして、その時にhideがいた場所

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5月2日は、hideの21回目の命日。

毎年開催されてきたhideを偲ぶ会のことは、ニュースにもなっていた。

www.asahi.com

 

僕自身は、リアルタイムでリスナーではあったものの、熱心に追いかけてきたファンだったというわけではない。

 

それでも、ここのところ、平成の日本の音楽のヒストリー、特に00年代以前には強くあった「洋楽と邦楽の壁」という問題について考えているときに、hideの存在がとても重要だったんだということを改めて考える機会があった。

 

そして、hideが残した「ピンク スパイダー」という一曲が、いろんな意味で時代の先を行っていたんだ、と考えるきっかけがあった。

 

というのも、最近、『オルタナティブロックの社会学』を著した南田勝也さんが編著に携わった『私たちは洋楽とどう向き合ってきたのか――日本ポピュラー音楽の洋楽受容史』という本を読んだから。

 

 

私たちは洋楽とどう向き合ってきたのか――日本ポピュラー音楽の洋楽受容史

私たちは洋楽とどう向き合ってきたのか――日本ポピュラー音楽の洋楽受容史

  • 作者: 南田勝也,?橋聡太,大和田俊之,木島由晶,安田昌弘,永井純一,日高良祐,土橋臣吾
  • 出版社/メーカー: 花伝社
  • 発売日: 2019/03/20
  • メディア: 単行本
  • この商品を含むブログを見る
 

 

とても興味深く、おもしろい一冊だった。

で、この本の序章には「洋楽コンプレックス」というキーワードがある。

 

ここで洋楽コンプレックスを取り上げているのは――誤解を恐れずに言えば――それが「甘美な」経験だったからである。到達目標とするアーティストの音楽性や技巧面だけでなく、思想や社会性までも西洋の音楽側に置き、ほんものの証や音楽の崇高さは「いま・ここ」にいては得られないと駆り立てられる気持ち。日本での人気に安住せず、物まねを脱してオリジナリティを捻出し、世界にエクスポートしようという気概。あるいは日本の音楽のクオリティやレベルに悲観しているがゆえに、西洋に匹敵すると判断できる日本人ミュージシャンを必死で探し出そうとする音楽ファンの試み。これらの感覚は、単に劣等感ではなく、差異化・卓越化の源泉となり、競争的状況を生み、音楽への没入へと誘うものであった。日本が音楽消費大国であるのは、つねに一歩先へ行きたいとするそのような衝動が駆動しつづけてきた所為である。

 

ここが、とても膝を打ったポイントだった。

コンプレックスというのは単なる劣等感ではない。むしろ憧れとないまぜになったその感情があったからこそ日本の豊かな音楽カルチャーが育ってきたのだ、ということだろう。

戦前のジャズやビートルズ初来日など、様々な時代における「洋楽と邦楽の関係性」が語られるこの本だけれど、個人的にもリアルタイムの記憶と共に最も面白く読んだのが、『ロックフェスの社会学』の永井純一さんが書いた「フジロック、洋邦の対峙」という章だった。そこにはこんな記述がある。

 

日本初の「本格的」な野外ロックフェスティバルとしてのフジロックの功績のひとつに、音楽ジャンルならびに洋楽/邦楽の垣根をなくしたことがしばしば挙げられる。
(中略)
フジロック以前にも洋楽アーティストと邦楽アーティストが共演するイベントはあったが、それらにおける日本のバンドは前座というニュアンスが強く、洋楽/邦楽という差異は強く機能していた。

 


この章では、1997年の嵐のフジロックでイエロー・モンキーが立ち向かい大きな挫折となった”壁”について、そして翌年の1998年に豊洲で開催された2度目のフジロックでミッシェル・ガン・エレファントやブランキー・ジェット・シティが生み出した熱狂について書かれている。そこに忌野清志郎がいたことの意味について書かれている。

 

振り返ると、1998年というのは単に「CDが一番売れていた」だけでなく、日本の音楽シーンがとても豊かだった幸福な時代なのではないかと思う。とりわけフェスという空間や、そこが象徴する音楽メディアやリスナーたちの文化において「邦楽ファン」と「洋楽ファン」が最も幸福に溶け合っていた時代なんじゃないかと思う。

 

(もちろん人によっては異論はあるだろう。しかし00年代以降、両者のクラスタはわかれていく。同書にはその後2000年代に入って開催されたROCK IN JAPAN FESTIVALに出演したTHE JON SPENCER BLUES EXPLOSIONが直面した”断絶”についても書かれている。僕もそれを当事者として目の当たりにしている)

 

もちろん、hide自身はフジロックには出演していない。

でも、「音楽ジャンルならびに洋楽/邦楽の垣根をなくす」という信念を、1998年において、最も強く体現していたのが彼だったと思う。

1997年の大晦日にX JAPANが解散し、その興奮もさめやらぬ元日に「hide with Spread Beaver」名義でのソロ活動を始動。その一方で、Zilchという3人組のバンドを同時並行で進めていた。メンバーはhide以外には、元Killing JokeのPaul Raven、Sex Pistolsのサポートも務めた元PROFESSIONALSのRay McVeigh。楽曲は全編ほぼ英語詞で、サウンドは当時のUSのロックシーンの主流だったインダストリアル・ロックの方向性。特に通じ合っていたのが、マリリン・マンソンやナイン・インチ・ネイルズだった。

1999年夏にはサマソニの前進イベントとなった「beautiful monsters」が開催されたのだけれど、そこではもし生きていれば、hideとマリリン・マンソンとの共演も予定されていたという。

 

あと、もうひとつ。

 

当時のインタビューを読み返すと、hideは「ピンク スパイダー」について、曲のテーマは”WEB=蜘蛛の巣”だということ、そのモチーフが当時ハマっていたインターネットだったということを語っている。

 

そう考えると、あの曲は誰よりも早い(livetuneの「Tell Your World」より12年早い)インターネット・アンセムだったのだとも思う。

 

1998年は、日本の音楽ヒストリーの「特異点」だった。そこでhideが成し遂げようとしていたことが、彼が死ぬことなく成就していたら、その後の歴史はどう変わっただろう。そんなことをたまに考える。

 

――――――

というわけで、最後に告知。

 

二つのトークイベントに登壇します。一つは、5月10日、南田勝也さん、永井純一さんとの、B&Bのトークイベントです。

 

『私たちは洋楽とどう向き合ってきたのか』(花伝社)刊行記念

テーマは「最近、洋楽って聴いてますか?」

2019年 5月10日(金)
時間 _ 20:00~22:00 (19:30開場)
場所 _ 本屋B&B
東京都世田谷区北沢2-5-2 ビッグベンB1F
入場料 _ ■前売1,500yen + 1 drink
■当日店頭2,000yen + 1 drink

 

bookandbeer.com

 

チケットはこちら。

 

passmarket.yahoo.co.jp

 

もうひとつは、イントロマエストロ藤田太郎さんとのトークイベント。テーマは「1998年に何が起こったか?」

 

「8cmシングルナイト Vol.3 ~1998年に何が起こったか~」

2019年 5月14日(火)
OPEN 18:30 / START 19:30
前売(web予約)¥2,000/当日¥2,300(+要1オーダー)
【ナビゲーター】
藤田太郎(イントロマエストロ)
柴 那典(音楽ジャーナリスト)

 

www.loft-prj.co.jp

 

チケットはこちら。

 

www.loft-prj.co.jp

 

二つのトークイベントはお相手もテーマも全然違うのだけれど、実は僕の中で喋ろうと思っていることは一続きのモチーフだったりするのです。そういうことを考えていて、そのキーパーソンの一人がhideだった、ということなのでした。

 

というわけで、もし興味そそられた方がいらっしゃったら、ぜひお越しください。

日々の音色とことば 2019/05/03(Fri) 00:16

「ポップの予感」第二回  音楽は予言だと、僕はいつも思っている。

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 とても示唆的な二つのトークセッションのモデレーターをつとめさせていただく経験があった。

 

 一つは、2月27日に幕張メッセで開催された「ライブ・エンターテイメントEXPO」内のセミナー。登壇したのは、亀田誠治さんといしわたり淳治さん。タイトルは「ヒットメーカー対談! 音楽シーンの現在、そして未来」というものだった。

 

 そしてもう一つは、3月16日に渋谷WWWと渋谷WWWXで行われたライブイベント「Alternative Tokyo」のトークショー。登壇したのは、その日にライブアクトとしても出演した近田春夫さんと曽我部恵一さん。こちらのタイトルは「ポピュラーミュージックの行方」というものだ。

 

 主催者もイベントの趣旨も全く異なるし、テーマ設定には僕は関与していなかったから、タイトルが似通ったものになったのは全くの偶然だろう。

 

 でも、そこには、単なる偶然だけじゃない巡り合わせのようなものがあるようにも思う。2019年の今、「○○の未来」とか「○○の行方」といった声を求める時代の空気というものがどこかに存在している気がする。

 

 その上で、とても面白かったのは、二つのトークセッションが、場所も客層もコンセプトも対照的なイベントで行われた、ということ。

 

 亀田誠治さん、いしわたり淳治さんが登壇した「ライブ・エンターテイメントEXPO」というのは、いわゆる業界向けのコンベンションだ。会場の幕張メッセには、ライブやコンサート、スポーツイベントなどの開催に必要な演出機材や各種サービスなどが出展され、商談ブースも用意されていた。いわゆる見本市のイベントで、セミナーの来場者にはレーベルやプロダクションなど音楽業界の関係者が多かった。

 

 一方、近田春夫さんと曽我部恵一さんが登壇した「Alternative Tokyo」は、その名の通り「オルタナティブ」をコンセプトに掲げたライブイベントだ。「商業的な音楽や方法論的な流行音楽とは一線を引き、時代の流れに捕らわれない普遍的な音楽を中心に、アート展示やトークセッション等を通じてそれぞれのコンテンツを紹介していく」というのがイベントのコンセプト。出演陣には、蓮沼執太フィル、トリプルファイヤー、折坂悠太、イ・ラン、カネコアヤノ、青葉市子、SONGBOOK PROJECTなどのメンツが並ぶ。近田春夫さんは「近田春夫+DJ OMB」名義で、曽我部恵一さんはこの日が初披露となる新プロジェクト「曽我部恵一 抱擁家族」名義での出演だ。こちらのラインナップには、いわゆるメインストリームとは違う、しかし独自の美学とポップセンスをもった面々がフィーチャーされている。会場にはメディアアーティストの市原えつこさんによる前衛的なアート作品も展示されていた。

 

 そういうこともあって、場のムードも聴衆の顔ぶれも全く異なっていたのだけれど、それでも二つのトークセッションは、必然的に共通したテーマを踏まえたものになった。それは「ストリーミングが前提となった状況において、音楽の作り手のスタンスはどう変わっていくのか」ということ。

 

 ストリーミングの普及による市場の拡大は、グローバルな音楽シーンにおいては、もはや既成事実となりつつある。ストリーミングからの収益が7割を超えたアメリカの音楽市場はここ数年続けて大幅なプラス成長を達成。90年代末から右肩下がりで減少を続けてきた世界全体の音楽市場も、2015年を境に回復期に入っている。その動きに遅れていた日本でも、昨年にはストリーミングによる売り上げがダウンロードを上回り、普及フェーズに入りつつある。

 

 そして、こうした状況においては、ヒットの基準は「売れた枚数」より「聴かれた回数」になる。複合型チャートであるアメリカのビルボードではストリーミングサービスの再生回数がランキングに大きく反映されるようになり、日本でも昨年12月からオリコンランキングがストリーミングサービスでの再生回数を織り込んだ合算チャートをスタートした。

 

 では、そのことによって、音楽はどう変わったのか。

 

 亀田誠一さんといしわたり淳治さんの指摘で印象的だったのは、「イントロ抜きでいきなり本題に入る」タイプの曲が増えている、ということだった。

 

 お二方には事前に「音楽シーンを象徴する曲」としてここ最近にリリースされた楽曲からいくつかピックアップし、その魅力を解説していただくというお願いをしていた。そこで亀田さんに挙げていただいたCHAI「アイム・ミー」、King Gnu「Prayer X」、米津玄師「Lemon」が、まさにそういう曲だった。いわゆる「サビ始まり」の曲構成とも違い、楽曲全体の核心を担うようなメッセージを印象的なメロディと共に冒頭から歌い上げるタイプの曲だ。

 

 また、いしわたり淳治さんの発言で印象的だったのは、「音楽から流行語が生まれてほしい」という言葉。挙げていただいた中では、ヤバイTシャツ屋さん「かわE」、DA PUMP「U.S.A」が、まさにそういう力を持った楽曲だった。

 

 また、二人の指摘で共通していたのが、コライト(共作)の重要性だ。日本ではアーティストによる自作自演が重視される傾向がある一方、海外では複数人が楽曲を制作することが当たり前のように行われている。「楽曲至上主義」の浸透が音楽シーンの未来を変えていくのではないか、という提言はとても意味のあるものだったと思う。

 

 一方、近田春夫さんと曽我部恵一さんのトークは台本も流れも決めないフリースタイルの形式。話題は、料理と音楽について、日本語の符割りとBPMについて、音楽に影響を与えた一番新しいテクノロジーの発明について(曽我部さんはオートチューン、近田さんはサイドチェイン・コンプと語っていた)など様々に広がったのだが、話はやはり「ストリーミングサービスの普及によって作り手のスタンスはどう変わったか」というテーマになった。印象的だったのは二人とも「多作」をキーワードとして挙げたこと

 

 振り返れば、近田春夫さんは昨年10月に38年ぶりのアルバム『超冗談だから』をリリースし、その発売からわずか49日後にOMBとのハモンドオルガン+テクノ・ハウスのユニットLUNASUNによるアルバム『Organ Heaven』をリリースしている。曽我部恵一さんのほうも、昨年4月にサニーデイ・サービスのアルバム『the CITY』を、12月には曽我部恵一名義の全曲ラップアルバム『ヘブン』をリリース。二人ともかなりのハイペースで作品を世に放ち、多岐にわたる形態でリリースを重ねている。とは言っても、その様子には切迫感や急いでいるような感じはなく、シンプルに「やりたいことが沢山あって、それを自由にアウトプットできるようになった」という風通しのよいムードがあるのが、とても印象的だった。

 

 音楽シーンは、過渡期の状況にある。

 

 そして、平成から次の年号へと移り変わろうとする今、日本の社会全体にも、大きな変化の機運がある。

 

 僕が普段からインタビュー取材で会っているアーティストたちも、口を揃えて言う。価値観は驚くべき速度で変わっている。ほんの少し前までにはオーケーだったことが、今では許されなくなってきている。逆に、昔だったら声を上げようとしても押し殺さざるを得なかった思いが、少しずつ、認められるようになってきている。

 

 音楽は予言だと、僕はいつも思っている。

 アーティストや作曲家や作詞家たちは、時代の風向きにアンテナを張り、自分の内側にある感覚を研ぎ澄まし、どんな歌が求められ、どんな歌が遠くまで響いていくのかを手探りで追い求めている。

 

 それに対し、ヒットという現象は、いつも事後的な形として現れる。もっともらしい後付けの説明は誰にでもできるが、結局のところ、それは結果論にすぎない。

 

 だからこそ、亀田誠一さん、いしわたり淳治さん、近田春夫さん、曽我部恵一さんといった第一線の作り手の方々に話を聞けたのは、とても刺激的な体験だった。

 

(初出:タワーレコード40周年サイト「音は世につれ」2019年4月4日 公開)

tr40.jp

日々の音色とことば 2019/04/04(Thu) 00:00

望月優大『ふたつの日本』と、移民家族の歌としてのキリンジ「エイリアンズ」

ふたつの日本 「移民国家」の建前と現実 (講談社現代新書)


■これは「彼ら」の話ではなくて、「私たち」の話

望月優大さんの新刊『ふたつの日本 「移民国家」の建前と現実』を読んだ。

 

いろんなことを考えさせられる、とても興味深い本だった。

 

本の内容は、タイトルのとおり、「いわゆる移民政策はとらない」というスタンスを取り続ける政府の“建前”と、労働力を求める企業の“現実”によって引き裂かれ、在留外国人たちが複雑な立場に置かれ続けている日本という国の構造を精緻にルポルタージュしたもの。本文にはこんな風に書かれている。

 

日本で暮らす外国人は増えている。人工の2%といえば先んじる欧米などの移民国家に比べてまだまだ少ないが、確実にその数も、割合も増え続けている。そして、政府が急いで「特定技能」の在留資格新設へと走ったことからもわかるように、今後もしばらくその趨勢は変わらないだろう。「日本人」は減っていく。そして「外国人」は増えていくのだ。自然にそうなったのではない。「日本人」がそうする道を選んだのである。

 

本の中ではグラフや数字がふんだんに用いられ、在留外国人たちの出身国や、立場や、その変化が、わかりやすく綴られている。

 

そのうえで、僕が感銘を受けたのは、本の前半に書かれたこの一節。

 

このあと出身国や在留資格など様々なカテゴリーごとに整理した数字の話が続くが、そこでカウントされる「1」というのはあくまで一人の生身の人間のことである。そのことを念頭に置きながら記述することを試みたし、ぜひ一人ひとりを想像しながら読んでいただけたら嬉しい。 

 

望月優大さんはウェブメディア「ニッポン複雑紀行」の編集長をつとめ、実際に、日本で暮らす様々な立場の在留外国人、つまり「一人の生身の人間」の話を聞いて記事にまとめている。だから、この一節に、とても強い説得力がある。

 

www.refugee.or.jp


そして読み終わって痛感するのは、最後の一文に書かれている通り、これは「彼ら」の話ではなくて、「私たち」の話である、ということ。

 

つまり、自分の生活の中で「出自の異なる人間」との交わりが増えていくことがわかっているこの現状に対して、さあ、どう生きていきますか?という問いがつきつけられている、ということだ。

 

で、もうひとつ思うのは、もし自分自身が「私たち」ではなく「彼ら」だったら、という想像力の問題について。

 

僕自身は日本で生まれて日本で暮らしている。だから移民という現実に当事者として向き合う機会は少ない。

 

だけど、もうちょっと広い意味での疎外感、英語で言う「alienation」の感覚には、すごく身に覚えがある。

 

たとえば、カミラ・カベロの「Real Friends」という曲がある。カミラ・カベロはキューバ出身、ラテン系のルーツを持つ現在21歳の女性シンガー。彼女はまさに移民の当事者だ。去年のグラミー賞でも「希望以外詰まっていない空っぽのポケットで私をこの国に連れてきてくれました」と、キューバとメキシコにルーツを持つ両親のことを語る感動的なスピーチを披露した。ヒット曲「Havana」は、「私の心の半分はハバナにある」と、親の故郷を思う曲。

 

www.youtube.com

 

そして「Real Friends」は、そのタイトルの通り「本当の友達がほしい」と月に語りかける、とてもエモーショナルな曲だ。

 

www.youtube.com

 

I'm just lookin' for some real friends
(本当の友達を探してる)
Gotta get up out of this town
(たぶん、この街を出なくちゃいけない)
I stay up, talkin' to the moon
(夜遅くまで起きて、月と話してる)
Been feelin' so alone in every crowded room
(みんながいるのに、とても孤独)


僕はキューバに行ったことはないし、アメリカでラテン系の移民として暮らすというのがどういう現状なのかは、わからない。でも、想像力を働かせることはできる。彼女が歌う「みんながいるのに、とても孤独」という感情を、歌を通して受け取ることができる。僕はそういうところにグッとくる。

 

『ふたつの日本』の本の冒頭には、ジェイムズ・P・ホーガン『星を継ぐもの』と、ゲーテ『ファウスト』と、魯迅『故郷』の引用がある。そこにグッとくるのも、まったく同じ理由だ。

 

放浪の生涯を通じて、彼はかつてただの一度もある特定の場所を自分の故郷として意識したことはなかった。というより、彼にとっては特別な場所などありはせず、どこへ行っても、そこが故郷と思えばそれで満足だったのだ。ところが、月面に立って地球を見た途端、ハントは生まれてはじめて、故郷を遠く離れていることを強く意識した。
ジェイムズ・P・ホーガン『星を継ぐもの』(池央耿訳)

 

これは「彼ら」の話ではなくて、「私たち」の話である。

 

そのことには、もう一つの含意がある。ひょっとしたら「疎外されている」のは、「彼ら」だけじゃなく「私たち」も一緒なのではないか、という問いだ。外国人労働者が増えると同時に非正規雇用が増えたのが、平成という時代の30年間の変化だ。

 

社会が個人を「取り替え可能」なパーツとして扱う潮流が前面化している。そんな中で、自分自身は運良く「日本国籍を持った日本生まれの人間」のコミュニティと、そういう人たちにとって都合よくデザインされた社会システムの中にいるから気付かないだけで、ひょっとしたら、同じ変化の波にさらされているのではないか、と。

 

そういうことまで考えさせられる一冊だった。

 

■視点が変わると、見えるものがガラリと変わる

 

そして、ここから本題。

 

この本を読みながら、ふと聴いたキリンジ「エイリアンズ」。とても好きな曲なんだけれど、『ふたつの日本』という本と、そこから感じ取ることのできるエイリアネーションの感覚をもとに聴くと、歌詞にまったく違う意味を読み解くことができるのだ。正直、これがこの本を読んだ最も大きな収穫だった。


キリンジの「エイリアンズ」は、2000年のアルバム『3』に収録された彼らの代表曲。リリースされた当初こそ大ヒットしたわけではなかったが、秦基博や、のんや、沢山の人にカバーされ、歌い継がれている。

 

www.youtube.com


ここに書かれているのは、なんてことのない郊外や地方都市の風景。どこにでもある、何もない場所。二人の出身地である埼玉県が、そのイメージの源泉になっているという。

 

以前NHKの番組『ソングライターズ』に出演したときに、作詞した堀込泰行は「日本の街並みの大半は絵にならないけれど、それを写真のようにフォーカスをあてて絵にすることで、ドラマチックになると思って書いた」というようなことを語っている。

 

で、この「エイリアンズ」。たぶん、恋人同士のラブソングだと捉える人がほとんどだと思う。僕もそう思っていた。

 

だけど、『ふたつの日本』を読んで、これを「移民家族の歌」という視点から捉えると、見えるものがガラリと変わる。

 

「エイリアンズ」の主人公の「僕」を、日本にやってきて郊外や地方都市に暮らす外国人労働者に見立てると、歌の意味がまるで変わってくる。どことなく洒落た、キザにすら感じられる言い回しが、すべて反転して、とても切実で感傷的な内容になる。

 

遥か空に旅客機(ボーイング) 音もなく
公団の屋根の上 どこへ行く
誰かの不機嫌も 寝静まる夜さ
バイパスの澄んだ空気と 僕の町 

 

たとえば、この歌い出し。公団の屋根の上、見上げた夜空に旅客機の光が見えるという描写。旅客機に「どこへ行く」と問いかけるのは、それが自分をこの場所に連れてきた乗り物だからだ。「誰かの不機嫌も寝静まる夜さ」というフレーズも、主人公の「僕」が、日常的に「誰かの不機嫌」に相対してきたことを思わせる。

 

泣かないでくれ ダーリン ほら 月明かりが
長い夜に寝つけない二人の頬を撫でて

笑っておくれ ダーリン ほら 素晴らしい夜に
僕の短所をジョークにしても眉をひそめないで

 

Bメロで歌われるこのフレーズも、「ダーリン」というのを主人公の「僕」の恋人ではなく、その娘や息子と捉えると、歌の情景がまるで違ってくる。家族の歌になる。

 

「泣かないでくれダーリン」というのは、ひょっとしたら夜泣きの止まない幼い赤子を連れ、壁の薄い公団のアパートを抜け出て、近所迷惑にならなさそうな人気のないバイパスを歩いているときの情景かもしれない。「僕の短所をジョークにしても眉をひそめないで」というのは、ひょっとしたら、ある種のエスニックジョークのことなのかもしれない。

 

サビではこう歌われる。

 

まるで僕らはエイリアンズ 禁断の実 ほおばっては
月の裏を夢みて キミが好きだよ エイリアン
この星のこの僻地で
魔法をかけてみせるさ いいかい

そうさ僕らはエイリアンズ 街灯に沿って歩けば
ごらん 新世界のようさ キミが好きだよ エイリアン
無いものねだりもキスで 魔法のように解けるさ いつか

 

そうすると、ここで歌われている「キミ」も、恋人ではなく、主人公の「僕」の家族ということになる。この視点で読み解くと、「エイリアンズ」という言葉は、一番では「異星人」という比喩の意味で、そして二番では「外国人」「市民権をもたない人」という言葉そのままの意味で歌われている、と読み解ける。

 

こうして「エイリアンズ」という曲を「故郷を離れ日本の郊外や地方都市で暮らす異邦人の家族の歌」と捉えると、「この星のこの僻地で 魔法をかけてみせるさ」とか「街灯に沿って歩けば ごらん 新世界のようさ」といったフレーズが、ロマンティックに洒落たレトリックではなく、ものすごく地に足の着いたリアリティをもって響いてくる。


曲の最後には、こんなフレーズが歌われる。

 

踊ろうよ さぁ ダーリン ラストダンスを
暗いニュースが日の出とともに町に降る前に


そして『ふたつの日本』には、こんな記述がある。

 

これまで数多くの移民を受け入れてきた欧米の先進諸国でこそ、経済停滞や人々の不安を移民の存在へと投影することで、デモクラシーの中で自らへの支持を集めようとする政治勢力が一つ、また一つと台頭を始めている。

アメリカでも、イギリスでも、フランス、ドイツ、イタリア、ハンガリー、ポーランド、オーストリアでも、欧米の先進諸国で台頭するほぼすべての「ポピュリスト」たちが「移民」を自らの主要な論点としてきた。

「移民」の排除はもはやニッチではないのだ。排外主義的な言説はいまや「選挙で勝てる」一つの王道的な戦術となり始めている。

(中略)

「移民の時代」においてはデモクラシーが包摂ではなく排除の手段となりつつある。そして、私が本書を書く理由は、日本もすでに「移民の時代」に突入しつつあることを認識し、デモクラシーを排除の手段としない道を考えるためだ。この社会の中で、自分を社会の一部と感じられない人を取り残さないためでもある。前からいた人も、新しく来た人もである。 

 

4月1日には、改正入管法が施行された。

 

2019年の今、「暗いニュースが日の出とともに町に降る前に」という一節に、約20年前にこの曲が書かれたときにはきっと想定もしていなかっただろう含意を読み解ける時代になってしまった。

 

そのことを踏まえて考えると、「エイリアンズ」という曲に、とても痛切な叙情を“発見”することができる。そして「無いものねだりもキスで 魔法のように解けるさ いつか」というサビのフレーズに、とても大きな希望を見出すことができる。

 

もちろん、これは一つの深読みにすぎない。でも、沢山の歌い手に歌い継がれる射程の広いポップソングは、こんな風に、いろんな角度から語り継がれてもいいんじゃないかな、とも思う。

日々の音色とことば 2019/04/01(Mon) 07:00

「ポップの予感」 第一回 グラミー賞から見えてくるアメリカの未来

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「壁ではなく橋を作ろう」

 

鮮やかな黄色のドレスを身にまといカミラ・カベロが妖艶に舞いながら「ハヴァナ」を歌った第61回グラミー賞のオープニング。ゲストに参加したリッキー・マーティンが隣で腰を振って場を盛り上げ、さらにその横でベンチに腰掛け新聞を広げて読みながら登場したJ・バルヴィンの、その新聞の一面に書かれていたのが、この言葉だった。

 

ビルド・ブリッジズ・ノット・ウォールズ。

 

 もちろん、これは、トランプ政権が国家非常事態宣言を出してまでメキシコとの国境に「壁」を建設する計画を進めていることを踏まえた言葉だろう。カミラ・カベロ、リッキー・マーティン、J.バルヴィンというラテン系のシンガー3人が集ったパフォーマンスだからこそ、隠されたメッセージとしてこれを忍ばせておいたということもあるんじゃないかな。

 

 東ハヴァナ生まれでキューバとメキシコにルーツを持つ21歳のカミラは、昨年のグラミーでも移民に関してのスピーチをしていた。「夢だけをポケットに詰め込んでこの国へ渡ってきた」という両親への感謝を告げ、「この国は夢見る人々によって築かれてきた」と語っていた。もちろん、そのことも伏線になってるはず。

 

 アメリカのポップ・ミュージックの動向を見ていて本当に面白いのは、グラミー賞というメインストリームのど真ん中の舞台で、こういうことがたびたび行われるということ。それは社会的なメッセージを持った楽曲やパフォーマンスが繰り広げられる、というだけの意味じゃない。

 

 そこには「アメリカという国を定義する」ことが強いメッセージ性を持って響き、その強度がポップ性につながる、という回路がある。「年間最優秀レコード」「年間最優秀楽曲」の主要部門2冠を達成したチャイルディッシュ・ガンビーノの「ディス・イズ・アメリカ」も、まさにそういう楽曲の代表だ。

 

今年のグラミー賞は、ダイバーシティとインクルージョン、すなわち「多様性」と「包摂」が大きなテーマだった。特に、アリシア・キーズが司会だったり、冒頭でミシェル・オバマがスピーチしたり、ジャネール・モネイやカーディ・BやH.E.R.が鳥肌モノのパフォーマンスを見せたりと、女性の活躍が目立つ授賞式だった。

 

 もちろんこれは昨年の反省だろう。グラミー賞を主宰するレコーディング・アカデミーのニール・ポートナウ会長は、昨年のグラミー賞で女性のノミネートが少ないことを指摘され「女性は音楽業界でもっとステップアップする必要がある」とコメント。大きな批判を巻き起こした。その批判を踏まえてノミネートや投票や授賞式の構成をどうアップデートするかがグラミー賞のテーマになっていた。

 

 今年、最優秀新人賞を受賞したデュア・リパが「今年、私たちはとてもステップアップしたと思います」とスピーチしたのは、これを踏まえてチクリと言ってやった、ということでもあると思う。ちなみに、ニール・ポートナウ会長は今年で辞任することが決まっている。

 

 また、その一方で、グラミー賞の授賞式に「いなかった」側から見えてくるものもある。特に今年は「主役不在」の印象も強かった。

 

 何よりチャイルディッシュ・ガンビーノの不在が大きかった。事前にパフォーマンスを打診されていたドレイクとケンドリック・ラマーも出演を辞退し、直前まで交渉が続いていたアリアナ・グランデも授賞式のプロデューサー、ケン・エールリッヒに「クリエイティビティと自己表現を踏みにじられた」と出演をキャンセル。特にリリースされたばかりのアルバム『サンキュー・ネクスト』が記録的なチャートアクションを巻き起こしている最中、アリアナ・グランデがどんなパフォーマンスを見せてくれるかは本当に楽しみだったので、とても残念だし、ケン・エールリッヒは何らかの責任を負うべきなんじゃないかなって思ってしまう。

 

 チャイルディッシュ・ガンビーノやアリアナ・グランデが授賞式自体を欠席した一方で、ドレイクは授賞式には参加していた。ただ、スピーチで「君が作った曲を口ずさんでくれるファンや、仕事で一生懸命稼いだ大事な金でチケットを買って、雨の中でも雪の中でもライブに駆けつけてくれるファンがいるなら、こんなトロフィーなんて必要ない」と、グラミー賞自体を批判するコメントをして、しかもそれが途中で切られてCMに入ってしまうなど、波紋を呼ぶ場面もいくつかあった。これまで受賞確実と見られていたビヨンセ『レモネード』やケンドリック・ラマー『DAMN.』が主要部門で受賞していなかったこともあって、ヒップホップ・コミュニティとグラミーの溝は深かったのだけれど、それが改めて示された場面でもあった。

 

 こうやってグラミー賞の授賞式を見ていると、いろんなことがわかってくる。賞レースの行方はニュースを見ればわかるけれど、パフォーマンスとか、スピーチとか、いろんなディティールに込められたものから、アメリカ社会の今と、その向かおうとしている先が浮かび上がってくる。

 

 音楽は予言だと思う。

 

 最近になって、特にそう考えることが増えてきた。

 

 自分が子どもの頃は、ポップソングは政治や社会と関係ないものだと思っていた。わかりやすく、毒がない、誰もが安全に共感できる甘いラブソングのような音楽が、ポップ、すなわち大衆性の象徴だと思っていた。で、その一方に反抗の象徴としてのカウンターカルチャーがあると思っていた。

 

 だけど、今のアメリカを見てると、その印象はかなり違ってきている。メインストリームのポップソングこそ、むしろ、ジャーナリスティックに時代の姿を反映している。そこに説得力や迫力が宿ることで、エンターテイメント性と大衆性が生まれる。そういうメカニズムが駆動するようになってきている。

 

そして、カウンターカルチャーというものの形も変わってきているように思う。単に反抗や風刺を示すだけでなく、未来のあるべき姿を提示して社会をリードする役割を担うような表現が増えてきたように思う。政治への「カウンター」と言うより、ポップカルチャーの側に社会を変える力が宿っていることを自覚しているような表現、というか。

 

 チャイルディッシュ・ガンビーノにしても、グラミーを受賞した「ディス・イズ・アメリカ」よりもさらに示唆的だったのは、昨夏の「フィール・ライク・サマー」だった。けだるくメロウな曲調の、よくあるサマーソングかと思いきや、テーマは気候変動。つまり、夏でもないのに「まるで夏みたいに感じる」と繰り返す曲。サビでは「世界が変わってくれることを祈っている」と歌う。

 

 2016年からの3年間で、アメリカという国は、ずいぶん変わった。今年に入ってからも状況は刻々と動いている。

 

 たとえば、1月に「史上最年少の女性下院議員」となったアレクサンドリア・オカシオ=コルテスの躍進と、彼女が巻き起こしている現象は、その象徴と言っていいと思う。ヒスパニック系で、女性で、現在29歳。選挙区は地元のニューヨーク州ブロンクス。前回の大統領選ではバーニー・サンダースの選挙運動に携わっていたキャリアの持ち主。ただ、ほんの少し前まではウェイトレスやバーテンダーの仕事をしていた経歴を考えれば、現職の重鎮を破っての当選は大番狂わせだった。

 

 プエルトリコにルーツがありスペイン語圏にアクセスすることで支持を拡大した彼女の存在感はカミラ・カベロを思い起こさせるし、掲げている政策の「グリーン・ニューディール」は、チャイルディッシュ・ガンビーノの「フィール・ライク・サマー」と通じ合うものがある。

 

 2020年には次の大統領選が行なわれる。そこで再び大きな変化が起こりそうな気がする。

 

 この連載では、こんな風に、僕がポップ・ミュージックや、それを巡る状況から感じた「予感」について、書いていこうと思ってます。

 

(初出:タワーレコード40周年サイト「音は世につれ」2019年2月27日 公開)

tr40.jp

 

日々の音色とことば 2019/02/27(Wed) 00:00

「エモい」とは何か

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Spotifyで田中宗一郎さんと三原勇希さんが新しく始めたポッドキャスト「POP LIFE The Podcast」にゲスト出演しました。

 

 

open.spotify.com

 

そこで喋ったことなんだけれど、これも自分にとってはわりと大事なことなんで、ちゃんと文字にしてブログに残しておこう。

 

僕の好きな音楽の中に、根底に「居場所のなさ」とか「寄る辺のなさ」みたいなものを抱えたものがある。それは単なる孤独とか、仲間外れの疎外感とか、会えなかったり心を通じ合えなかったりすることの切なさとか、そういうものとはちょっと違っていて。

 

どっちかと言うと、虚無感と高揚感が背中合わせに同居している感覚、というのが一番近いのかな。そして、その背景には「無常観からくる、理由のない、そこはかとない物悲しさ」のようなものがある。

 

そういう情感についての話。

 

■「エモい」は音楽ジャンル由来の言葉

 

「エモい」ってなんだろう?

 

そのことを最近ずっと考えていた。

 

まず大前提としてはっきりと言えるのは、「エモい」は、音楽の分野から広まった言葉だということ。「emotional」が由来と言われることが多いけれど、実のところ、そのルーツは英語圏で言われる音楽ジャンルの「Emo」 (発音は”イーモゥ”)から来ている。

 

www.weblio.jp

 

上記の辞書サイトやWikipediaでもそのことは触れられている。

 

ja.wikipedia.org

 

 

dictionary.sanseido-publ.co.jp

 

「Emo」という音楽ジャンルが英語圏でポピュラリティを得たのは、だいたい90年代半ばくらいのこと。日本語圏の人のあいだではここ数年になって突然こういう言い回しに出会ったような感覚の人も多いかもしれないけれど、少なくとも、ロキノン育ちである僕は、「エモ」という言葉を20年くらい使ってる実感がある。

 

じゃあ「エモ」ってなんだろう?

 

ジャンルとしてではなく、感情の動きとしての「Emo」ってなんだろう? 改めて、最近、そういうことを考えるようになった。

 

きっかけは、エモ・ラップにハマったこと。より正確に言うなら、自分の好きになった音楽が英語圏でそうカテゴライズされるようになっていったこと。

 

最初は何の前情報もない段階で、Lil PeepとLil Pumpを見分けるところから始まった。どっちもXXXTentacionの周辺を調べたり探ったりしていくうちに知った。Lil Peepが「Benz Truck」を発表したときだから、2017年の6月頃のこと。その時にLil Pumpは「Boss」を出してた。

 

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まだその界隈が「SoundCloud rap」とざっくり括られてるころで、二人とも世に出てきたばっかりで、名前も似てるし、最初はごっちゃになってた。でもやってることは全然違っていて。個人的にはLil Peepのほうにがっつりハマっていった。

 

当時はまだ「エモ・ラップ」という言葉は出てきてなかったんで、「グランジ・ラップ」というタームを作ってリアルサウンドに紹介原稿を書いた。

(国内と海外の音源を両方紹介しようと思ってたんでセレクトしたんだけど、今思うとtofubeatsをそこに混ぜたのは筋悪だったなー)

 

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で、Lil Peepのデビューアルバムの『Come Over When You're Sober,』がリリースされたときには『MUSICA』編集部にかけあってレビューを書かせてもらった記憶がある。

 

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(ちなみにPodcastではタナソーさんと宇野さんはLil Pumpのほうが全然好きだったそうな。収録のときは自分のことをしゃべるので一杯一杯だったけど、それも興味ある話だな)

 

Soundcloud Rapを「自分好み」と「自分好みじゃないもの」にわける作業から始まって、「自分好み」のラベルを貼ったものは、その後、ほとんど英語圏で「Emo Rap」にカテゴライズされるようになって。そこで「あ、自分が好きなのはEmo Rapなんだ」って再発見したようなところがある。

 

でも、最初は「Emo」と「Emo Rap」って、つながってないじゃん?とも思ってたんです。というのもJimmy Eat Worldとかthe Get Up Kidsとか、ああいうEmoの代表格と言われるバンドは、当時のパンクシーン、いわゆる90年代のメロコアシーンの派生のようなものとして自分の中で位置づけていたから。もちろん掘っていくとWeezerがいるし、あとはワシントンDCのポスト・ハードコアとかいろいろ源流があるんだけど、その話はちょっと置いておいて。

 

■源流としての The Postal Service

 

自分の中で「Emo」と「Emo Rap」がリンクした、「これだ!」となったきっかけが、The Postal Serviceの『GIVE UP』という2003年のアルバムを聴き直したことだった。

 

つまり、Emo Rapの「Emo」側のルーツがThe Postal Serviceなんじゃないか、と思ったわけです。Death Cab for Cutieのベン・ギバート(Ben Gibbard) と、Dntel=ジミー・タンボレロ (Jimmy Tamborello)が結成したユニット。残したアルバムはこれ1枚。

 

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でも、ポッドキャストでもタナソーさんが解説してるとおり、日本ではそんなに騒がれなかったけど、その後のアメリカのシーンに与えた影響は計り知れないものがある。

 

特に好きなのが「District Sleeps Alone Tonight」という曲。この曲をじっくり歌詞を読みながら聴くとと、「ああ、この感覚がいわゆる”Emo”なんだなあ」と、思うようなところがある。

 

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I'll wear my badge
A vinyl sticker with big block letters adhering to my chest
That tells your new friends
I am a visitor here
I am not permanent
And the only thing keeping me dry is
Where I am

 

(ぼくの胸には、貼りついて剥がれないビニールのステッカーみたいにバッチがついてる。そこには大きく太字で「部外者」って書いてある。ここの人じゃないってことを、新しい友だちに教えるバッチ。ぼくの心がずっと渇いているたった一つの理由は、じゃあ、ぼくはどこにいるんだろう、ということ)

 

 

ポッドキャストの中では『13の理由』の話もして、10代のスクール・カルチャーの中での疎外感みたいなところにつなげちゃったんだけど、もうちょっと根源的なものがあるような気もするんだよなあ。

 

というのも、日本にはずっと昔から「エモい」に相当する言葉があるから。これは僕じゃなくて、 日本語学者の飯間浩明さんが言っていたこと。

 

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すごく腑に落ちる。

 

で、さらに解釈を重ねて、僕が「Emo」に感じる情感のようなものを踏まえて「エモい」を読み解くなら、やっぱりそれは「無常観からくる、理由のない、そこはかとない物悲しさ」みたいな感慨をあらわす言葉なんじゃないか、と思ってる。

 

で、これも大事なことなんだけど、「エモい」というのを、物悲しいとか寂しいとか切ないとか、それだけの感情と言い切ってしまうのも違う感じがする。

 

どっちかと言うと、喜びというか、祝福というか、救いというか、そういうものも「エモい」に含まれている感じがする。それが躍動感とか高揚感に結びついているというか。たとえばThe Flaming Lipsのライブも「超エモい」、すなわち「いとあはれ」と思うから。

 

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無常観の裏側には「それが一回限りの刹那であることがあらかじめわかっているがゆえの”生の肯定”」みたいなものもあって。

 

そういうのも「エモい」よね、と思う。

 

日々の音色とことば 2019/02/23(Sat) 14:45

フジファブリック「銀河」の転調について/音楽は知識があれば偉いものじゃないけど、それがあると心の深いところで握手できる機会が増える

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ツイッターでふとつぶやいたことだけど、大事なことなのでこっちにも記述しておこう。

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音楽は知識があれば偉いものじゃないけど、それがあると心の深いところで握手できる機会が増えるのよ。

 

そういうことを考えるきっかけになったのが、ジャズ評論家・柳樂光隆さんが「音楽の聴き方」を語るインタビュー。

 

www.tv-tokyo.co.jp

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正直、柳樂光隆さんの言ってることに100%頷けるか、と言えばそうじゃない。けれど、以下のポイントはすごく同意。

 

音楽って意識的に聴かないと分からない面白さが埋まっていることも多いんだけど、意識的になるためには、一度スイッチが入らないといけない。

 

 


で、そこから思い出したのが、「銀河」のエピソードだった。

 

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この曲はCメロから最後のサビにかけて「え?」となる転調が仕込まれている。3分46秒と52秒で、半音ずつ上がっている。

これ、当時もリアルタイムで「ええ?」となった記憶がある。蔦谷好位置さんみたいに車を路肩に止めた覚えがある。

で、何度かインタビューする機会があって、「あそこがすごい」という事も伝えた覚えはあるんだけれど、結局、何がルーツになってああいう発想が出てきたのか、わからなかった。

結局、それを知ったのはプロデューサーをつとめた片寄明人さんのブログ(現在はFacebookに移行)を読んでから。

 

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フジファブリックを聴いた人の多くは「不思議な曲を書く人だなぁ」と志村くんのことを思ったようだが、おそらくその画期的なソングライティングについて、あまり具体的に研究されたり言及されたことはなかったような気がする。

一般的には「奥田民生チルドレン」というイメージで彼の音楽を捉えていた人が多かったのではないだろうか。たしかに志村くんの音楽ルーツの根幹にあったのは、ユニコーンであり、奥田民生さんの音楽をはじめとする90年代の日本のロックだった。声や歌い方が似ていたのも大きな要因だと思う。

しかしそれだけでは彼の創る曲から伺われる音楽的豊潤さは説明つかない。

あの、曲をグニャッと歪めるような転調やプログレシッブな展開、時折現れては胸を締め付けるテンションコード、これら彼独特の音楽性はどこから来ていたのだろうか?

僕はそのほとんどが、彼が富士吉田にいたときから愛聴していたブラジル音楽からの影響だったのではないかと考える。

例えばEdu Lobo (エデュ・ロボ)というブラジルのソングライターがいるのだが、彼の1973年に出されたアルバムに「Vento bravo」という曲があって、志村くんはこの曲を本当に愛していた。

これを聴けば、フジファブリックのファンには、志村くんの音楽とEdu Loboの共通項がわかってもらえるだろうか。

僕には楽曲に対する声の音域の設定具合にまで志村くんとの共通項を感じ、彼がこの曲を歌っている姿が浮かんでしまうほどだ。

彼がもっとも好きだったEdu Loboのアルバムは、この「Vento bravo」が収録されているもので、志村くんはここから奇天烈ながらも音楽的で美しい転調のマナーを学んだのではないかと僕は想像する。

また彼はMarcos Valle(マルコス・ヴァーリ)というボサノヴァ第二世代として出てきたミュージシャンの熱烈なファンでもあった。志村くんのメールアドレスの一部はマルコスの曲「Mentira」から取られていたほどだ。

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そのうえで、「銀河」に関して言えば、楽曲がとてもダンサブルなものになっているのもポイント。それはジャミロクワイを意識したものだったらしい。

 

「銀河」を知る人には驚かれるかもしれないが、初めて「銀河」を僕に聴かせてくれたとき、志村くんは「この曲、ジャミロクワイみたいにしたいんです」と言ってきたものだった。

僕には彼の言わんとしていることがよく理解できた。ファンキーさが肝だということだ。

しかしフジファブリックが演奏する限り、もろジャミロクワイみたいなサウンドにしても意味はない。それを要素として取り入れつつ、例によって独自なバンドサウンドで無理矢理表現してみればいい。そんな僕とのミーティングを受けて、バンドとアレンジを重ね、志村くんはプリプロの段階でほとんど「銀河」の原型と言えるものを創り上げていた。

 

 


あの曲に入っているエッセンスの話を、あの時点でインタビューでぶつけられたら、それは盛り上がっただろうなあ、と思ってしまう。でも、当時の自分には知識が足りなかった。

後悔先に立たず。

 

日々の音色とことば 2019/02/23(Sat) 11:56

サム・フェンダーとジレットCM、「男らしさの毒(Toxic Masculinity)」について

サム・フェンダーの「Dead Boys」という曲がすごくいい。

https://www.youtube.com/watch?v=FcO8uV2n3Ys

UKはノースシールズ出身の24歳のシンガーソングライター。ほんとは1月16日に初の来日公演がある予定だったんだけど、キャンセルになっちゃった。残念。「BBC Sound of 2018」にノミネートされたり、先月に発表された「Brit Awards 2019」の批評家賞に輝いたり、つまりはUKの次の時代を担うと目されているシンガーソングライター。なので日本でもサム・スミスとかエド・シーランくらいちゃんと売れてほしいと願ってる。

憂いを含んだ声、ポストパンクっぽい切迫感を匂わせるビート、切ないリリシズムを湛えたメロディセンスと、いろんな系譜を感じさせるシンガーソングライターなんだけれど、とりあえず、そのことは置いておいて。

彼が昨年11月にリリースした「Dead Boys」という曲の歌詞が、とても興味深い。というのも、これ、「男らしさという毒」についての曲。それが男性を追い詰め自殺に追い込んでいるということを描いた歌なのである。

英語では「Toxic Masculinity」という言葉。彼の歌はそういう文脈で広まっている。たとえばNY TIMESにはこんな記事がある。

NMEにはこんなインタビューもある。

邦訳のページはこちら。

サム・フェンダー自身はこんな風に語っている。

「これは男性の自殺、特に僕の故郷での男性の自殺についての曲なんだ」
「それが原因で非常に近い友人を何人か亡くしていてね。この曲はそこからできた曲で、それ以来ずっといろんな人に聴いてもらいたくて演奏してきたんだ。この曲が対話を引き起こすのを見て、どれだけ現在進行系の問題なのか実感したよ。この国のいろんな場所で話してきた全員が誰かを失う体験に繋がりがあるんだよね」
「この曲はどれだけ大きな問題なのか、僕の目を開かせてくれたんだ。この曲が誰かに届いて、その人が連絡をとって語り合わなきゃと思ってくれたら、成功だよね」

サム・フェンダーが歌っていることは、「me too」や「times up」という運動で始まったムーブメントの先で「男性の生きづらさ」が改めて掘り起こされつつある、という今の時代の風潮とリンクしていると思う。

つまり「なぜ男は勝者で暴力的で支配的でなければ”男”とみなされないのか」という問いだ。

たとえば世界中で大きな話題を巻き起こしているジレットのCMがある。

このCMの冒頭にも「Toxic Masculinity」という言葉が出てくる。

そして、公開されたばかりのCMには賛否両論が巻き起こっている。

コマーシャルは今週、ソーシャルメディアの公式アカウントで公開された。1分48秒の映像は、いじめやセクハラの例から始まり、乱暴な少年たちが「男の子だから」と容認される場面などが続く。

そこへ「もう笑い飛ばしたり、同じ言い訳を繰り返したりしているわけにはいかない」とナレーションが入り、#MeToo運動がもたらした変化が紹介される。最後に男性たちがけんかを止めたり、子どもを守ろうと立ち上がったりする姿と、それを見つめる少年たちのまなざしが映し出される。

ジレットのチームは全米の男性たちから意見を聴くなど独自の調査を重ね、専門家の助言を受けながらコマーシャルを制作したという。

しかしユーチューブやツイッターには、「侮辱的だ」「フェミニストの宣伝工作だ」と反発するコメントが殺到した。

一方で、こうした反応は逆に、意識改革を促す運動がいかに必要とされているかを示す指標になるとの意見も寄せられた。

このCMに「侮辱的だ」という反発が巻き起こること自体が、ひとつの「男らしさという毒」なのだと思う。ジェーン・スーさんがこうコメントしてるけれど、僕も同感。

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CMでは「Boys will be boys」という言葉が繰り返される。否定的な文脈で。「もう止めよう」という文脈で。「男はいつまで経っても”男の子”だから」。それは社会の中で多くの男たちにとって免罪符として機能してきた一方、呪いの言葉でもあったはず。サム・フェンダー「Dead boys」はそういうことについての歌でもある。

We close our eyes
Learn our pain
Nobody ever could explain
All the dead boys in our hometown

日本では田中俊之さんが「男性学」という言葉を提唱して「男の生きづらさ」を掘り起こしている。

 

男がつらいよ 絶望の時代の希望の男性学

男がつらいよ 絶望の時代の希望の男性学

 

 

この先「Toxic Masculinity」という言葉が、社会とエンタテインメントをつなぐ線において、一つの重要なキーワードになる気がしている。

 

「Time's Up」、すなわち「時間切れ」「もう終わりにしよう」という運動は、ある程度は広まってきた。でも、それって、単に「これからはセクシャルハラスメントをしないようにしましょうね」というムーブメントではないと思うのだ。 

むしろそれは、「新しい”男らしさ”を規定しよう」というポップカルチャーの表現に結びつくはずだと思ってる。特に、義務や規則や規範ではなく、格好良さ、すなわち「何がクールか」というロールモデルを提示することによって人々の価値観を変え社会を変えていくことができるのは、ファッションと音楽の得意分野だ。

 

この先、“男らしさの毒(Toxic Masculinity)”の解毒剤となるような表現が求められているという気がする。そして、サム・フェンダーはUKだけれど、もちろんちゃんとUSからそれに呼応するような潮流はあらわれている。本当に変わるべきだし、そして現在進行系で変わりつつあるのは90年代から00年代にかけて、長らくその「男らしさ」を規定してきたUSのラップ・ミュージックの価値観であるように思う。

 

outception.hateblo.jp

 

www.huffingtonpost.com

 

もちろん、このあたりの話は現在進行形で進んでいて、ドキュメンタリー番組『サバイビング・R.ケリー』とそれが巻き起こしている大きな反響ともつながっている話。

 

kusege3.com

 

たぶん、もう少し時間はかかるだろうけれど、いろんなものが同時進行で進んでいくはず。

 

日々の音色とことば 2019/01/18(Fri) 13:32

今年もありがとうございました/2018年の総括

 

 

例年通り、紅白歌合戦を見ながら書いてます。

 

 

 

今年はいつにもましてあっという間に過ぎていった一年でした。2016年は『ヒットの崩壊』、2017年は共著の『渋谷音楽図鑑』と、自分にとって大きな仕事を形にすることができたんですが、2018年はどちらかと言えば仕込みの時期というか、次に向けていろいろと考えを深めていく時期だったと思います。

 

ヒットの崩壊 (講談社現代新書)

ヒットの崩壊 (講談社現代新書)

 

 

 

渋谷音楽図鑑

渋谷音楽図鑑

 

 

 

今年もいくつかの媒体で2018年を振り返りました。

 

 

海外の最先端の音楽シーンの動きにアンテナを張っているクリエイター、アーティストおよびプロダクションが一番ヒットしている曲を作っている。そういう流れが明らかに起きているんですよね。

 

 

newspicks.com

 

ストリーミングサービスの普及前は『すでに名のあるアーティストに有利なサービス構造だ』と言われていましたが、実は起こっているのは世代交代だったということも改めて証明できたのではないでしょうか。

 

アメリカ大陸全体に音楽シーンの発信源が点在する状況に変わっているような気もします。

 

 

realsound.jp

 

今って、アメリカのヒップホップやRBのトレンドと、それをきっちり追いかけていったK-POPと、ガラパゴス化的な進化をしてきたJ-POPと、それを全部フラットに聴いてきた世代の人たちが新しい扉を開けている時代なんだって思ったんです。

 

www.cinra.net

 

年間ベストについては、『ミュージック・マガジン』に寄稿しました。

 

 

ミュージック・マガジン 2019年 1月号

ミュージック・マガジン 2019年 1月号

 

 

 

そちらで選んだのがこの10枚。

 

 

● XXX Tentacion/?

● Joji/Ballad 1

● tofubeats/RUN

● 三浦大知/球体

● Post Malone/beerbongs & bentleys

● Jorja Smith/Lost & Found

● 小袋成彬/分離派の夏

● RM/mono.

● THE 1975/ネット上の人間関係についての簡単な調査

● 中村佳穂/AINOU

 

音楽に関しては、総じて、すごく充実した一年だったように思います。

 

 

■2019年に向けて。

 

「平成最後の~」というキャッチフレーズが食傷気味になるくらい巷に流れた一年だったわけですけれど、そのムードは2019年も、もう少し続くんだと思います。

 

本当は「とっくに終わって次に行くべきなのに生き残っているもの」が沢山あるという実感もあるんですが、きっと、いつの時代もそうやって移り変わっていくんでしょう。

 

取材を担当した『さよなら未来』のインタビューで若林恵さんが語っていたんだけど、僕もまったく同意で、音楽という分野は世の中における「炭鉱のカナリヤ」だと思っている。

 

 

世の中で起きる変化というものは、特にデジタル以降のテクノロジーの分野においては、音楽が最初に直撃するんです。なので、そこを見ておくと、だいたい何が起こるかわかる。炭鉱のカナリヤのようなものですよね。

もう少し世の中の人は音楽業界で起こっていることが何なのかというのを見ておけばいいのになとは思います。

音楽を出版や映画が後追いして、その後にものすごく遅れて重工業や他の業界で同じことが起こっていく。だから、時代の試金石として音楽を見るべきなんです。

 

gendai.ismedia.jp

そして、そういう視点で音楽を通して社会を見ていると、今後、数十年かけて「国」という枠組みが溶けていき「都市」がそれを代替するような予感がしています。

 

そして、「企業」という枠組みも溶けていき、様々な物事が断片化して「個人」同士のゆるやかな結びつきの中で巡っていくようになる予感がしています。

 

まあ、そこについては長いスパンの変化なので、また今度ゆっくり考えを深めていくとして。

 

来年も、正直に、足元を見失わないように、やっていこうと思ってます。

 

 

 

日々の音色とことば 2018/12/31(Mon) 23:24

星野源とRADWIMPSが対峙してきた「邪悪」について

POP VIRUS (CD+Blu-ray+特製ブックレット)(初回限定盤A)(特典なし)

 

 

久々のブログ更新。いろいろと〆切を抱えててこっちに書く時間がなかなかとれないんだけど、これはちょっと記録しておかざるを得ないよね。

 

だって、11月から12月にかけての1ヶ月のうちに僕の観測範囲の中心である日本の音楽シーンから、素晴らしいアルバムがどんどんリリースされているわけだから。ちゃんと自分なりにそれをどう受け止めたかを書き記しておかないと、流れていってしまう。

 

そういうことのために僕のブログはあるのでね。

 

まずはなんと言っても、星野源『POP VIRUS』。まあ年間ベスト級の一枚であることは間違いないでしょう。

 

 

POP VIRUS (CD+Blu-ray+特製ブックレット)(初回限定盤A)(特典なし)

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三浦大知『球体』と新曲の「Blizzard」を聴いたときにも思ったけれど、なんだかんだ言って、メインストリームのど真ん中にいる人が挑戦的なことをやっているのがポップ・ミュージックの一番面白いところなんだよね、と痛感する。

 

 


三浦大知 (Daichi Miura) / Blizzard (映画『ドラゴンボール超 ブロリー』主題歌)

 

 

ただし「海外のトレンドにいち早く反応したほうが勝ち」みたいなゲームをやってるわけじゃない。ここ、すごく大事。別に先鋭的なことをやってるから格好いいわけじゃなくて。

 

ポップ・ミュージックは日々更新され続ける今の時代感の表現である。で、その背景には歴史の積み重ねたるルーツがある。当然のことだけど、完全にオリジナルな表現なんて世の中にはほとんどなくて、カルチャーとはいわば河川のようにいろんな源流が合わさって形作られる潮流である。

 

なので、現在の時代へのアンテナと、過去の蓄積への探究心と、声を使った身体表現としての「歌」としての美しさがあいまって、強度を持ったものになる。星野源の新作はそういうことを感じさせてくれるアルバムだった。いろんな聴き所があるけれど、やっぱり僕としてはSnail's Houseを起用した「サピエンス」に一番ビビったかな。

 

で、RADWIMPSの『ANTI ANTI GENERATION』も、確実に同じ問題設定を踏まえた上でその先に突き抜けていこうという意識を感じるアルバムだった。

 

 

ANTI ANTI GENERATION(初回限定盤)(DVD付)

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つまりは「すさまじい速度で更新されつつあるポップ・ミュージック・カルチャーの変化」にどう応えるか。具体的に言うならば、英語圏ではラップミュージックやベースミュージックが潮流を握ったことによって、リズムのあり方、垣根の溶けた歌とラップのフロウのあり方と言葉のデリバリー、そしてサウンドメイキングにおいて抜本的に革新が起こっている。それに「日本のロックバンド」はどう向き合うの?という問題意識だ。

 

それが端的にあらわれているのが「カタルシス」であり「PAPARAZZI~*この物語はフィクションです~」だと思う。

 


PAPARAZZI~*この物語はフィクションです~ RADWIMPS MV

 

ここにあるのは「前前前世」の「みんなが知ってるキラキラとして情熱的なギターロックバンド」のRADWIMPSではなく、トラップ以降のグルーヴとフロウの関係性の変化、低域の鳴らし方の変化に意欲的に向き合っているRADWIMPSだ。

 

で、そういう問題意識は当然他のミュージシャンも共有しているもので、特に12月はそういうテーマを持った作品が次々とリリースされた。

 

たとえば、ASIAN KUNG-FU GENERATIONの『ホームタウン』は、まさに「ベースミュージックの影響で低域が強くなっているのが前提のグローバルな潮流に対して中域が強すぎるJ-POPや日本のロックバンドのサウンドメイキング」という問題系に真っ向から向き合いつつ「パワーポップをやる」という、いわば針の穴を通すようなコンセプトを形にしている。

 

 

ホームタウン(初回生産限定盤)(DVD付)(特典なし)

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SKY-HIの『JAPRISON』はラッパーという立場だから、もっとグローバルな潮流の変化にダイレクトにアクセスしようとしてる。端的に言うと、「日本」という枠組みで考えるとどうしてもぶち当たってしまう壁を「アジア」という枠組みに自分を位置づけることで突破しようとしている感がある。「JAPRISON」というタイトルに「JAPAN PRISON」「JAPANESE RAP IS ON」というダブルミーニングを込めていることからも、それが伝わってくる。

 

 

JAPRISON(CD+Blu-ray Disc)(LIVE盤)

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ぼくのりりっくのぼうよみのラストアルバム『没落』もすごくよかった。ツイッターの炎上騒ぎばっかり見てる人には何にも伝わってないし、最近でもYouTuberに就職して2日で辞職したりして「何がやりたいのかわからない」とか言われて本人にマジレスされたりしてるけど。

 

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ちゃんと彼のアルバムを聴いてる人はそこに封入されている「遺書」を読んだだろうし、いろんな表現が“自死”をモチーフにしていることが伝わってくると思う。『没落』の中では「曙光」が一番好きだけど、XXX TentacionやLil PeepやMac Miller やJUICE WRLDや、Lil Uzi Vert や、Fueled By Ramen所属だからワンオクともレーベルメイトになるnothing, nowhereあたりなど、北米のエモ・ラップやサッド・ラップと言われてるムーブメントと呼応しているテイストを感じる。

 

そのうえで、XXXTentacionもLil PeepもMac Millerも本当に死んじゃったのが去年から今年にかけての残酷な事実なわけで。ぼくりりは自分の肉体を害するかわりにキャラクターとしての「ぼくのりりっくのぼうよみ」を葬ったんだと考えると、日本がアメリカみたいな銃社会じゃなくて「キャラ社会」でよかったよねーなんてことも思う。

 

あと、曽我部恵一の追いつけないほどの多作っぷりも北米のトラップ以降のムーブメントの速度感を体現しててヤバいよね、と思う。

 

 

それからそれから、長谷川白紙『草木萌動』も今までにないタイプのリズムの脈動を身体感覚として“歌”にしていて、それもよかったなーと思う。

 

 

中村佳穂『AINOU』も。

 

 

■「人をコンテンツとして扱う」という邪悪

 

で、本題。

 

星野源『POP VIRUS』とRADWIMPS『ANTI ANTI GENERATION』はほぼ同じタイミングで世に出ているわけだけれど、ちゃんと聴けば、そこには拭い去れない「精神の傷痕」が刻み込まれているのが感じ取れると思う。

 

僕なりの言い方でもっと極端に言えば、それは世の中にはびこる巨大な「邪悪」に対峙してきた痕跡だ。

 

たとえば星野源の「アイデア」にはこんな歌詞がある。NHK連続テレビ小説の主題歌として爽やかに日本の朝を彩った一番から一転、二番では音数をグッと落としたアレンジでこう歌われる。

 

おはよう 真夜中
虚しさとのダンスフロアだ
笑顔の裏側の景色
独りで泣く声も
喉の下の叫び声も
すべては笑われる景色
生きてただ生きていて
踏まれ潰れた花のように
にこやかに 中指を

 

『ダ・ヴィンチ』2018年12月号掲載のエッセイ「いのちの車窓から」では、この歌詞の背景にあったエピソードが書かれている。

 

 買い物をしていると、物陰からスマートフォンで写真や動画を勝手に撮影されるようになった。
 家の前には、窓にスモークのかかった車が止まるようになった。
仕事帰りには様々な車が付いてくるようになった。
 週刊誌、ネットニュースで全ての内容が創作である記事が書かれるようになった。

  

続けて「嬉しいことばかりだった」と星野源は綴っているが、それはきっと、あくまでレトリックとしての表現だろう。2017年から2018年にかけて、間違いなく星野源は病んでいた。文章はこう続く。

 

 仕事では楽しく笑顔でいられても、家に帰って一人になると無気力になり、気がつけば虚無感にまみれ、頭を抱え、何をしても悲しみしか感じず、ぼんやり虚空を見つめるようになった。
 それは日々ゆっくりと、少しずつ増殖するウイルスのように、僕の体と精神を蝕んでいった。
 声をかけられることが恐怖心となり、街では誰にも見つからないように猫背で顔を隠し逃げ回り、ベランダに出ることさえも怖くて怖くて晴れた日でもカーテンを閉めるようになった。

 

ここからは、2016年に「恋」が一つの社会現象を巻き起こしてから彼が対峙さるを得なかった「邪悪」の巨大さが伺える。アルバムのインタビューでも星野源はこう語っている。

 

「去年いろんなこともあったし、ほんとにうんざりっていう(笑)。世の中に対してもそうだし、人間的にも疎外感というか、『なんじゃこりゃ、この世はもうどうしようもないな』みたいな感じがどんどん強くなってきて。そういう、うんざりっていう感覚みたいなものを出していこうっていうか」

(『MUSICA』2018年12月号)

 

 

 

同じく2016年に『君の名は。』と「前前前世」が社会現象的なヒットとなったRADWIMPSの表現はもっと直接的だ。彼が向き合ったものは「PAPARAZZI~*この物語はフィクションです~」のリリックに全て書いてある。

 

いいかいお父さんの仕事は普通とはちょっと違う
大きな意味では世の中の人に娯楽を提供してるんだ
役者さんミュージシャン スポーツ選手や著名人
家の前だとか仕事場でも どんな所だって張り付いて
その人の日々の監視をする そういう仕事をしてるんだ
そして何か悪さをしたり 面白いことが起こったりすると
それをすかさず記事に書いて 世間の皆に知らせるんだ
体力も根気も無きゃいけない とても大変な仕事なんだ

 

曲名には「*この物語はフィクションです~」とあるが、インタビューではこんなことも語っている。

 

「これは相手がいた頃、俺は数年間ほんとに苦しんでて、ほんとにノイローゼになりかけてて。ウチが個人事務所だからなのかなんあのか、容赦なくて。役者の友達とかに話すと『そんなことあり得ないよ』っていうようなこともされてて。自分の中でどうケリをつけようかなっていうのがずっとあったんですよね。ただあの怒りをそのまま曲にしても伝わるものにならないなと思ったし、だから4,5年かかったんですけど……なので自分が言いたいことを言いつつ、彼らの言い分もなるべく想像して。あの人達には子供とかいるのかな、その子供に自分の職業をなんて説明するのかなってところからまず始まって」

(『MUSICA』2018年11月号)

 

 

俺のとこなら百歩譲ったとしても
実家の親の家にへばりついて
堂々直撃してきたな?
息子さん苦節10年 成功して良かったですね
親御さんとしてどうですか?
あんたの親にも聞いたろか

 

という歌詞もある。

 

まあ、これは実話だろう。『女性自身』が2017年1月にネットに公開したニュースには「RADWIMPS野田洋次郎の下積み時代支えた“セレブ母の献身”」という見出しの記事がある。アクセスを送るのが嫌なのでリンクは貼らないが、上のリリックの通りの内容だ。これもアクセス送るのが嫌なのでリンクは貼らないが、大方の予想通り、2018年後半時点で『女性自身』の標的は米津玄師に向かっている。自宅マンションをつきとめその前に張り付いた記事を公開している。

 

これ、僕ははっきりと「邪悪」だと思う。

 

もちろん今に始まった話じゃない。日本だけの話でもない。「有名税」なんて言葉もある。しかし、僕は「有名税」を払う必要のある人間なんて一人もいないと思っている。それに、SNSが普及し、子供たちの憧れにユーチューバーの名前があがり、多様化したジャンルそれぞれに個人のインフルエンサーがいる時代、「有名人」と「一般人」をわけるくっきりとした境目なんてないと思っている。

 

そういう意味では誰もが直面する可能性のあることだと思う。でも、特に、自分の生き様そのものを表現として差し出しているアーティストの場合は、そうやってプライベートな領域に土足で入り込まれることによって、自分の心の敏感な部分、大事な部分を削られてしまう。優れた才能を持った人間がそんな風に心を削られて消耗する必要なんてないと思っている。

 

それでも、この問題は根が深い。

 

スキャンダルやゴシップ記事で糊口をしのごうとするメディアはなくなってほしいし、それを作ったり協力したりすることを飯のタネにしてる人間のことは心から軽蔑するし、そういう人と一緒に仕事をしようとは思わないけど。ついでに誰かの名前で検索をかけると「○○の恋人は? 家族や出身は? 調べてみました!」と適当な情報を垂れ流すトレンドブログは絶滅してほしいと心から願ってるけど。でも、それだけじゃない。

 

ハンナ・アーレントが『イエルサレムのアイヒマン』で書いたように、邪悪とは陳腐で凡庸なものである。そういった記事を作っている人がが、特別にゲスな心性を持ち合わせているとは思わない。むしろ「たまたまその役割を担った」というくらいの人間だと思う。いろんな人が、少しずつ、持ち合わせているものだと思う。それは僕も。

 

その邪悪の源泉を言語化するならば、僕は、それは「人をコンテンツとして扱う態度」だと思う。

 

ごく最近に起こったことで言えば、『水曜日のダウンタウン』でクロちゃんを監禁した『モンスターハウス』と、それが結果的に巻き起こした騒動も、結局のところ同じ「邪悪」から生まれている。僕はあの番組をゲラゲラ笑いながら観てた側の人間だから、あそこに集まった若者たちを「この国は終わってる」なんて言って切断処理するつもりにはなれない。

 

TBSバラエティー番組イベント 若者殺到で混乱し中止に | NHKニュース

 

anond.hatelabo.jp

 

生身の人間のことを「コンテンツ扱い」していないか。そして、マスメディアとSNSが結託するようになり極度にメディア化された社会の中ではそれがある程度しょうがないことだとしても、そのことが生身の人間の尊厳を毀損することに加担してないか。

 

ついでに。いつものことだから口を酸っぱくして言っておくけれど、毎年、年末から正月にかけて沢山の炎上騒ぎが起こっている。おそらく今年もそうだろう。それは結局のところ、暇にかまけて「生身の人間をコンテンツ扱いしている」人たちが起こしていることだ。

 

何度だって省みられていいことだと思う。

 

 

日々の音色とことば 2018/12/27(Thu) 10:03

山内マリコ『選んだ孤独はよい孤独』と宇多田ヒカル『俺の彼女』と、男たちの人生を蝕む「そこそこの呪い」について

山内マリコ『選んだ孤独はよい孤独』を読んだ。

 

選んだ孤独はよい孤独

選んだ孤独はよい孤独

 

 
すごく面白かった。そして同時にじんわりと鈍痛のような読後感が残る一冊だった。デビュー作の『ここは退屈迎えに来て』から繰り返し女性を主人公にしてきた作者が、男性を主人公に書いた短編集。

 

出版社の紹介文にはこうある。

 

地元から出ようとしない二十代、女の子が怖い男子高校生、仕事が出来ないあの先輩……。人生にもがく男性たちの、それぞれの抱える孤独を浮かび上がらせる、愛すべき19の物語。

「女のリアル」の最高の描き手・山内マリコが、
今度は「男のリアル」をすくいあげる、新たなる傑作登場!

 

www.kawade.co.jp

 

cakesで一部公開されている。武田砂鉄さん、田中俊之さん、海猫沢めろんさんとの対談も公開されている。

 

cakes.mu

 

cakes.mu


それぞれ、すごくおもしろい。でも記事の紹介文にものすごく違和感がある。

 

山内マリコさんの最新作『選んだ孤独はよい孤独』は、情けなくも愛すべき「ちょいダメ」男たちの物語です。 

 

違うだろう、と思う。このリード文を書いたcakesの編集者は、作品を絶望的に読めてないんじゃないか?と思ってしまう。

ここに描かれているのは「情けなくも愛すべき“ちょいダメ”男たち」なんかじゃない。そんな甘っちょろいもんじゃない。「気付かぬうちに人生を致命的に毀損してしまっている残念な男たちの物語」だ。

引きこもりだとか、無職だとか、コミュ障だとか、非リアとか、そういうことではない。登場する主人公の男には、傍目には充実した人生を送っているように見える男もいる。でも、全編に、どこにも行けない閉塞感と諦念が通奏低音のように鳴っている。

“ちょいダメ”男というのも違うと思う。むしろ“クズ男”という言葉が近い。と言っても、そういう形容からすぐに思い浮かぶような、たとえばモラハラの暴力夫とか、浮気とか、わかりやすい不誠実や無責任とか、そういうのとも違う。空洞はもっと奥底にある。

仲間からいつも見下されて苛立ちながらも、地元から出ていくことができない二十代。彼女に部屋を出て行かれてから数年経っても、自分が愛想を尽かされた理由がさっぱり思いつかない三十代。サッカー部のキャプテンで勉強もできてクラスの人気者なのに、一学年上のチームが奇跡的な全国制覇をしてしまった反動からの虚無感を諦念と共に抱える高校生。仕事が出来ないことを周りから見透かされながらも“できる風”を装い続ける広告会社の営業。誰も彼もが閉塞感を抱えている。満たされているかのようでいて、乾いている。

本文の中にこんな一節がある。

自分の手で、幸福を選んでもよかったのだ。いつだって、幸福は、選べたのだ。 

 

登場する男たちが「人生を致命的に毀損してしまった」理由はハッキリしている。選ばなかったからだ。

願っていることは、言葉の形で表出されないと、身体の底に沈んで燻る。たとえその場は満たされたとしても、他人からみたら羨ましく思えるような人生を送っていたとしても、「選ばなかった」ことの毒はやがて回ってくる。

心当たりがある人は少なくないんじゃないかと思う。

たとえば中華料理店に入る。心の中で「チャーハンが食べたい」と思っていても、それを実際に声に出して伝えないとチャーハンはやってこない。極端な例かもしれないけれど、人生にはそういうことがままある。

テーブルにつくと隣の人がラーメンを食べていて、それを見て本当はチャーハンが食べたいのについラーメンを頼んでしまうようなこともある。同席している人に「この店は○○が有名だから」と言われ、それを頼んでみたら実際たしかに美味く、満足しながらも(本当はチャーハンが食べたかったのにな…)と心の中で思っているようなこともある。自分はチャーハンを食べようと思っていたのに場を仕切っている人が「とりあえずビールの人〜」と挙手を募り、その雰囲気に流されるようなこともある。

スイスイさんの「メンヘラハッピーホーム」の人生相談を毎回おもしろく読んでいるのだけれど、以下のページで「セックスレスの彼女と結婚すべきか?」という悩みを投稿してきた“P君”が、まさにそれだった。この回はとりたてて凄まじい切れ味の回答だった。

cakes.mu


ここに書かれているP君のエピソードは、そのまま『選んだ孤独はよい孤独』に登場しそうな男性像だ。

32歳。デジタル広告会社のプランナー。年収は600万。仕事内容にはそこそこ満足しているものの、『お金2.0』『多動力』などのNewsPicks系書籍を読みあさる。同棲中の彼女と結婚すべきか悩んでいる。セックスレス


そういうP君に対してスイスイさんはこう喝破する。

なんだかんだ“そこそこ”の人生でもいいかって思ってる。
だから大事なことと大事じゃないことが、曖昧なまま。全部に流される。
もうNewsPicks見るな。簡単にagreeするな。

 

そうなのだ。

『選んだ孤独はよい孤独』に登場する男たちも、同じ空洞を抱えている。

「そこそこの呪い」が、男たちの人生を蝕み、毀損している。

この感じ、どこかで聴いたことがある。そう思っていた。まさにこれ、宇多田ヒカルが「俺の彼女」で歌っていた呪いだ。

俺の彼女はそこそこ美人 愛想もいい
気の利く子だと 仲間内でも評判だし
俺の彼女は趣味や仕事に 干渉してこない
帰りが遅くなっても聞かない 細かいこと

 

この歌詞のすごいところは、1行目で「そこそこ美人」、2行目で「仲間内でも評判だし」というフレーズを突き刺してくるところ。ホモソーシャル的な価値観の中にどっぷりと浸かっている男性像を射抜いている。

曲は男性と女性のすれ違う関係を、それぞれ声色を変えて演じながら歌う。
サビではこんなフレーズが歌われる。

本当に欲しいもの欲しがる勇気欲しい
最近思うのよ抱き合う度に
カラダよりずっと奥に招きたい 招きたい
カラダよりもっと奥に触りたい 触りたい

満たされているようで乾いている。何かを得ているようで何も求めていない。

俺には夢が無い 望みは現状維持
いつしか飽きるだろう つまらない俺に


とても残酷だけれど、この残酷さに身に覚えがある人は多いと思う。

もし『選んだ孤独はよい孤独』に主題歌があるのなら、それは「俺の彼女」だろうと思うのだ。

日々の音色とことば 2018/09/02(Sun) 22:32

米津玄師は「パプリカ」で誰を応援しているのか。

 

米津玄師が書き下ろした新曲「パプリカ」がすごくいい。

 


<NHK>2020応援ソング「パプリカ」世界観ミュージックビデオ

 

何度か聴くうちにすっかりハマってしまった。

 

「<NHK>2020応援ソング」というNHKのプロジェクトに書き下ろした新曲で、作詞作曲編曲とプロデュースを米津玄師が担当、歌ってるのはFoorin(フーリン)という5人という小学生ユニット。

 

www.nhk.or.jp

 

キャッチコピーは「2020年とその先の未来に向かって頑張っているすべての人に贈る応援ソング」。その一報を聞いた第一印象は「米津玄師が応援ソング?」というものだった。彼の音楽を追ってる人なら、なんとなくこの感覚、わかるんじゃないかと思う。

 

でも、聴いてみたら、歌詞にも曲調にも、「頑張れ」とか「強くなれ」とか「さあ行こう」みたいに、わかりやすく誰かを応援する、誰かの背中を押すような表現は一つもなかった。

 

そこがすごくいい。

 

曲りくねり はしゃいだ道
青葉の森で駆け回る
遊び回り 日差しの町
誰かが呼んでいる

夏が来る 影が立つ あなたに会いたい
見つけたのは一番星
明日も晴れるかな

パプリカ 花が咲いたら
晴れた空に種をまこう
ハレルヤ 夢を描いたなら
心遊ばせ あなたにとどけ

 

 

歌詞に描かれているのは子供時代の情景。田舎の森や町並みではしゃいで遊び回り、「あなたに会いたい」と願う、そのときのピュアな楽しさや喜びの感情だけが切り取られている。

雨に燻り 月は陰り
木陰で泣いていたのは誰
一人一人 慰めるように
誰かが呼んでいる

喜びを数えたら あなたでいっぱい
帰り道を照らしたのは
思い出のかげぼうし

 

2番では、1番で歌われる「みんな」とは対照的に「一人」の情景。それでも「喜びを数えたら あなたでいっぱい」と、真っ直ぐな幸せが歌われている。

この歌詞の言葉はFoorinの5人が歌うからこそ成立するものなのだろう。ダンスバージョンのMVでは5人が元気いっぱいに踊る姿が映し出されていて、その楽しそうな雰囲気も曲の魅力の一つになっている。振り付けは辻本知彦と菅原小春。特に辻本知彦とは「LOSER」でダンスレッスンをして以来の付き合いなので、お互いにクリエイターとして尊敬し合う仲なのだと思う。


<NHK>2020応援ソング「パプリカ」ダンス ミュージックビデオ

 

で、すごくいい曲だと思うのだけれど、この曲のどこがどういう風に「応援ソング」なのかは、ちょっと解説が必要だと思うのだ。

 

というのも、上に書いた通り、この曲は「他の誰かを応援する曲」ではないから。2020年に向けたNHKのプロジェクトではあるけれど、アスリートをイメージさせるような描写も一つもない。そういう意味では、たとえばゆずの「栄光の架橋」とか安室奈美恵の「Hero」みたいな曲とは全然違う。

 

この「パプリカ」が誰をどう応援しているのか。それは、同じ米津玄師が菅田将暉を迎えて歌った「灰色と青」を聴くとわかる。


米津玄師 MV「 灰色と青( +菅田将暉 )」

 

この曲では、こんな歌詞が歌われる。

 

君は今もあの頃みたいにいるのだろうか
ひしゃげて曲がったあの自転車で走り回った
馬鹿ばかしい綱渡り 膝に滲んだ血
今はなんだかひどく虚しい

どれだけ背丈が変わろうとも
変わらない何かがありますように
くだらない面影に励まされ
今も歌う今も歌う今も歌う

また、この曲にはこんな歌詞もある。

君は今もあの頃みたいにいるのだろうか
靴を片方茂みに落として探し回った
「何があろうと僕らはきっと上手くいく」と
無邪気に笑えた 日々を憶えている

 

この曲は大人になった二人が、それぞれ子供時代を共に過ごした「君」とその記憶に思いを馳せるような一曲。ここでは「ひしゃげて曲がったあの自転車で走り回った」「靴を片方茂みに落として探し回った」と、過去へのノスタルジーが描かれている。

 

その描写は、「パプリカ」の「曲りくねり はしゃいだ道 青葉の森で駆け回る」という歌詞と、どこか通じ合うものがある。

 

そして「灰色と青」には、「くだらない面影に励まされ 今も歌う今も歌う今も歌う」という歌詞がある。

 

そう考えると、この「パプリカ」が誰をどう応援しているのかが、はっきりする。この曲は「他の誰かを応援し、背中を押す歌」ではない。「大人になり虚無に襲われたときに自分自身を励まし奮い立たせてくれる、幸せな子供時代の記憶の歌」だ。

 

そして、もう一つ。

 

「パプリカ」のサビでは「パプリカ 花が咲いたら 晴れた空に種をまこう」と歌っている。

 

そして「パプリカ」の花言葉は「君を忘れない」。

 

そういうところまで考えると、すごく深く美しい意味が込められていると思うのだ。

日々の音色とことば 2018/08/15(Wed) 09:04

追悼XXXTentacion

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XXXTentacionが亡くなった。享年20歳。強盗犯に射殺されたという。

 

www.bbc.com

とても悲しい。すごく残念で、胸が締め付けられるような気がする。だから、ちゃんと追悼の思いを書き連ねておこうと思う。

 

シンプルに、彼の作る音楽がとても好きだった。こういう仕事をしているからいつもは評論家めいた物言いをしてしまうけれど、XXXTentacionのいくつかの曲に、その言葉やメロディに、かつて10代の思春期の頃に自分を救ってくれた音楽に通じ合うものを勝手に感じていた。

 

昨年、やはり21歳で若くして亡くなってしまったLil Peepも同じだ。僕は彼の音楽にすごく思い入れていたから、その死は、とても惜しく辛いものだった。


僕がXXXTentacionに出会ったのは、彼の名を有名にした「Look at Me」ではなく「King」という曲だった。たしかSpotifyのランダム再生だったと思う。ちょうど車を運転していたから、中盤の叫びのところで「え? 誰?」と思わず路肩に止めてアーティスト名をメモした。

 

www.youtube.com

 

この曲ではこんなことを歌っていた。

 

Leave me alone, I wanna go home
(一人にさせてくれ、帰りたいんだ)
It’s all in my head, I won’t be upset if
(全部俺の頭の中の問題だ。そうならもう心も乱さない)
Hate me, won’t break me,
(憎んでくれ。そうしたって俺は壊れない)
I’m killing everyone I love
(俺を愛してくれる奴ら全てを殺したい) 


最初に聴いたとき、なにか撃ち抜かれるような感があった。居場所のなさ、行き場のなさ、自暴自棄な混乱と諦念。「メンヘラ」という言葉で括られてポップに消費される以前の生々しい感情。そういうものがあった。

 

彼やLil Peepのことをいろいろ調べて記事を書いた。デビュー・アルバム『17』をリリースする前のことだ。彼自身が元彼女への暴行など様々な問題を起こしていたことを知ったのは、もう少し後の話。

 

realsound.jp

 

そこで書いた「グランジ・ラップ」なる言葉は僕の造語だけれど、結局、彼やLil Peepの音楽は「エモ・トラップ」や「エモ・ラップ」というジャンルで括られるようになっていった。でも、だいたい意味するところは同じだ。ニルヴァーナのカート・コバーンだって、マイ・ケミカル・ロマンスのジェラルド・ウェイだって、世を席巻した時代は違うけれど、それぞれの時代の生き辛さを抱えたティーンを救っていた。

 

www.youtube.com

 

いや、「ティーン」なんて言い方をすべきじゃないな。これは僕の話だ。

 

僕自身は決して不幸な生い立ちじゃない。むしろ恵まれていたほうだと思う。虐められていたわけでもない。不登校だったわけでもない。少しばかり奇矯な行いは目立っていたと思うけれど、それでも中高一貫の男子校で楽しく充実した日々を過ごしていた。と思う。

 

でも、それでも過去を振り返ると「なんとか生き延びてきた」という実感がある。よくわからない自分の内側のどこかに切迫したものがあって、眠れない夜に、それが獣のように襲いかかってくるような感覚。それを今でも覚えている。怒りや苛立ちが外に向かわず、ハウリングを起こしたマイクとスピーカーのようにぐるぐると内省の回路をまわり続ける感覚。いっそのことスイッチを切ってしまいたい、大事にしているものを全て投げ捨ててしまいたい、という衝動。そういうものがあった。

 

いや、今も時々ある。

 

そういうときは処方された薬を飲むようにしている。アルプラゾラム。日本では「ソラナックス」という商品名で知られている。syrup16gがアルバム『coup d'Etat』で「空をなくす」という曲を書いているが、その曲名はここからとられている。

 

そして、それはアメリカでは抗不安薬「Xanax」という商品名で売られている。

 

だから昨年、デビューアルバム『Come Over When You're Sober, Pt. 1』を発表したばかりのLil Peepが21歳で亡くなったときには深い衝撃があった。死因はXanaxのオーバードーズだった。とても他人事じゃない。

 

XXXTentacionが昨年夏に発表したデビューアルバム『17』に収録された「Jocelyn Flores」は、鬱病に苦しみ16歳で自殺した彼の女友達をテーマにした曲。タイトルは彼女の名前だ。

 

www.youtube.com

そこではこんなことが歌われている。

 

I’ll be feelin’ pain, I’ll be feelin’ pain just to hold on


(苦しい。苦しくて仕方ない。でも耐えるしかない)

 And I don’t feel the same, I’m so numb


(もう前と同じようには感じない。麻痺してるんだ)

 

そして今年3月、XXXTentacionはセカンドアルバム『?』を発表する。アルバムは前作を上回る傑作になった。

 

www.youtube.com

 

『17』の成功や、Lil Peepの死や、いくつかの状況が彼の価値観と行動を変えていた。大きな変化は、根底にある鬱や孤独感は変わらぬまま、自棄や厭世的な内容に終わらず、世代のアイコンとなりつつある自分の存在の意味を引き受け始めていたことだ。


収録曲の一つ「Hope」は、2月に彼の地元フロリダの高校で起きた銃乱射事件に対しての追悼曲だ。

 


『?』はビルボード1位を記録し、XXXTentacionはスターダムを駆け上がった。

 

そして彼は前に進もうとしていた。死の直前の5月にはチャリティープログラム「Helping Hand Foundation」立ち上げを宣言し、フロリダでチャリティーイベントを行う計画を表明していた。

 

「Hope」ではこんな風に歌っている。

Oh no, I swear to god, I be in my mind
(俺は神に誓う)
Swear I wouldn’t die, yeah,
we ain’t gonna-
(俺は死なないよ。俺たちは死なない)
There’s hope for the rest of us
(生き延びた俺たちには希望がある)

 

だからこそ、彼の死は早すぎたし、運命の皮肉を感じてしまう。


本当に惜しいのは、この先に沢山の可能性があったこと。Diploの追悼コメントによると、どうやらXXXTentacionはDiploとSkrillexのプロデュースで次の作品を制作する構想もあったようだ。

 

幻になってしまった次の作品は、きっとXXXTentacionにとっての本当の代表作になっただろう。ひょっとしたら、それは、マイ・ケミカル・ロマンスにおける『The Black Parade』のように、死から生へと向かう強烈なエネルギーを新しいポップ・ミュージックの形で昇華したものになったかもしれない。

 

www.youtube.com


僕はXXXTentacionのことを、次の時代の音楽シーンを担うヒーローだったと本気で思っている。そして、たぶん、いろんな媒体で「アメリカの鬱屈した若い世代の代弁者だった」と彼のことを書くだろうと思う。

 

でも、このブログはとても個人的な場所なので、一つだけそれに加えておく。自分はもういい歳したオッサンだけど、彼は「若者」だけじゃなくて僕自身の代弁者でもあったんだと思う。

 

だから、すごく悲しい。

 

There’s hope for the rest of us.

 

冥福を祈ります。

 

 

日々の音色とことば 2018/06/23(Sat) 21:27

『アンナチュラル』と米津玄師「Lemon」が射抜いた、死と喪失

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(TBS公式ページより)

■取り残された側の物語

 

今日はドラマの話。先日最終回の放送が終わった『アンナチュラル』について。ドラマの筋書きも演出もすごくよかったけれど、何より印象に残ったのは米津玄師が手掛けた主題歌「Lemon」だった。

 


米津玄師 MV「Lemon」

 

観た人はきっと同じ感想を持っていると思うのだけれど、毎回、この「Lemon」いう曲が絶妙のタイミングで流れるのだ。主題歌だからと言ってエンドロールで流れるわけじゃない。1話完結形式で進んでいくドラマ、そのクライマックスのここぞという場面で曲が始まる。

 

夢ならばどれほどよかったでしょう

未だにあなたのことを夢にみる

 

戻らない幸せがあることを

最後にあなたが教えてくれた 

 

 

そう歌われる歌詞の言葉が、登場人物の心情とシンクロして響く。たとえばバイク事故で若くして亡くなった父親と残された母子が描かれる第4話。たとえばいじめによる疎外とその結実が描かれる第7話。『アンナチュラル』は法医学をモチーフにしたドラマなので、毎回、なんらかの死がストーリーの主軸になる。死者の残した手掛かりをもとに謎が究明されるという、ミステリーの王道のフォーマットが用いられている。

 

でも、『アンナチュラル』がユニークなのは、決して事件の解決や真犯人の解明が「辿り着くゴール」として描かれていないこと。もちろん法廷ドラマの側面もあるので、そういった描写は多い。しかし殺人だけでなく事故や病気や火災による死が扱われる話も多く「なぜ殺したのか」という動機の究明が行われることはほとんど無い。むしろ焦点が当てられているのは「取り残された側」の傷や痛み。

 

家族や恋人や友人や、大切な人を突然に亡くしてしまった人たちが否応なしに抱える、とても大きな喪失。「なぜ死んでしまったのか」という答えの出ない問い。胸にあいた巨大な空洞。ドラマでは毎話そこにフォーカスが当てられている。主人公のミコトと中堂も、大切な人を亡くした経験の持ち主だ。

 

ストーリーの中では、ミコトたち法医学者たちの尽力によって、亡くなってしまった人が最後に「どう生きていたのか」が解き明かされる。不条理な死の「意味」が取り戻される。しかし、失われてしまった幸せな過去はもう戻らないーー。

 

その瞬間。

 

米津玄師が「夢ならば、どれほどよかったでしょう」と歌うのだ。

 

■なぜ絶妙なタイミングなのか

 

僕はナタリーで米津玄師にこの曲についてインタビューしているのだけれど、彼自身、ドラマの中でこの曲が流れるタイミングについては強く印象に残っているようだった。

 

natalie.mu

 

──完成したドラマを観て、あのタイミングのよさは強く印象に残ったんじゃないでしょうか。

はい。本当にドンピシャのタイミングで流れるし、自分の個人的な体験から生まれてきたものが、物語となんら矛盾なく流れてくることに対して、不思議な感覚もありますね。確かにドラマのために書いた曲ですけど、同じくらい、もしかしたらそれ以上に自分のための曲でもあるので。でもそれが歌い出しの瞬間から、これだけリンクして流れるという。それは不思議な感覚ですし、どこか普遍的なところにたどり着くことができたんだなっていう証左でもあるなと思いました。

(上記インタビューより引用)

 

 

米津玄師が「個人的な体験から生まれたもの」「自分のための曲でもある」というのは、彼自身が肉親の死という渦中でこの曲を書いたから。ドラマ制作側から「傷付いた人を優しく包み込むようなものにしてほしい」というオーダーを受け、死をテーマに曲を書いている途中で、実際に彼の祖父が亡くなった。そのことが楽曲の制作に大きな影響を与えたと上記のインタビューで彼は語っている。

 

つまり、これは、この曲を書いていたときの米津玄師自身が否応なしに「取り残された側」になった、ということなのだと思う。

 

「大切な人の死」というものが、モチーフでも対象でもなく、突如、一つの動かしようのない事実として目の前に立ち現れた。そこにどう向き合い、どう意味を見つけるのか。そういう体験を経て「Lemon」という曲が生まれたと彼は語っている。

 

 

結果的に今になって思えることですし、こう言うのも変な話かもしれないですけど、じいちゃんが“連れて行ってくれた”ような感覚があるんです。この曲は決して傷付いた人を優しく包み込むようなものにはなってなくて、ただひたすら「あなたの死が悲しい」と歌っている。それは自分がそのとき、人を優しく包み込むような懐の広さがまったく持てなくて、アップダウンの中でしがみついて一点を見つめることに夢中だったので、だからこそ、ものすごく個人的な曲になった。でも自分の作る音楽は「普遍的なものであってほしい」とずっと思っているし、そうやって作った自分の曲を客観的に見たときに「普遍的なものになったな」っていう意識も確かにあって。それは、じいちゃんが死んだということに対して、じいちゃんに作らせてもらった、そこに連れてってもらったのかなって感じもありますね。 

 

「Lemon」の歌詞の最後の一行には、こんなフレーズがある。

 

今でもあなたはわたしの光

 

ドラマの中でも、この一節はとても印象的に響く。ここで歌われる「あなた」という言葉に、それぞれの登場人物にとっての失われてしまった大切な人の姿がオーバーラップするような描かれ方になっている。そして、その構造と全く同じく、この「Lemon」という曲は、誰もが自分にとっての大切な人の喪失と重ねることのできる曲になっている。

 

取り残された側が、どう生きていくか。自分の胸の中にある大事な部分をもぎ取られたかのような体験をした者が、その死という事実にどう向き合い、未来に歩みを進めていくか。脚本を書いた野木亜紀子と米津玄師が共有していたストーリーの「主題」はそういうところにあるのだと思う。

 

絶妙のタイミング、というのはそういうことなんだと思う。

日々の音色とことば 2018/03/17(Sat) 07:45

フェスはどこに向かうかーー書評『夏フェス革命』

■フェスをどう語るか

久しぶりにブログ更新。ずいぶん時間があいてしまったけれど、今日はレジーさんの新刊『夏フェス革命 音楽が変わる、社会が変わる』について書こうと思う。

 

夏フェス革命 ー音楽が変わる、社会が変わるー

 

昨年12月に刊行されたこの本。前にもツイッターで書いたけれど、読んだ後の最初の印象は「こういうの書こうと思ってた!」だった。

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参考文献に『ヒットの崩壊』があり僕の文章が多々引用されているというのもあるけれど、その理由としてはこの本がロック・イン・ジャパン・フェスティバル(以下ロック・イン・ジャパン)を主な題材にしたものだということがすごく大きい。

 

ロック・イン・ジャパンにまつわる言説って、その動員数や規模や存在感に比べるととても少ないのです。今の日本の「フェス文化」の起点は1997年のフジロックの初開催にあり、そこから00年までの3年間にライジング・サン、サマーソニック、ロック・イン・ジャパンと現在まで続く「4大フェス」が初開催されて広がった、という言説は一般的に広まっている。しかし、本書のように「フェス文化を象徴するロック・イン・ジャパン」という論を書籍ベースで展開するものはほとんどない。

 

その理由は端的にあって、それはおそらく音楽にまつわる書き手の多くが「行ってない/取材してない」ということもその一因なのではないかと思う。本書で引用されている『フェスティバル・ライフ―僕がみた日本の野外フェス10年のすべて』で著者の「南兵衛@鈴木幸一」さんが書いている一節がとても象徴的。

 

ロック・イン・ジャパン
2000年8月12日13日茨城県ひたちなか市国営ひたち海浜公園で初開催。その名が二重に示すように、雑誌「ロッキング・オン・ジャパン」を編集発行する株式会社ロッキング・オンの事業として、さらに日本の国内アーティストのみによるラインナップで開催を重ねる。すいません、著者は全く未見です。

( 『フェスティバル・ライフ―僕がみた日本の野外フェス10年のすべて』より引用)

  

フェスティバル・ライフ―僕がみた日本の野外フェス10年のすべて (マーブルブックス)

フェスティバル・ライフ―僕がみた日本の野外フェス10年のすべて (マーブルブックス)

 

 

「すいません、著者は全く未見です」って書いちゃうんだ!という驚きは正直あるけど、それはさておき、この一節はとても象徴的な意味を持っていると僕は思う。そのフレーズは「フェスは体験者の言説として語られる(べき)ものだ」という無意識の前提を含有している。

 

そして、フジロックに毎年行くようなタイプの書き手は、小規模な野外フェスやキャンプやレイヴに足を運ぶことはあれ、ロック・イン・ジャパンに足を運ぶことは少ない。たとえばさまざまなフェスのオーガナイザーへの取材をまとめた『野外フェスのつくり方』という本には「プライベートな野外パーティから大規模野外フェスまでを網羅!」というキャッチフレーズがあるけれど、そこではロック・イン・ジャパンのことはスルーされている。

 

(フジロックを主催するスマッシュやサマーソニックを主催するクリエイティブマンと違って、メディア企業であるロッキング・オンとその社長の渋谷陽一氏が「オーガナイザーとしてのスタンスやフェスの設計を語る取材」をほぼ受けていないというのもあると思う)

 

野外フェスのつくり方

野外フェスのつくり方

  • 作者: 岡本俊浩,山口浩司,庄野祐輔,taxim,MASSAGE編集部
  • 出版社/メーカー: フィルムアート社
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また、『夏フェス革命』でもたびたび引用されている『ロックフェスの社会学』という本は書き手の目線で書ききるというよりフェス参加者への聞き取りからもとに論が組み立てられていて、そこからとても興味深いロジックが展開していく名著だと思うのだけれど、そこで取り扱われているフェスもフジロックが中心になっている。

 

 

ロックフェスの社会学:個人化社会における祝祭をめぐって (叢書 現代社会のフロンティア)

ロックフェスの社会学:個人化社会における祝祭をめぐって (叢書 現代社会のフロンティア)

 

 
ただ、ロック・イン・ジャパンは、フジロックとも、サマソニとも、ライジングサンとも、その他の数々の邦楽系ロックフェスともちょっと違う独自の力学で動いているフェスだと思うのです。そして、そこに毎年集まるお客さんたちからは、他の場所にはない独自の文化圏が立ち上がっている。僕は「ロッキン文化圏」という言葉を使って前にこのブログに書きました。

 

shiba710.hateblo.jp

 

『夏フェス革命』のレジーさんはその「文化圏」の形成とその変容をつぶさに見てきた書き手で、それは彼が2012年からブログに書いてきた「ロックインジャパンについての雑記」にも表れている。

 

そもそも音楽に大して関心のない人たちが紛れ込んでるんじゃないかと思います。これは00年当初とは決定的に違う。

 (レジーのブログ「ロックインジャパンについての雑記1 -RIJF今昔物語」より引用)

 

blog.livedoor.jp

 

その体験をベースに、「メーカーやコンサルティングファームで事業戦略や新規事業・新商品開発、マーケティング全般に関わる仕事に従事している」という著者が、ある種フラットな視線でフェスを語ったのがこの一冊。

 

ステージの上のアーティストが主役だった時代から参加者が主役になった10数年の(ロッキン文化圏を中心にした)フェス文化の変化を、「協奏」(共創)というビジネス的なキーワードで語る一冊になっている。


■プラットフォームとしてのフェスの権力構造

 

「協奏」(共創)については、著者インタビューでこんな風に語られている。

 

ここ数年、ビジネスの分野で「共創」という概念がよく言われるようになっているんですが、本書で掲げた「協奏」という考え方はこの「共創」を下敷きにしています。「共創」というのは文字通り「企業とユーザーが共に価値を創る」ということなんですが、もう少し紐解くと、企業が「私たちが素晴らしいと思うものを作ったから、ぜひ買ってください」もしくは「あなたたちはこんなものが好きだということが調査でわかりました。それを作ったので買ってください」と一方的に投げかけるのではなくて、ユーザーの意見や行動をタイムリーに取り入れながらそのビジネスのいちばん良いやり方を作っていく、ということになると思います。

――それは、マーケティングの世界では、割と一般的な概念なのでしょうか?

本の中でも挙げているのですが、日本で2010年に出版されたフィリップ・コトラーの『コトラーのマーケティング3.0』(朝日新聞出版)で「共創」という概念が提唱されています。その後、ソーシャルメディアが浸透していくにつれて、だんだん具体的な施策としても形になってきているように思います。ただ、「共創」を掲げている企業の多くが「共創のための場」を人工的に作って、そこで人を交流させたり、商品開発のための意見交換をさせたり、というレベルで終わっているように感じます。それが本当に何か意味のある取り組みになっているんだろうか、というのは常々疑問に感じる部分もあって。

(realsound「“フェス”を通して見る、音楽と社会の未来とは? 『夏フェス革命』著者インタビュー」より引用)

 

realsound.jp

 

おそらく20年後、30年後から今の2010年代を振り返るならば、それは「ソーシャルメディアが社会を変えた10年」ということになるのだと思う。フェスを軸に考えると、音楽を巡る場の変化が社会の変化と密接に絡み合っていた流れがすごく見えてくる。

 

ツイッターが浸透し、スマートフォンが普及し、「現場で体感するもの」としてのエンタテインメントが大きく支持を伸ばしていった。もちろん、2011年の東日本大震災も大きな影響もあった。

 

ただその一方で、サッカー日本代表戦後の渋谷スクランブル交差点が象徴するように、「本来のコンテンツそのものとは関係ないところで、参加者が“おそろいの服を着て騒ぐ”のが楽しい」というような構造も現出した。また、過去にこのブログで書いたように、そして本書でも書かれているように、日本においてハロウィンがキャズムを超えたのは2012年。それも本来のハロウィンの由来とは関係ないところで出現した、「新しい都市型の土着の祭り」だったのだと思う。

 

shiba710.hateblo.jp

 

そういう変化をつぶさに見て取れる一冊になっている。

 

個人的に最も刺激を感じたのは「おわりに」に書かれた部分。クラシック音楽の聴かれ方について書いた名著『聴衆の誕生』をひきつつ、18世紀の演奏会と21世紀初頭のロックフェスの風景を「社交の場、異性の視線、音楽に一生懸命耳を傾けようとする者との混在」という構造は同じだ、と位置づける。

 

もう一方では、フェスを「プラットフォーム」として捉え、そこにある権力構造を見出す。

 

フェスのタイムテーブルがヒットチャート替わりだとすると、フェスに出演しないということはすなわち「圏外」の存在であることを意味する。ということはつまり、フェスはブッキングパワーを駆使して特定のアーティストを「圏外」に追いやることができるのである。

(『夏フェス革命』より引用) 

 
このあたりは、アーティストにも「自分たちが主宰するフェスを立ち上げる」という選択肢があり、それが実際に各地で成功を収めていることからも、GoogleやamazonやFacebookなどのグローバルなプラットフォームと同列に「プラットフォーマーが強くなりすぎる問題」として語るのは慎重になるべきかも、という気がする。

 

■2018年のフェスの風景はどうなるのか


2018年はフジロックにケンドリック・ラマーとN.E.R.Dがヘッドライナーとして出演することが発表されている。先日には第2弾出演者が発表され、サカナクション、BRAHMAN、マキシマムザホルモン、ユニコーン、Suchmosら日本のアーティストが多く名を連ねた。

 

realsound.jp

 

一方、サマーソニックはベック、ノエル・ギャラガー、チャンス・ザ・ラッパーらを第1弾出演者として発表。現時点では第4弾までアナウンスされ、ソニックマニアにはフライング・ロータスの主宰レーベル・Brainfeederとのコラボレーションステージが登場することがアナウンスされている。

 

realsound.jp

 

www.barks.jp

 

ロック・イン・ジャパンの出演アーティストはこの記事を書いている時点ではまだ発表されていないが、昨年にヘッドライナーをつとめたB'z、桑田佳祐、サカナクション、RADWIMPSという並びを考えても、よりマスに訴える力を持ったアーティストがヘッドライナーをつとめるのではないかと思っている。
(個人的な勝手な予想では星野源と米津玄師が有力なのではないかと思う)

 

ただ、フェスを巡る言説自体も、5年前と今とでは徐々に変わってきている。このあたりの変化はまだ肌感覚でしか感じ取っていないものだけれど、おそらく、今年の夏あたりから顕在化していくような予感もする。

 

 

 

夏フェス革命 ー音楽が変わる、社会が変わるー

夏フェス革命 ー音楽が変わる、社会が変わるー

 

 

日々の音色とことば 2018/03/14(Wed) 10:42

「笑ってはいけない」と「笑えない」ということの話

 

今日は「笑ってはいけない」の話。

 

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年明けから物議を醸しているけれど、人権とか差別とか、そういう話は置いておいて、あれを観て感じた、今の時代に「笑える」と「笑えない」の基準が変わりつつあるんじゃないかという話。

 

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年末恒例のお笑い番組「笑ってはいけない」シリーズは、今年は『絶対に笑ってはいけないアメリカンポリス24時!』。僕はいつも紅白歌合戦を観ているのでリアルタイムで観てはいないのだけど、後日放映された『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!』で総集編をちょっと観た。

 

www.happyon.jp

 

正直言うと、少しも笑えなかった。

 

前から嫌いだったというわけじゃない。10年前くらいはずいぶん好きで観てた記憶がある。「笑ってはいけない警察24時!」とか「笑ってはいけない病院24時!」とか。「板尾の嫁」みたいな名物キャラクターにゲラゲラ笑ってた。でも、久しぶりに見たら、なんか、いい大人がケツを叩かれたり蹴られたりしているのを見て「あれ? なんでこの絵を見て笑えてたんだろう?」と思ってしまった。昭和のお笑いを見てるような気持ち。

 

あれだ。『ビートたけしのお笑いウルトラクイズ!!』を再放送で観たときの感覚と近いかもしれない。

 

ビートたけしのお笑いウルトラクイズ!!DVD-BOX

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あれも子供のころは大好きだった。でも久々に観た番組は「あれ? なんでこれ面白かったんだっけ?」だった。「リアクション芸」という言葉があるのはわかる。芸人たちが身体を張っているのもおもしろい。でも、罰ゲームと称して人がひどい目にあっている様子そのものに冷めるというか、それを見世物として提供している制作側の視線を感じて笑えなくなった。多くの人が指摘していることだけど、やっぱりこれ、いじめの構造だよね。

 

時代が変わったのだろうか。僕の感覚が加齢で変わったのだろうか。

 

後者の可能性もある。『絶対に笑ってはいけないアメリカンポリス24時!』は、視聴率的には17.3%ということでかなりの好成績だったらしいし。

 

でも、やっぱり時代が変わったのも大きいと思う。何が笑えるか、何がおもしろいか。その基準が変わってきたのだと思う。

 

■海外に問題が広がった「ブラックフェイス」

 

『笑ってはいけない』では、番組内でダウンタウンの浜田雅功がエディー・マーフィに扮して肌を黒くメイクしたことが物議を醸している。

 

www.huffingtonpost.jp

問題はBBCやニューヨーク・タイムズが報じるなど海外にも広まった。

 

www.bbc.com

www.nytimes.com

 

ベッキーに「不倫の禊だ」ということでタイの格闘家がサプライズで蹴りを入れるシーンもあった。それを周りの男性芸人たちが笑いながら見ているというシーンも問題になった。

 

news.yahoo.co.jp

togetter.com

僕としては、今の時代の文脈に即して言えば、ブラックフェイスはもはや人種差別的表現にあたると思う。ベッキーにキックをしたのも、やっぱりいじめの構造だと思う。

 

ただ、僕は別に番組を糾弾したいわけじゃない。じゃあココリコ田中が蹴られるのはいいのか、とかそういうことじゃない。

 

「海外に比べて日本は〜」という話にしてしまうのも一面的だと思う。たとえばオーストラリア出身のお笑い芸人、チャド・マレーンが「笑ってはいけない」シリーズが海外で大人気になっているという話を書いていたりもする。

 

president.jp

 

僕が考えているのは「笑えるかどうか」ということ。笑えるってなんだろう。おもしろいってなんだろう。

 

■誰かを「いじる」ことはもう笑えない

 

少し前、アメリカ在住の作家/コラムニスト、渡辺由佳里さんが「なぜ『童貞』を笑いのネタにしてはいけないのか?」ということを書いていた。

 

cakes.mu

ブロガー/作家のはあちゅうさんが「#MeToo」ムーブメントの広がりと共に過去に岸勇希さんから受けたセクハラとパワハラを告発したことに関して、その一方、自身は「童貞いじり」のツイートやコラムを書いていたことへの考察。すごく参考になる意見だった。以下、引用。

 

多くの「セクハラ」は認識不足から起こる。

やっているほうは、「なぜやってはいけないのか?」を理解していないから、非常に無邪気なのだ。

ゆえに、「ささやかな冗談なのに、それがわからないのはつまんない奴だな」という反応や、擁護が起こる。だから、何度も無邪気なセクハラが繰り返される。

やっているほうは無邪気でも、そのためにイヤな思いをする者にとっては、もしかすると一生の心の傷になるかもしれないのだ。

 

「童貞いじり」をネタにするほうは「でも、私は見下していない。かえって愛情を抱いている」という言い訳をするかもしれない。「そのくらい笑い飛ばせなくてどうする?」と言う人もいるだろう。

 

だけど、愛があれば、処女いじりやゲイいじりもOKだろうか。そうではないことは、置き換えればわかるはずだ。

 

「笑い」は、いじめやハラスメントと隣り合っている。それはれっきとした事実。少なくともかつてはそうだった。「愛があるからOK」なんて擁護がされたりもした。

 

でも、やっぱり時代は変わりつつある。誰かを「いじる」ことは急速に「笑ってはいけない」ことに、そして「笑えない」ことになってきている。

 

昨年に30周年記念で復活したフジテレビ『とんねるずのみなさんのおかげでした。』の保毛田保毛男がいい例だろう。あれはLGBTだったけれど、ああいう風にマイノリティーを見た目や行動で「いじる」という芸は、どんどん笑えなくなってきている。騒がれて問題になるからとか、最近は表現規制が厳しいからとか、そういうことではなくて。デブもハゲもそうで、とにかく「変わっている」ということを指摘して笑いにつなげるような作法の有効性が減ってきている。

 

つまりこれ、時代が変わって人々の生き方の多様性が増えているゆえに、「普通と違う」ということを指摘することの「おもしろさ」がどんどん減ってきているということだと思う。

 

だた、かつてそういうことを「おもしろい」と思っていた側、つまり共同体のマジョリティ側に居てそこから外れたマイノリティを笑っていた側は、「そんなこと、今はおもしろくないよ」とか「許されないよ」と言われると、「おもしろさ」が奪われたように感じてしまうのだと思う。そのことで「面倒くさい」とか「窮屈な時代になった」とか「ポリコレ棒が〜」と反発しているという側面もあるのだと思う。

 

でも、やっぱり僕は、誰かを「いじる」ことはもう笑えないと思うのだ。少なくとも、もっと他に笑えること、おもしろいことは沢山ある。

 

なので荻上チキさんが「保毛田保毛男」問題に絡めて、こういう風に言っているのはすごく同意。

 

それこそ飲み会の場とかで公然と人の身体性とかをいじったり、その人の属性とか、あと過去の生き方とか、そうしたことを公然といじって笑いに変えるってクソつまらないと思います。飲み会の雰囲気としても。それよりも、もっといろいろと楽しさってあるじゃないですか。その中で、なんでよりによってそれを選ぶんだ?っていうものがあって。というようなことは常々思っている。

 

www.tbsradio.jp

 

■「キレイだ」が象徴する新しいおもしろさ

 

 

でも、お笑い番組の側だって進化している。僕はそう思う。

 

少なくとも日本のお笑いの「コード」はここ数年で目に見えて変わってきている。たとえばそれを象徴するのが渡辺直美やブルゾンちえみの活躍だと思う。ゆりやんレトリィバァだってそうだよね。

 

彼女たちは身体性やルックスを自虐的にネタにするようなこともない。周りからいじられることもない。少なくとも僕は先輩のお笑い芸人たちが彼女たちの体型や容姿を「いじって」笑いに変えようとするようなシーンを見たことがない。そうしようとするほうが「サムい」という感覚は急速に広まりつつある。

 

なので、駒崎弘樹さんが上で紹介した『笑ってはいけない』についての批判記事で書いた以下のくだりは、明確にズレていると思うのです。

 

 

 「何を無粋なことを。そんなこと言ってたら、お笑い番組なんて作れないよ」という声が聞こえてきそうです。

 本当にそうだろうか。

 人権に配慮した笑いって、本当につくれないんでしょうか。

 差別やイジメでしか、我々は笑えないんでしょうか。

 だったらお笑い番組なんて、要らないよ、と個人的には思います。

 

news.yahoo.co.jp

 

「そんなこと言ってたらお笑い番組なんて作れないよ」なんてことを思っている制作スタッフなんて、今の時代、きっといないと思います。少なくとも、誰かを「いじる」ことで笑えなくなった時代に、新しい笑い、新しい「おもしろさ」を探る動きは沢山ある。

 

『M-1グランプリ』を筆頭に多くの特番が放送される年末から正月にかけては日本のお笑いの「コード」が更新される時期だと思っているのだけれど、やっぱり今年も印象的だったのは、去年にブルゾンちえみを世に送り出した『おもしろ荘』だった。

 

www.happyon.jp

 

元日の深夜、年越しの『笑ってはいけない』が終わった後に日本テレビ系で放送される恒例の番組。売り出し中の新人が多数出演する『おもしろ荘』で今年1位となったのはレインボーというコンビだった。

 

彼らが披露したのは、実方孝生が演じるキザな「ひやまくん」と、女装した池田直人が演じる「みゆきさん」の二人が織り成す“ドラマティックコント”。これが不思議なおもしろさだった。

 

実方がキメ台詞「キレイだ」を連呼していくうちに、だんだん笑いが生まれていく。最初に見たときは笑いながら「なんなんだこれ」と思ってたけど、その後に内村光良司会の『UWASAのネタ』でもう一度ネタを見てやっぱりおもしろくて、こりゃブレイクするなと思った。でも、コントの筋書き自体はよくある恋愛ドラマを模したものなので、文字起こしを書いてもちっともそのおもしろさは伝わらない。

 

レインボーの「キレイだ」は何がおもしろいんだろう。言い方か。顔芸か。女装した相方をひたすら褒めていることか。

 

今はよくわからない。ただ、番組に出ていた相方の欠点を「いじる」タイプの他のコンビがそこまで跳ねない一方、彼らがブレイクしていくのが2018年という時代なのだと思う。

 

誰かを「いじる」ことで笑えなくなりつつある時代に、やっぱり、新しい「おもしろさ」は生まれていると思うのです。

 

 

日々の音色とことば 2018/01/09(Tue) 07:30

今年もありがとうございました/2017年の総括

例年通り、紅白歌合戦を見ながら書いてます。

 

今年もいろいろあった一年でした。何より大きかったのは、牧村憲一さん、藤井武史さんとの共著で『渋谷音楽図鑑』という新刊を出したこと。

 

 

渋谷音楽図鑑

渋谷音楽図鑑

 

 

去年の11月には単著『ヒットの崩壊』を出したんですが、取り掛かり始めたのはこちらのほうが先でした。

 

あとがきにも書いたんですが、最初の打ち合わせから約1年半、合計100時間以上をかけた収録をもとに制作されています。僕の役目は書き留めることでした。60年代のフォーク草創期。70年代に築かれた日本のロックとポップスのルーツ。80年代の広告文化の爛熟。フリッパーズ・ギターがいた時代。牧村さんが巡り合ってきた時代のうねりが一つの物語になるように編んでいきました。まるでセッション・レコーディングのような単行本の制作作業でした。

 

この一冊は自分にとってもとても大きな体験でした。普段は今のこと、少し先のことを考えることが多いんですが、時代は螺旋のように巡っていく。「温故知新」という言葉があるとおり、この先を見通すために歴史を知るということは、どんなジャンルにおいても大事なことだと思います。

 

昨年に引き続き『ヒットの崩壊』に関するインタビューもいくつか受けたんですが、本当に大きかったのは田中宗一郎さんによるこの取材でした。

 

silly.amebahypes.com

 

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全3万字。対話は本の内容からどんどん外れていって、批評や宗教という大きなテーマに広がっていきました。

 

つまり僕が言っていることって、Googleが掲げた『世界中の全ての事象を情報化する』という使命を『色即是空』として捉えているということなんですよね。だから僕は今、Googleの現状に対して、とても強い失望を抱いている。同時にその根本原理を信じたい気持ちがあるので、とても強い悲しみを抱いている。そういう気持ちを持ちながらGoogleを毎日使っているという感じですね。

 

全ては失われるし、全ては無になる。諸行は無常である。そのことにとても強いセンチメントと信頼を抱いている。それがゆえに、言っていることは全部しんどいのかもしれないんですけど、そこには安らぎがあるんですね

 

プライベートな領域でも、引っ越しをしたり、犬と猫を飼い始めたりで、大きな変化があった一年でした。

 

■2017年はどんな年だったか。

 

年末ということで、僕が担当した2017年を振り返るいくつかの記事も公開されています。

 

gendai.ismedia.jp

 

cakes.mu

 

cakes.mu

 

www.cinra.net

 

「心のベストテン」は1月1日の深夜27:50~29:00にフジテレビにて放送されます。年明けからテレビ出演が決まっていて嬉しい。

 

www.fujitv.co.jp

 

 

■2017年の年間ベスト

 2017年の年間ベストについては、『ミュージック・マガジン』に寄稿しました。

そちらで選んだのがこの10枚。

 

 

ミュージック・マガジン 2018年 1月号

ミュージック・マガジン 2018年 1月号

 
  •  米津玄師/BOOTLEG
  • ケンドリック・ラマー/DAMN.
  • LiL Peep/Come Over When You Sober Pt.1
  • XXX Tentacion/17
  • Cornelius/Mellow Waves
  • 桑田佳祐/がらくた
  • エド・シーラン/÷
  • ぼくのりりっくのぼうよみ/Noah’s Ark
  • 10-FEET/Fin
  • ロンドン・グラマー/Truth is Beautiful Thing

洋楽についてはリアルサウンドに寄稿しました。

 

realsound.jp

 

  1. Lil Peep『Come Over When You’re Sober, Pt. 1』
  2. Kendrick Lamar『DAMN.』
  3. N.E.R.D『No_One Ever Really Dies』
  4. XXXTentacion『17』
  5. Ed Sheeran『÷』
  6. Lil Uzi Vert 『Luv Is Rage 2』
  7. Cashmere Cat『9』
  8. Logic『Everybody』
  9. London Grammar『Truth is a Beautiful Things』
  10. Tuvaband『Mess』

 

■2018年に向けて

 

いろんなところで書いたり語ったりしてきましたが、2017年は過渡期の一年だったように思います。

 

僕の持論で「7の年」には次のディケイドの基盤になる新しいテクノロジーやサービスが生まれるというのがあるんですが、やはり今年もそういう一年だったように思います。ブロックチェーン技術や人工知能の発展。Amazon EchoやGoogle Homeなどのスマートスピーカーが日本でも発売されたことも。おそらく2020年代の社会はこれらの技術で少しずつ変わっていくように思います。

 

その一方で、日本においては、2019年に平成が終わること、2020年に東京オリンピックが開催されることが決まっている。大きな時代の変化が「予約されている」ことで、ある種、社会全体に足踏みしているような印象もありました。これは2018年もそうかもしれないと思っています。

 

個人的にはブログをあまり更新できなかったのは反省。2018年は音楽だけでなくいろんなトピックでもう少しハードル低くいろんなことを書いていきたいな。

 

来年もよろしくお願いします。 

日々の音色とことば 2017/12/31(Sun) 21:48